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読書会の効用:味わって読む力

読書会の効用はいろいろあると思うが、私が特に挙げたいのは2つ。《流して読む力の向上》と《味わって読む力の向上》だ。《流して読む力》については以前書いた。

一方の《味わって読む力》は、「本が好きってそもそもそういうことじゃね?」というツッコミが入りそうだ。もちろん、仕事の関係の本やビジネス書は《味わって読む》というよりは《インプットのために読む》だから矛盾しない。でも、小説、批評、論説、歴史など分野を拡げていったとき、少なくとも私は「あれ? どれくらい味わって読んでいるんだろう」と最近思うのだ。そしてそれはたぶん、3年ほど前から読書会によく参加し、おかげで読書量が高校時代並みに増えたからの気がする。

たとえば、『成瀬は天下を取りにいく』はとても読みやすいし、面白いし、爽快だし、読みすすめるだけで、その爽快さを味わっているともいえる。

でも、川端康成の『雪国』の分解能で、『成瀬は天下を取りにいく』をちゃんと味わったかというと、「ううううん、ごめん。さっさか読んじゃったかも」という気分になってしまうのだ。たとえば『雪国』の冒頭の4行。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」
明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

短い文の組み合わせ。「トンネルを抜けると雪国であった」という一文の明るさと白黒の対比、「夜の底が白くなった」という比喩の面白さ。「信号所に汽車が止まった」では、汽車の動きが動から静への変化するとともに、汽車の得も言われぬ質量感を感じます。風景の中に唐突に現れる娘の明るい呼び掛けと夜の冷気。書き写していても、すごい。

対比するように次のシーンは幻想的で観念的だ。冒頭の娘と駅長とのどこか暖かさを感じる会話とは対照的だ。

鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えたほどだった。

そして、この短い島村の一方的な逢瀬のような盗み見は、次の文で唐突に打ち切られる。それはとても映像的で、まるで映画のワンシーンのようだ。

男が葉子の肩につかまって線路へ下りようとした時に、こちらから駅員が手を上げて止めた。 やがて闇から現われて来た長い貨物列車が二人の姿を隠した。

ものすごく言葉を選ばずにいえば、私は川端康成の『雪国』が小説としては嫌いだ。主人公の一人、島村はどこか投げやりで、しかも偏執的でいけ好かない。島村を介して垣間見える著者の視線も嫌いだ。捻じ曲がっている。少なくとも私にはそう感じられる。『成瀬は天下を取りにいく』の爽快さと真逆なのだ。ただ、《味わって読む》ということの可能性という意味では、『雪国』と『成瀬は天下を取りにいく』は甲乙つけがたいのだ。

「いやいや、そもそも、それは、”梨”と"蕎麦"を比べるようなもんでしょう」という批判も甘んじて受けよう。そう通りだ。そもそも《梨》と《蕎麦》は比べてはいけない。同じ《食べ物》というカテゴリーだからと言って、そもそも比べられないものなのだ。

本当にそうなのだろうか?

完全に受け売りだが、五観の偈という短い経文がある。食前に唱える食する心構えだそうだ。

一つには功の多少を計り、彼の来処を量る
二つには己が徳行の全欠を忖って、供に応ず
三つには心を防ぎ、過を離るることは、貪等を宗とす
四つには正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんがためなり
五つには成道のための故に、今この食を受く

以前、この五観の偈を唱えたあとで、「コンビニで買ってきたあんパンを30分かけて食べてみる」というワークショップに参加した。

なかなか味わい深いワークショップだった。まず、あんパンを30分かけて食べるということが難しい。デブは早食いなのだ。次に30分という時間が長い。ちょっとずつ、ちょっとずつ食べないと仮にデブでも早食いでなくても、やっぱりすぐに無くなってしまうのだ。

『雪国』にせよ『成瀬は天下を取りにいく』にせよ、この五観の偈・あんパンセッションのように読めているだろうか?

《精読》というのともちょっと違う。ひとつの文章の成り立ち、変化、全体での位置づけなどを、あんパンを30分かけて食べるように味わいながら自分は読んでいるかという問いなのだ。

読書会にたくさん参加すると、正直いってクソつまらない課題本もある。味わうもなにも「課題本だから仕方なく読む」こともある。読書に対する冒涜であるという批判を受けても否定できない。

ただね、そういうクソつまんないと自分が感じた本も含めて、たくさん読書会に出て、たくさんの本を読むと、マンゴーにはマンゴーの、納豆には納豆の、こんにゃくにはこんにゃくの、豚汁には豚汁の味わいがあるのだ。

豚汁といって馬鹿にしたもんじゃない。前述したワークショップでは最初、5分かけて干しブドウを食べたのだ。その分解能で豚汁を食べてごらんなさいよ。無限の豚汁世界が拡がるから。たぶん。

《味わって読む》の達人は、三宅香帆氏だと思う。最近は『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』がベストセラーで本屋で山積みになっているけれど、そして、あれはあれでとても面白いけれど、私のオススメは、『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない 自分の言葉でつくるオタク文章術』と『名場面でわかる 刺さる小説の技術』だ。

特に『名場面でわかる 刺さる小説の技術』は、「《味わって読む力》ってこういうことなんだよね」という納得の本だ。講義編と名場面編の2部構成で、講義編のわかりやすさと読みやすさは『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の当社比50倍、名場面編の味わい感度は180%だ。名場面編は一応、理屈と筋道を立てて書かれてはいるけれど、要は『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない 自分の言葉でつくるオタク文章術』のノリ、つまり著者が好きだから、著者が書きたいから書いている感じがストレートに伝わってくる。

しかも、文章がわかりやすくて面白いから、ついつい、「あれ、これ、読みたいかも」と思えてくる。たぶん、私は、この本で紹介されている30冊弱の本を今後片っ端から読んでいくと思う。その意味で、『名場面でわかる 刺さる小説の技術』は、いわば小説のミシュラン・ガイドのようなものになっている。あるいは上質の食べ歩き番組。「ああ、そこに行ってみたい、あ、あれ、食べてみたい」 そう思わせてくれる本なのだ。

そして、そういうことが思えるようになったのは、やはり読書会のおかげなのだ。読書会でいろいろな本を読んでいるうちに、小説にしろ、社会学系の本にしろ、いわゆる筋や理路とは別の《味わい》に近い感覚を感じるようになってきたからなのだ。

たとえば、読書会の課題本として読んだレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』。帯には《思想界に衝撃を与えた構造主義の原点》と書かれているが、が、私には、混濁する意識の現場に偶然に立ち会ってしまったような困惑の感覚を覚える、いわば青春小説のように感じられた。

たとえば、第4部「空飛ぶ絨毯」では、記述は妄想の絨毯に乗って、空間と時間、記憶と感覚をないまぜにしていく。そしてその結果として、ヨーロッパとインド、北アメリカと南アメリカの組み合わせで世界が記述できないだろうかという妄想に至る。ごった煮のような混沌の中に何かを発見できるのではないという予感を混沌の中に感じさせてくれる。

あるいは、第5部「パラナ」の冒頭の下記の文章、ひとつの散文詩として読んだ方が味わい深い。

針葉樹は、葛や羊歯の縺れを突き破って、ヨーロッパの樅の木とは逆の形を空に高く上げている。それは梢に向かった先の細くなった紡錘形ではなく、むしろ反対に――ボードレール好みの規則正しい植物だ――、幹のまわりに枝で六角形の平板を作って重ねながら、それを巨大な繖形花序に開いた最も上のものまで順に拡げているのである。

筋でも理路でもないところに味わいがある。それは短編読書会でより顕著に表れる。小品でもいい。たとえば夏目漱石の『文鳥』。あるいは芥川龍之介『羅生門』。『文鳥』は本当に特に何があるわけでもないが、味わいながら読むと文鳥が本当に可愛いし、冒頭が有名な『羅生門』も、最期の一文など男が一体どちらの方向に向けて歩み去ったのか、その違いによって味わいと読後感は大きく変化してしまう。

とは言っても、読書会では、「ああ、この課題本、クソつまんない」と耐えられない気持ちになることがないわけではない。それは本が悪いわけでも私が悪いわけでもない。たまたま相性が悪かったのだ。世界人類のすべてを好きになる必要はないのだ。


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