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皮肉に満ちた趣きのなかで:ボルヘス『死とコンパス』

世界には隠された秘密がある。そう考えた方が面白いことは間違いがない。『死とコンパス』の登場人物の一人、レンロットもこう言っている。

真実はおもしろくある義理はない、とおっしゃりたいのでしょう。わたしは、真実にはその義理はないが、仮定の場合はそうではない、と反論したいですね。

ボルヘスの短編『死とコンパス』は、モノクロ画面やスタイリッシュな構図が多用された犯罪映画《フィルム・ノワール》の雰囲気に満ちている。

たとえば冒頭で殺害されるマルセル・ヤルモリンスキー博士に関する説明の以下の文章がその例となる。

最初の犯罪は北ホテル──水が砂漠めいた色を帯びている河口を見下ろす、あの高いプリズム──で起こった。十二月の三日、この塔(病院のぞっとしない白と、刑務所の番号のついた独房と、娼家のありきたりの外官をすべてそなえていることで知られた塔)に、第三回律法会議のポドルスク代表、マルセロ・ヤルモリンスキー博士がやって来た。

日本語に翻訳されていることを考慮しても、実のところこの5行ほどの文章は、端的には、
1. 最初の犯罪は北ホテルで起こった
2. 12月3日に、この塔(北ホテル)にヤルモリンスキー博士はやってきた

という身も蓋もない事実が述べられているにすぎない。

つまり、以下の修飾節、すなわち

水が砂漠めいた色を帯びている河口を見下ろす、あの高いプリズム
・病院のぞっとしない白と、刑務所の番号のついた独房
・娼家のありきたりの外官をすべてそなえていることで知られた塔
・第三回律法会議のポドルスク代表

はすべて雰囲気のためにある。レンロットであれば、「それこそがディテールであり、ディテールにこそ本質は宿るのだ」と表現することだろう。

ボルヘスの短編『死とコンパス』はとても短い作品だが、面白い小説なのだ。もしかすると、最初に読んだときは単純な探偵小説もどきと感じるかもしれない。あるいは、2度目に読んだときは、皮肉に満ちた少し意地悪な小説と読めるかもしれない。そして3度目には、それらすべてを含めて、なかなかに趣深い小説だと思うことだろう。少なくとも私はそうだった。

2度目に読んだときに感じる皮肉に満ちた感触は、たとえば、冒頭の段落のこんな表現にある。小説冒頭の段落はこう始まる。

レンロットの恐るべき明敏な頭脳を実地に試すことになった多くの問題のなかで、ユーカリの絶えることのない香りにつつまれたトリスト=ル=ロワの別荘でクライマックスに達した、周期的かつ連続的な血なまぐさい事件ほど奇妙なもの──奇妙きてれつ、といってもよいもの──はない。

そして、冒頭の段落はこう終わる。

レンロットは純粋な理論家、オーギュスト・デュパンに自分を擬していたが、しかし彼のなかには冒険家的なところや、いかさま師めいたところもあったのだ。

段落の終わりに記されたレンロットの性格こそが、この物語の重要な推進力であり、段落の冒頭に記された《明敏な頭脳》と評された部分こそレンロットの間抜けさの現れといえる。

ちなみに、この小説は、ゼノンの逆説のひとつ、《アキレスと亀》についてのレンロットの言及で終焉する。レンロットは犯人と対峙してこう言う。

お前の迷路には三本、余計な線ががある。ギリシアの迷路を知っているが、これは一本の直線だ。その線のなかで、実に多くの哲学者が迷った。一介の刑事(ディテクティブ)が迷ったって、ちっともおかしくない。

それに対する犯人の答えは、こうだ。

この次あんたを殺るときは、一本の直線でできてて、目に見えなくて、切れ目もない、迷路で殺るよ。約束する

わたしは、犯人のこの言葉を”路地裏の薄暗いまっすぐな道"でという意味に取ってしまった。しかし、たぶんそれはレンロットが犯したのと同様の誤読だろう。『死とコンパス』の読書会で別の方が言っていた《それは銃弾の比喩》が正解だと、いまの私は思う。

ちなみに、《アキレスの亀》の話の級数は収束するので、そこもまた身も蓋もないことは言うまでもない。

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