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過去の自分は自分か?

かなり前に書いたものを読み返すと、自分が何に怒っているのか、何が嫌だったのかがまったく思い出せない。自分であっても、あのときの自分は他人でもある。

2008年に私は、中島義道「哲学の教科書」を読んだらしい。そしてかなり不満げだ。


中島義道「哲学の教科書」読了。かなり我慢して読む。

それなりに歯切れはよいが粗雑な論が、正直にいえば、駄目だめなのだ。著者のいろいろと書きたかった気持も、そう書きたかった気持も、なんとなくはわかる。がそれ以上の共感につながらない。いや、正確には、私には共感できなかった。

非常に簡単化して言いますと、哲学とはあくまでも自分固有の人生に対する実感に忠実に、しかもあたかもそこに普遍性が成り立ちうるかのように、精確な言語によるコミュニケーションを求め続ける営み、と言えましょう。哲学的議論は、一方で普遍的な論証の形をとりますが、他方でそれが論証として成功していてもそれだけでは充分ではなく、個人としての相手の実感に訴えかけなければならない。全身で「なるほど」と思わせなければならない。いかに論理的に非のうちどころがなくとも、多くの人の実感に響いてこないような理論、おもしろみのない理論、インパクトのない理論は浜の真砂のようにあります。

中島義道「哲学の教科書」p120

せっかく、そう言っているのに、言葉と論理が粗雑では台無しだ。論理が飛躍しすぎているところにポストイットをつけていったらなんだか精読した本のような体裁になってしまった。

教科書として、人々を誘う、つまり騙すなら、引用しているモンテーニュの文の方がずっと上手だろう。

われわれは言う。「彼は無為の中にその一生を過ごした」「ぼくは今日何もしなかった」---と。冗談ではない。君は生きたではないか。それこそ、君たちの仕事の根本であるだけでなく、その最も輝かしいものではないか。--- 「もし大事業をする好機が与えられたなら、ぼくもこの腕前を見せてやったのに」と君はいうが、もし自分の生活を考え導くことができたのなら、それだけで君はあらゆる事業のうちの最も偉大な事業を成しとげたことになる。・・・・われわれの偉大で光栄ある傑作とは、ふさわしく生きることである。そのほかのことは、統治することも、お金をためることも、家を建てることも、皆、せいぜい付帯的二次的な事柄にすぎない。

中島義道「哲学の教科書」p253

そして、教科書なら、ここで問うべきなのだ。「論証せよ」と。そういう意味で、フルキエの「哲学講義」の方が、やっぱりずっと面白いや。


「哲学の教科書」を読み返したら私は何を思うのか。やっぱり怒ってしまうのか、それとも、過去の自分とは違うのだから、いや、あれは私の間違いでしたと思うのか。

いずれにせよ、「そんなにカリカリしなさんな」という気持ちにはなった。

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