過去の自分は自分か?
かなり前に書いたものを読み返すと、自分が何に怒っているのか、何が嫌だったのかがまったく思い出せない。自分であっても、あのときの自分は他人でもある。
2008年に私は、中島義道「哲学の教科書」を読んだらしい。そしてかなり不満げだ。
中島義道「哲学の教科書」読了。かなり我慢して読む。
それなりに歯切れはよいが粗雑な論が、正直にいえば、駄目だめなのだ。著者のいろいろと書きたかった気持も、そう書きたかった気持も、なんとなくはわかる。がそれ以上の共感につながらない。いや、正確には、私には共感できなかった。
せっかく、そう言っているのに、言葉と論理が粗雑では台無しだ。論理が飛躍しすぎているところにポストイットをつけていったらなんだか精読した本のような体裁になってしまった。
教科書として、人々を誘う、つまり騙すなら、引用しているモンテーニュの文の方がずっと上手だろう。
そして、教科書なら、ここで問うべきなのだ。「論証せよ」と。そういう意味で、フルキエの「哲学講義」の方が、やっぱりずっと面白いや。
「哲学の教科書」を読み返したら私は何を思うのか。やっぱり怒ってしまうのか、それとも、過去の自分とは違うのだから、いや、あれは私の間違いでしたと思うのか。
いずれにせよ、「そんなにカリカリしなさんな」という気持ちにはなった。
訪問していただきありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い申し上げます。