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「スポーツってそもそも何よ?」という本質的議論の蓄積がない"Bukatsu"社会

【「試合がないとスポーツしない」日本の学生:未成熟な基本議論「スポーツって何よ?」】

 学生とのゼミ合宿でやった「そもそも論(贅沢しゃべり)」のテーマに「スポーツって何よ?」というのがあった。
 専修大学法学部岡田憲治ゼミナールは、「市民社会(団体)」研究がテーマなので、地域の社会基盤に貢献するJリーグやBリーグなどの「クラブ・スポーツ」や、欧米で一般的な、いわゆる「ソシオ」制度なんかを研究している学生もいて、その際にやはり本質的な議論が必要だと考えて、「そもそも論」をやったのです。

 すると、なんと帰京後にちらりと新聞開いたら我が心の師匠山口香さんが、この点についてドンピシャのメッセをお示し下さったというわけです。
(「スポーツって何?」本質的な議論が未熟 山口香さん:20022年9月11日、朝日新聞朝刊)

 子供が中学の部活(野球部)に入って以来、(それ以前からずっとでもあるが)「なんで日本の"Bukatsu"(英語に翻訳不能)は、4-10月はベースボール、11-12月はフットボール、真冬は温水で水泳・・・というふうにシーズンスポーツ・システムを採用しないのか?」という疑問は募る一方なわけです。

 学校スポーツのほとんどが「三年の最後の試合が終わったら辞める」で、あとはせいぜい「1、2年生の練習付き合って、それも終わったら、ブァーーーー!って太って、入試やって卒業式やっておしまい」みたいなサイクルを延々繰り返しています。最大の理由は「もう試合がないから」です。

 しかし、山口師匠が指摘するように、「試合なくてもやりゃいいじゃん。だってその競技そのものが面白いんでしょ?」と思うわけです(その意味で、試合終わるともうやらない=トーナメントばっかの勝利至上主義、というものとの裏表の関係すら感じます)。

 これまでも繰り返し言ってきましたけど、やっぱり日本の若者のスポーツは「学校スポーツ」という謎のカテゴリーに押し込められていて、「スポーツそのもの」と向かい合うのではなく、「部活に入る」・・・つまり「何かのために(青少年の健全な育成!)やる」という「道具主義」で150年やってきてるから、「どうしてスポーツは素晴らしいのだろう!?」という言葉の蓄積がないのです。
 ゼミの学生も、気がつくと「友達ができたり、やっぱ勝つことの感動とかのためにぃ・・・」と、悪意もなく「何かのためにあるスポーツ」の話になってしまいます。その度に、「何かのためじゃなくて、”スポーツそのものがもたらす喜び(joy)”について話そうよ」と修正します。もう、後発型近代国家の「育成のための手段」が、実に皮肉なことに身体化してしまっているんですね。

 日本のローティーンから18歳くらいまでの人たちは、僕から見れば(もちろん全ての人じゃないですけど)「スポーツをやっている」のではなく、いわば「相撲部屋に入門している」みたいなのです。だから、中体連は「兼部する」ことに対して実に不寛容だし、「あいつは野球部なのに陸上部もやっている。どっちかはっきりしろ!」みたいなことになります。「お前は二所ノ関部屋だろ!どうして立浪部屋の人間みたいになるのか!?」なんていう感じでしょうか。どこのムラに所属するかではなくて、何をして幸福な顔をしているのか?大切なのは、ここでしょ?

 息子は野球部ですが、「真冬の2月に野球やっても、いいことなんて何もないんだから(寒さで怪我しやすくなる)、下半身強化も考えて、12-2月はサッカー部に入れてもらえよ」とダメ元で言ってみたりしますが、どうにもそんなことができるなんてはなっから思っていないのです。「兼部するための手続きがよくわかんないし」とか。

 数ヶ月前に、元レッドソックスの岡島投手と一献傾けたのですが、「真冬にベースボールやって良いことなんて何にもないですよね?」と尋ねると、「おっしゃる通りです。アメリカの子供たちは2月にベースボールなんてやりませんし、学校も地域もそういう指導です」と。現役最後に肉離れで苦しんだ経験からも、シーズンスポーツを薦めていました。

 「何かのためのスポーツ」ではなく、「スポーツそのものの喜び」を共有することで、「軍事訓練の一環としての武術」みたいのものから完全離脱して、「体が動き続けるまで生涯やり続ける幸福な活動」になる日が来るまで、私はこれを言い続ける次第です。

 みんな。大好きなベースボール(フットボール、バスケットボールetc.)は、やりたいときにやろう!そして、大人はそのための条件整備にカネもエネルギーも使ってあげよう!

 いわずもがなのいつもの物言いでした。

 

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