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桶狭間の合戦 ~ 雨が分けた命運 ~

永禄三年 庚申 五月十七日

 「あちらに湧き水がございます。」村の長老は指を差した。そちらの方にともに歩いて行くと、滾々と水が湧き出る泉があった。あちらこちらに池もあった。
「水には困らないな。」氏俊はつぶやいた。この辺りの草木を払って陣所としよう。
 瀬名氏俊は義元から「人馬を休めるのに適当な場所を探せ」と命じられていた。午後の日差しが心地よく感じられた。
「ここで謡でも始めるかもしれないな。」義元の性癖は、氏俊にはよく分かっていた。
 長福寺から北へ2町余りの所であった。長福寺の和尚には、「夜は義元が泊まらせてもらうことになるかもしれない。」と話をした。義元のための 陣所の準備が終わると、長福寺近くの高台に氏俊の軍勢は陣取った。そこからは水野信元の居城がある南方面をよく見渡すことが出来た。北方面は丘陵があちらこちらにあった。その間を街道が通っていて、登ってくる者を確認することが出来た。
 長老から事情を聞いた男衆が肴を持ってきたので、氏俊は持参してきた酒を逆にふるまった。初めは恐れて隠れていた女子供達も、氏俊の軍勢が乱暴を働きそうもない様子だったので、顔を出し始めた。老婆に「何しに来やあした?」と聞かれても、氏俊は「駿河のお屋形様のために陣所を作りに来た。」と気さくに答えていた。どう見ても今川の者だし、先程までしていた行動の意味は、見ていたら分かるはずなので、いまさら隠すまでもなかった。
 氏俊は義元の父氏親に仕えていた。義元が家督を継いだばかりの頃に、 叛意を抱いているのではないかと疑われて以来、あまり重用されていなかった。しかし、太原崇孚がいなくなった今、陣立てと住民の懐柔を期待されて送り出されていた。
 
 ここは長坂道を登り切った所。ここから北西へ下ると鳴海方面へ出る。南へ少し行くと大高道に出る。さらに南は、水野信元の居城がある緒川へとつながっている。この辺りを織田方に占拠されると、大高と沓掛や池鯉鮒との交通が分断される。だから逆に急所は先に塞いでしまおうという話である。北西から南東方向へ、街道沿いの丘陵に軍勢を配置していく。最後尾が義元本隊となる。後側は大丈夫かって?水野信元が織田方から離反したので安全である。(たぶん)
 もし織田軍が攻め登ってきたら、上から叩いてやろうという算段であった。また、善照寺砦に対して、西からは鳴海城軍、南東からは今川遠征軍とで、挟み撃ちの恰好になる。鳴海城を囲んでいるはずの善照寺砦が逆の立場になる。

 実は先年にも今川軍の尾張出撃計画があった。尾張守護である斯波義銀は信長の傀儡であることに不満を抱き、名実ともに尾張の守護になりたいと 思っていた。そこで義銀は今川義元と謀り、信長追放を目論んだ。於田井川以北を義銀に、於田井川以南を義元に分割する計画だった。那古屋城はもともと義元の父氏親が築城したものであり、今川氏豊を今川那古野氏の養子にし、城主としていた。それを信長の父信秀が、連歌会の催しにつけ込んで 計略で奪い取っていたのであった。斯波氏にとっても、今川氏にとっても 旧領回復をしたという大義名分が立ち、それほど室町将軍の反感を買うことはないだろうという思惑だった。室町将軍義輝は、三好一党の勢力を畿内から追い払うために、誰か有力な武将が軍勢を引き連れて上洛してくることを望んでいた。信長も候補の一人であったので、信長への攻撃は室町将軍の 機嫌を損ねる恐れがあった。
 だが、その計画は信長の知るところとなった。信長にとって義銀は利用価値はあった。が、義銀を推戴して信長に歯向かう者が現れる恐れも常にあった。時が経つにつれて、後者の恐れの方が大きくなり、信長も義銀のことを邪魔に思うようになっていた。そこに敵である今川と通じたという大義名分が転がってきた。そうして尾張守護斯波義銀は追放された。そのため、その年の今川軍の出撃は取りやめとなっていたのであった。

 「はたして織田勢はここまで辿り着くことが出来るか。」と氏俊が考えていたところに、陣中に男が訪ねてきた。顔なじみである。
「陣中見舞いでございます。」簗田からの使いの者であった。
「ははは。それはそれは。では、お前も酒を飲んでいけ。」
「任務中にてその儀は。」
「まあ一杯飲んでいけ。
「は。では一口だけ頂きまする。」
氏俊は「義元から陣所の用意を仰せつかった。」と、出立前に簗田に文を出していたのであった。

 簗田は斯波義統の家臣だったが、義統横死後は義銀に仕えていた。先年の義銀復権計画の折、実際に奔走する家臣同士で連絡を取り合ったのがきっかけで、今も氏俊と簗田との間で文を交わし続けていた。義銀は追放されたが、簗田はそのまま残って信長に仕えるようになった。
「これからは儂のために存分に働け!」ということで、平手政秀にちなんで「政綱」という名乗りを信長から与えられたという噂話があった。案外、 本当の話だったのかもしれない。
 簗田政綱との文通の件が義元の知るところとなり、「いかなる所存か」と問いただされたことがあった。「信長に信用されている男であるからこそ。」と、氏俊はその場は言い繕った。織田家中はまだ安定しているとは言えず、信長に心服していない者も多かった。そうした者に今川方から誘いをかけていた。

 氏俊は席を外し、簗田政綱からの使者と連れだって長福寺の方へ向かった。村は餅や肴の準備におおわらわだった。村を荒らされないよう、今川軍を歓待するためであった。


永禄三年 庚申 五月十八日

 織田方と全面衝突する場合に備えて、義元は大軍を率いてやって来た。 だが、今のところ信長は砦の支援には駆けつけて来てはいなかった。また、大高城の南側にあった砦に水野信元の家臣の軍勢が詰めていたが、今川勢が接近してくると砦から退去した。織田方は丸根砦から兵を繰り出して来たが、今川勢の人数が多いのを見て退散した。そのため、今川勢はたいした 抵抗も受けずに大高城に入ることが出来、兵糧入れという目的は果たした。
 義元は諸将を引き連れて丸根砦と鷲津砦とを検分した。その後、諸将と協議をした。砦を攻め落すか否かである。
「何かと此方の行動の妨げになるゆえに、砦を潰すべき。」
「此方の方が軍勢が多いのに、小さな砦の一つや二つ落さずに帰れば、まるで臆病風に吹かれたように見える。それゆえ、ここで一戦を。」
「力攻めは味方の損害も大きくなる。」
「せっかくここまで大軍を率いてやって来た。大掛かりな動員というのは、なかなか出来るものではない。このたびも田植えが終わる時期まで待った。」

 義元自身としては戦果が欲しかった。今までの大きな戦は、ほとんど太原崇孚が指揮を取っていたので、義元自身は実戦経験があまりなかった。太原崇孚亡き後、義元自身で大軍の采配は出来るのであろうかと、国の内外でも思われていた。そのことは義元も感じ取ってた。「勝ち」がどうしても欲しいという気持ちが、義元にあった。
 協議の結果、明朝に両砦を攻撃することが決まった。


永禄三年 庚申 五月十九日

 義元は松平勢の戦いぶりを見ていた。「いっそ鉄砲の弾にでも当たって 元康が死んでくれれば。」そういう思いもあった。このまま今川家に忠節を尽くしてくれれば、頼もしい武将ではあった。
 やがて鷲津、丸根の両砦は落ちた。今川方は砦周辺を掃討した。戦闘結果だが、丸根砦を攻めた松平勢の損害は大きかった。譜代の家臣が何人か戦死していた。それは義元の狙いでもあったが。鷲津砦を攻撃した朝比奈泰朝が、弾に当たり負傷していた。
 その後今川勢は前進して、中島砦とは目と鼻の先の丘まで進んだ。その丘からは、川を挟んで中島砦を見下ろすことができ、善照寺砦もよく見ることが出来た。信長はまだ、来る気配がなかった。その場所でまた、義元は諸将と協議を始めた。まずは、大高城の守将を誰にするかであった。長々と議論をしていたが、最後は松平元康に決まった。もうひとつは、中島砦と善照寺砦を攻めるかどうかであった。
「砦に籠っている兵数は少なく見える。」
「信長が出てこないのなら、余勢を駆って一挙に砦を潰してしまいましょう。」
「善照寺は先の砦よりも守りが固い。力攻めすると此方の損害がもっと大きくなる。」
「信長の出方を少し待ってはいかがかと。」
「では例の計らい通りに陣立てして待つということで。」
「いや、あまり長い間三河国内を空けておくと、また叛乱を起こす者が現れるかもしれない ので、早く帰国した方がよい。」
 これもまた長々と議論をしていたが、取りあえず長坂道に入ることにした。周辺の丘に兵を配置した後、義元を乗せた塗輿は、見せびらかすように中島砦の目の前をゆっくりと横切っていった。そして、背を向けるように長坂道を上って行った。

「なかなか良い所じゃな。」義元は氏俊に声を掛けた。
「お気に召されましたか。」
「うむ。ご苦労であった。」
緩やかな斜面にちょっと広い野原が広がっていた。池が目の前にある。
「心地がよいな。」義元は上機嫌だった。
そこへ小姓がやって来た。
「お屋形様、地元民がご挨拶をしたいと言って来ておりますが、いかがいたしましょうか。」
「ん。連れてまいれ。」
すぐに、小姓が村の長老を連れて来た。
「瀬名様から、お屋形様がこちらにおいでになるとお聞きしましたので、酒、肴、餅などを 用意してお待ちしておりました。」
「それは殊勝な心がけじゃ。我が軍勢は乱暴狼藉などはいたさぬ。安心  せよ。」
「ありがたき幸せと存じまする。」
村の長老は下がっていった。
「ではここで昼食とするか。」
 義元本隊は上の者から下の者まで、村人が用意した食べ物を楽しんだ。 雑兵らは、槍や弓などを木に立て掛け、具足も外してすっかりくつろいで いた。
 義元は食事が終わると、謡を始めた。それは義元の趣味であるとも言えるが、戦死者の鎮魂、戦勝祈願の意も含まれていた。
 北西の方角から黒い雲が近づいて来ており、遠くから雷の音が聞こえてくることに気付いた者達がおり、「雨が降るのだろうか。降れば少しは涼しくなるのだろうか。」などと言い合っていた。暑い日ではあった。
 義元は謡を終えると瀬名氏俊に、大高城に居る松平元康への伝言と、それが済んだら沓掛、池鯉鮒方面への通行の確認を命じた。
 そこへ早馬がやって来た。
「御注進。織田の兵三百余りが我が軍に攻めかかって来ましたが、覆い包んで殲滅しました。敵将二人の首を取りました。」
それを聞くと義元は「心地良し。」と言って、また謡を始めた。その頃には、雷鳴がだいぶ近づいてきており、北西の方から冷たい風が吹き始めていた。やがて、雨粒がポツリポツリと落ち始めたかと思ったら、すぐに雹交じりの激しい雨が降って来た。風の方も物凄かった。陣幕や旗が吹き飛ばされないように旗本や小姓達が必死になって押さえていた。
 雑兵たちは、木立の中へ散り散りとなって雨宿りをしていた。誰もが今、戦いの最中であることを忘れ、無心となって雨が止むのを待っていた。
 やがて西の空が明るくなってきて、雨の降り方が弱くなってきた。この雨で兵たちの緊張感もすっかり洗い流されていた。雲が移動し青い空に覆われてきて、日が差してきた。雨もほとんど止んできて、兵たちはほっとした気持ちになっていた。
 その時、「わあああっ。」という喊声が北の木立の方から聞こえてきて、人影が飛び出して来た。それらは野原いっぱいに広がりながら、こちらに向かってくる。何事が起きているのか一瞬分からなかったが、それが敵兵であることに気づいた。雑兵たちは武器や具足を取る暇もなく、散り散りに逃げ出した。
 異変に気付いた旗本が義元に知らせに来た。義元は急ぎ塗輿に乗り込んだ。南の長福寺の方へ向かったが、地面が雨でぬかるんでいて思うように動けなかった。喊声がさらに近づいてきたので、義元は塗輿から降りて徒歩で移動し始めた。ふと前方を見ると、木立の間に人影があるのに気付いた。 地元民が手に手に槍や弓などの武器を持っていた。先程会った村の長老の姿もあった。長老はこちらの方を指さしている。両脇の若衆達が鉄砲の筒先をこちらに向けていた。銃口が白い煙を吐き出してから音がした。目の前を歩いていた旗本が膝から崩れ落ちた。そして、背後から迫って来ていた敵に追いつかれ、義元達は囲まれてしまった。義元達は身動きが取れなくなっていた。外側から旗本の壁が少しずつ剝がされていった。やがて義元の周りいる旗本は疎らになった。銃声とともに義元の鎧に衝撃が走った。そして一人の若武者が槍を突きつけて向かってきた。義元は太刀でそれを払い、返す刀で若武者に切りつけた。その若武者は膝から崩れて転がった。その時、背後に人の気配を感じた。義元が振り向こうとした時、脇腹に衝撃を感じた。槍を突き立てられていた。義元は体勢を崩して膝をついた。そこをその新手の若武者に突き倒された。その若武者はそのまま義元に馬乗りになった。右手には鋭く光る鎧通しが握られていた。義元は必死になってもがいていたが、やがてその鎧通しは義元の体に突き刺さされた。


(天文廿一 壬子) 五月十七日

 清須城下では、様々な噂が飛び交っていた。
「信長の殿は、水野信元に離反されて意気消沈されているようだな。」
「何しろ大高城へ兵糧を入れに来た松平元康の軍勢を、こっそり通したこと       が信長の殿の耳に入って、水野信元は殿から叱責を受けたという話     だ。」
「それが原因で水野信元が離反したというのか。」
「他の今川勢が兵糧入れに来ると通せんぼをしたのに。」
「信長の殿は籠城するおつもりなのか。」
「今川方に内通している者がおるかもしれん。」
「信長の殿が留守の間に城を乗っ取るとか。」
「今川の別動隊が城に攻めてくるかもしれん。」
「おお、くわばらくわばら。それで信長の殿は動けないのか。」

 五月十八日 清須城内

 信長は渡された図をちらっと見た。「松井宗信が一番近くか。」
それは、瀬名氏俊から簗田政綱に使者に渡された書状に添えられた略図であった。義元の本陣と、各丘に誰を配置するのかが書き記してあった。陣立ての予定であろう。細作からも、瀬名氏俊が長福寺の近くに陣取っているという情報は得ていた。
 信長と政綱はしばらく話し込んでいた。やがて、信長は図を政綱に返して送り出した。
 
 夕刻から丸根、鷲津砦からの注進が相次いだ。援軍を出しにくい、翌十九日早朝の満潮時に砦を攻めて来るに違いないとのことであった。
「丸根、鷲津からも兵が退去してしまっては、大高城を取り囲むすべての砦が戦わずして落ちることとなる。織田方は今川の大軍を見て臆病風に吹かれたと物笑いになる。適当にどうにか戦って、頃合いを見て逃げ延びてくれ。」信長はそう思っていた。
 
 その夜軍議は開かれたが、特に軍立ての話などはせず、世間話などをしていた。信長はやがて「夜も遅くなったから。」と言って、家臣を帰らせた。
「運の末となれば、智慧の鏡も曇るとはこのことよ。」と、家老たちは嘲笑して帰って行った。


(天文廿一 壬子) 五月十九日 午剋

 信長は、川向こうの高台に展開している今川の軍勢を見渡した。それから激を飛ばした。
「各々よく聞け!あの武者らは昨日の晩から兵糧を使い、夜通し走って大高へ兵糧を入れ、鷲津丸根にて戦い、辛労して疲れきった武者である。こちらは新手である。それから、『小軍、大敵を恐れることなかれ。運は天にあり。』という言葉を知らぬか!かからば引け、退けば引き付けよ。とにかく練り倒し、追い崩せ!分捕りはせず、首は打ち捨てにせよ!この一戦に勝てば、この場にいる者の家の面目は末代までの功名じゃ。ただひたすらがんばれ!」
 これを言い終わると信長は中島砦を飛び出した。その後を小姓、馬廻りの者など信長直属軍が続いて出て行った。
 佐々達は、敵の懐奥深くに一気に入り込み過ぎてしまった。それで包囲殲滅されてしまった。信長は、進んでは止まり、進んでは止まりをして、少しずつ敵との距離を詰めていこうと思っていた。とにかく一人でも多くの敵を倒そうと思っていた。国元には一人でも多く帰さない。そうすれば敵は少しでも弱体化する。それで首は取らずにひたすら敵を殺せと命じたのであった。

 信長達が敵に近づいたところ、俄かに雹交じりの激しい雨が降りだした。風も凄まじかった。敵は雨が顔面に当たり動きが鈍った。かと言って、このまま敵中に突っ込んで行っても、視界が悪すぎて敵味方の区別がつきにくく、統制が取れそうにもなかった。
 信長は「こっちだ。ついて来い。」と言って、東に向きを変えて突き進んでいった。
 やがて近崎道の登り口までやって来ると、そこに簗田政綱がいた。
「殿、どうしてこちらへ。」
「あちらの敵は雨風で動けぬ。こちらから一緒に攻める。」
 簗田政綱は近崎道から別動隊として長福寺に向かって進む予定であった。沓掛方面の押さえとして展開していた部隊も合流していた。彼らは口々に言っていた。
「沓掛峠の二、三抱えもある楠が風で倒れた。すごい風だった。」
 別動隊の一部は既に近崎道を登り始めていた。しかし、狭いので一度に大勢は登ることは出来ない。信長の軍勢は道なき斜面を這い登り始めた。先行していた兵が道案内となった。


 (天文廿一)壬子 五月十九日

 今川勢にとっては、塗輿が通ることが出来るのが「道」であった。そうでないものは、「道」だという認識がなかった。おそらく近崎道は今川勢の 眼中に無かった。
 東の空で、先程雨を降らせた入道雲が白く輝いていた。信長は村人達に 礼を言い、散乱している敵の遺体を埋葬するように命じた。そして金品を 置いて、村人達で分けるように言った。そしてまだ明るいうちに引き上げた。あまり長い時間清須城を空けておきたくなかった。
 帰る道すがら、兵たちは熱田大明神が雷神風神を遣わして敵正面に当たってくれたと言い合っていた。信長はこの大勝利に感謝して、熱田神宮に塀を奉納した。
 それは現在でも信長塀として熱田神宮境内に残っている。


1560年 6月12日 午後 大高城

 松平の兵たちは、昨日の兵糧入れ、今朝の戦いで疲れ切っており、ほとんど皆、眠りこけていた。
「次郎三郎殿。」瀬名氏俊は呼びかけた。
「はい。」
「じっと堪えていれば、機会は必ずやってくる。それを逃してはなりませぬぞ。」
「はい。」
松平元康は沓掛へと向かう瀬名氏俊を見送った。氏俊は元康にとって、舅の実兄にあたる。
元康はこれからどんな運命が待ち受けているのか、知る由もなかった。その時は。


  


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