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今川義元の進軍ルート

 カエサルのように、信長が口述筆記したものを残してくれていれば
良かったのだが。まあ、それは信長には必要がないから仕方がない。
 一方、義元本人が戦死しているし、主要部将も戦死しているから
詳細を語ることが出来る人がいない。また、今川方にとっては不名誉
な事件だから、余計記録が残っていない。

 三河物語は大久保彦左衛門こと大久保忠教が書き残したものだ。
信憑性は定かではないという評価だが、根も葉もない話をわざわざ
でっちあげることはないだろうと考える。
 三河物語によると、沓掛城には守備兵の補強を入れて、義元を含む
今川勢は池鯉鮒から直接大高城へ向かったということになっている。
 合戦前日の5月18日には義元は大高城に到着したことになっている。
「棒山(丸根砦)をつくづくと巡見し」という記述がある。
また、松平元康に「棒山(丸根砦)を攻め取れ」と命令したりしている。
松平元康に命令する権限があるのは、義元本人くらいしかいない。
義元の眼前でなければ、元康が自らの身を危険にさらし、重臣を何人も
失うほどの激しい戦闘をわざわざすることはないだろう。
 目に見える事象、実際に今川軍が取った行動は、比較的正確に記述
されているのではないかと考える。身内の活躍などは多少話を盛ってい
る可能性はあるが、どうでもよい今川家のことで、わざわざ話をでっち
あげた可能性は低いと考える。
 三河物語では、砦を落とした後はさっさと三河へ引き上げればよかった
のに、などと書いてある。三河の武将の視点では、義元が頭の中で考えて
いたことまでは見通すことは出来ないだろう。

 通常、今川義元は沓掛城を出てからそのまま桶狭間へやって来て
そこで休憩した、ということになっている。織田方の大方の認識は
そうだったのだろう。信長自身がどう認識していたのかは分からない。

 砦を落とした後の行動だが、砦跡の確認をしつつ、残党を掃討しがてら
中島砦の目と鼻の先まで進軍したことにした。それから背を向けるように
桶狭間方面へ向かう。後の三方ヶ原の戦いで武田軍が取った行動みたいに。
信長がそのまま打って出てこなければ、今川の大軍を見て怖気づいたと
嘲笑しながら、三河に引き上げるつもりだったのかもしれない。


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