『異邦人』の動画を見た
あれだけ書いてまだ書き足りないんかい!と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、自分でもほんとうにそう思います…笑
でも、やはり何度か動画を視聴しているうちに気づかされたことがいくつか出て来たので、まとめておきたいなあと。
もう、たぶん、これで最後です!(たぶん…)
例にもれずネタバレしてしまうと思うので、未読・未視聴の方はご注意ください。
また、以前書いた記事の流れを前提に書き進める箇所も出てくると思うので、ご了承ください。
まずは、めれんげさんの動画から。
こちらの動画では、オリジナルキャラクターであるスミスを通して、めれんげさんが『異邦人』をどう受け止めたかを示されている。
やはり、いちばんいいな、と思ったのはラストの展開です。
スミスは最終的に、自分の尺度で物事を計らず、「ムルソーの道理」を尊重した。この着地に関して編集後記のかわりだとされる動画の中で、「スミスは自分の価値観を捨てた」と説明されていた。
原作中で、誰もできなかったことだなあと思った。さらにいえば、司祭が、予審判事が――もっといえば世間が、ムルソーにさせようとしていたことでもあったと思う。「自分の価値観を捨てて世間の価値観に迎合しろよ」と。「それが社会で生きるってことだぞ」と。
ところで、わたしはめれんげさんの動画を繰り返し見るうちに、「ムルソーのもつ「近々死ぬ」という決定事項の重要性」に、ふと意識が向いた。それはどういうことかというと、ムルソーに「近々死ぬ」という要素が無かった場合、スミスはあのように自分の価値観をかなぐり捨ててまでムルソーに寄り添おうとしただろうか、ということである。ある程度粘ったのち、あ…これは一生わかり合えないな…と悟り、スッとはなれてしまったかもしれない。あるいは、つかずはなれずの距離を保ちながら(そのうちわかり合えるときがくるだろうと気長に待ちながら)、ゆるゆると友人関係を続けたかもしれない。しかし、スミスには時間が無かった。だからこそ彼は、ムルソーに対して真正面からぶつかり、悩み、「あの答え」を出したのではないだろうか。
この気づきは、原作『異邦人』への重要な切り口を、逆説的に教えてくれた。
たとえば『異邦人』から、「死刑」という要素をすっかり取り除いてみるとする。すると自分の中で、とたんに物語としての魅力が薄れてしまったのだ。ふわふわと締まりがなくなって、だら~っとムルソーの主観が並べられているだけのように感じてしまう。ここにきてはじめて、ムルソーが死刑宣告された際の傍聴人の反応が、あのようなものであったことの意味がわかったような気がした。
そのとき、私は顔という顔にあらわれた感動が、わかるように思われた。それは、たしかに尊敬の色だったと思う。(P136)
「死刑(死ぬ)」という要素は、ムルソーの思想的な結論として欠かすことのできないものであったと同時に、「他者(作中のムルソー以外の人間や、読者)」に訴えかけるという意味でも、無くてはならないものだったのだ。そしてそれは裏を返せば、そこまでしてようやく、「ムルソーの思想」が(受け入れられるものであるかどうかは別として)「他者」に<響く>ものになったということなのだと思う。「死への認識」という角度から、ムルソーの抱く「異邦人性」と我々の住まう「世間」との隔絶を、描き出しているといえるのではないだろうか。
『異邦人』の巻末解説によると、『異邦人』には前身小説のような内容の『幸福な死』という作品があるらしい。その作品の主人公はメルソーという名前で、フランス語の「海」と「太陽」を組み合わせたと思われるとのことだった。いっぽうのムルソーはというと、フランス語の「死」と「太陽」を合わせたものだという。
「太陽」だけでなく「死」も、ムルソーの「異邦人性」にとって欠かすことのできない要素だったのだ。
次に、文庫さんの動画について。
原作の持ち味を損なわず、要点をひろってコンパクトに仕上げる力量がさすがだとか、急に「Papers, Please」が出てきて思わず笑ってしまったとかいろいろ取り上げたいポイントはあるのだけど、とにもかくにも「アフリカの太陽」の表現が素晴らしかった。頭に思い描いていたものをそのまま映像化してもらったという心地がしたし、「そりゃあムルソーもあてられますわ」というほどの灼熱感があった。
「編集後記」も拝見した。
そしてここでもまた、ひとつの大きな気づきがあった。
ふんふんふん、と読み進めていくと、太字で書かれた「不条理を受け入れて生きるのは立派だが、どこで拒絶するかは人それぞれ」という一文があった。ほんとうにそうだよなあ…と思ってしみじみしていたのだが、次の瞬間、「ん? まてよ?」となった。
それなら、「不条理を受け入れた」けれども「生きるのはいや」というケースも出てくるのではないか?
だとすると、「不条理を受け入れる」ということは「不条理に迎合して生きる」ことと必ずしもイコールにはならないのではないか?
ひょっとしてムルソーは、「人間社会は不条理なものであること」を「受け入れた」からこそ<生きる意味がない>という結論に至り、特赦請願を却下し、死刑を――<死ぬこと>を選んだのではないだろうか?
わたしはこれまで無意識に、「不条理を受け入れること」=「そんな世の中に折り合いをつけながら生きること」だと思い込んでいた。しかしこの視点を手に入れてから、なにかが一本の線でつながったような、『異邦人』に対して残っていたモヤモヤが徐々に晴れていくような、そんな心地になった。
先に公開したふたつの記事を書いてなお、わたしには、『異邦人』に対して「小さな心残り」と「大きな心残り」があった。
「小さな心残り」はマリイのこと。そして「大きな心残り」は、ムルソーが「断じて語りたくなかったことがら」である。これらふたつの心残りについて、文庫さんの編集後記から得られた気づきが、なんらかの決着をもたらしてくれるような、そんな気がしてきた。
まずは、マリイについて考えてみる。
わたしは彼女のことをそれほど重要視していなかった。それはいまもあまり変わらない。ただ、めれんげさんと文庫さんの動画を視聴して、まったく考慮しないというのもありえないな、と思うようになった。そうしていくつかの角度からマリイの存在について考えていくうちに、彼女は「ある役割」を担っているのでは…と思うようになった。
ちなみに、わたしはやはりムルソーはマリイを愛していなかったと思っている。「憎からず思っていた」という記述があるので、好ましくはあったのだろう。けれど、それ以上でも以下でもなかったのではと思う。マリイが「愛」を、「好き」の上位の感情だと考えていたのなら、ムルソーの「愛していないと思われる」という返答はショックだっただろうし、それなのに結婚を承諾する彼の思考はさぞ理解に苦しむものだっただろう。
原作『異邦人』の終盤、ムルソーは司祭とのやりとりをしている最中に次のように述懐している。
私は実際何に興味があるかという点には、あまり確信がなかったが、何に興味がないかという点には、十分確信があったのだ。(P147~148)
余談だが、初見の際、ここを読んでわたしは「わかるぞムルソー!!!!」となった。(自分のことを「なにをしたいかはよくわからないが、なにをしたくないかということはわりとはっきりしている人間」だと常々思っているので)
ムルソーの判断基準が「マイナスかマイナスでないか」であったとしたら、マリイはそこそこ高評価な部類だったのではないかと思う。マリイはあそこで「わたしのこと好き?」と聞いていたら、もうすこし自分がほしかった返答に近いものが聞けたのかもしれない。
そもそも、「愛」ってすごくあいまいな概念だと思う。人によって基準も形もぜんぜんちがう。そんなものの存在を、他人同士で確かめ合うことになんの意味があるのだろう…とムルソーは思ったのではないだろうか。相手の考える「愛」と自分の思う「愛」が、ぴったりまったく同じだということなど確認しようがない。自分の思う「愛」を思い浮かべながら相手の中の「愛」を確かめようとするなんて、実に不毛な行為なのではないか。
でもこの理屈でいくと、ムルソーの返答からは、彼の考える「愛」はなかったということははっきりしたけれど、マリイの思う「愛」がなかったとまでは言い切れないな、と思った。それをムルソーが「愛」と認識していなかっただけで、マリイが望んだ「愛」が彼の中に存在した可能性はあるのかもしれない。
――やっぱり他人の考えていることなどわかりませんね。
ちょっと脱線してきたので話をもとに戻します。
ムルソーはマリイを愛していなかった。では、マリイの役割とはなんだったのか。
わたしは、彼女はムルソーにとって「"もう一つの生活"を思い起こさせる存在」であったのではないかと考えている。ムルソーがそう望むのなら、「not異邦人」としての人生への橋渡しとなる存在――それがマリイだったのではないだろうか。
そう考える理由はいろいろあるのだけど(そのひとつは「大きな心残り」こと「断じて語りたくなかったことがら」にも関係してくるのでそこで述べるとして)、決め手となったのは終盤でのマリイの再登場のタイミングだった。ムルソーは、「特赦請願を却下した」と記した次の行で「ほんとうに久しぶりで、マリイのことをしのんだ」といっているのだ。
先に述べたとおり、「特赦請願の却下」は「不条理に迎合して生きることの否定」である。つまりムルソーは、自分をごまかしたりうそをついたりして生きる「not異邦人」としての人生にはっきりと「NO」を示した直後にマリイを再登場させ、「このとき以来、マリイの思い出はどうでもよく」なり、彼女は「興味をそそらない存在」という烙印を押されてしまうのである。カミュ、やはりかなり物事を構造的に見たり考えたりする人だったのではないかという気がしてくる。
ただ、ムルソーはすんなりと「もう一つの生活」に「NO」を出せたわけではない。誘惑に対してかなりがんばってあらがって、ようやく「NO」と言えたのだ。
死刑宣告を受けてのち、彼が独房で誘惑と格闘している間、マリイという名前は一切出てこない。その向こう側に広がる「もう一つの生活」に、引きずられるのを避けようとしたからなのではないかと思う。
ずっと以前には、「むなしく追い求めていた」時期もあったらしい。独房の石の壁に、「太陽の色と欲情の炎」を持ったマリイの顔が浮かび上がりはしないかと。しかし結局、石壁にはなにひとつ現れることなく終わった。
ここで、ムルソーが「断じて語りたくなかったことがら」について考えてみたい。
これに関しては初見時からかなり気になってはいたのだが、ちょっと読んだくらいではまったく意味がわからなかった。いまも、はっきりと「わかった」というわけではない。「そういう方向な気がする」とでもいうか――その程度である。
わたしは、ムルソーが「断じて語りたくなかった」のは、「もう一つの生活」に対する願望をやり過ごす様だったのではないかと考えている。
ムルソーが「断じて語りたくないことども」と断言したあとにつらつらと書き連ねた内容は、総合的にいえば「時を殺すこと」だった。そしてその「時」とは、「過ごせたかもしれない別の時間」――つまり、「not異邦人」として生きる「もう一つの生活」のことをさしているのではないだろうか。
「断じて語りたくないことども」は、マリイがよこした手紙からはじまったとムルソーは語っている。先ほど述べた、わたしが彼女の役割を「"もう一つの生活"を思い起こさせる存在」だと考える理由のひとつである。
おそらくマリイは、「刑務所を出たら結婚して、あんなことをしましょうね。こんなこともしましょうね。これこれこういうことをするのもとっても楽しいでしょうね」というような内容の手紙を書いてよこしたのではないだろうか。しかしその手紙は、マリイの意図とは逆の効果をムルソーにもたらした。「自分はそっち側にはいない」という意識を、刺激してしまったのだ。
もうすこしていねいに追っていきたいと思う。
まず、ムルソーは「断じて語りたくなかったことがら」について、「自分の生活の”こうした部分”を語りたくない」と記している。前述のとおりそれはマリイのよこした手紙から始まったというのだが、もうひとつそのタイミングでムルソーに起こった変化がある。「自分の独房にいて、我が家にいるように感じ、自分の生活がそのなかに限られていると感ずるようになった」というのである。「自分の生活 = 独房の中」というのなら、「自分の生活の”こうした部分”」は「独房の中での”こうした部分”」と言い換えることができるだろう。
ムルソーが独房の中で行っていた「断じて語りたくないことども」を語る際、彼は「自由人の考え方」から「囚人の考え方」しかできなくなったとして、3つの例を挙げている。
1.海に入りたい
2.女に対する欲望
3.煙草
これらは刑務所の外にいれば簡単に実行できることである。それが叶わぬというのはつらいものであったというが、ムルソーは最終的にそのつらさを乗り越える。
1.海に入りたい → 散歩・弁護士の訪問待ちなどでうまく処理した
2.女に対する欲望 → 時を殺してくれた
3.煙草 → すわないことに慣れた
そして、この3つの例を挙げたあとでムルソーは話題をいったん区切り、「問題」は「もう一度いえば、時を殺すことにあった」と記している。「もう一度」と彼がいうのであれば、これまで書かれてきた3つの例は、「時を殺すこと」の例だったのだ。そしてこの「区切り」のワンクッションのあとに書かれている内容は、同じ話題のようでいて、すこし視点がずれている。ムルソーはここから先、「時を殺す”方法”」について語りはじめるのだ。
・追憶にふける → 退屈することもなくなった
・睡眠 → 毎日16~18時間眠れるようになった
・古新聞 → 数千回も読んだ
眠りの時間、思い出、記事を読むこと、光と闇との交替――こうしたことのうちに、時は過ぎた。(P.102)
このようにして独房の中で「時を殺すこと」に集中しているあいだに、ムルソーの中で「日々は名前をなくしていた」のだという。刑務所にきて5カ月経ったと言われてもよく理解できず、ムルソーにとってその5カ月は、「絶え間なく、同じ日が独房のなかへ打ちよせて来、同じ努力をつづけていたに過ぎない」日々だったというのだ。
ムルソーが語りたくなかったのは、この「努力」なのではないだろうか。「時」の積み重なったものが「生活」で、「生活」の積み重なったものが「人生」なのではないかとわたしは思っているのだが、そうするとムルソーが続けていた「時を殺す努力」というのは、「人生を殺す努力」ともいえるのではないだろうか。
「自分では罪ではないと思っている殺人事件で捕まる」という状況に陥ってしまったムルソーにとって、「刑務所を出る」ということは、「自由人には戻れるが不条理な世の中で生きなければならない」ということでもあった。「刑務所の外でなら過ごせる時間」に対する願望を、「囚人の考え方」によって「殺す努力」をした結果ムルソーが得たものは、「刑務所の外での人生に生きる意味なし」という「真理」だったのではないだろうか。
『異邦人』終盤で、ムルソーが司祭にぶち切れながらまくしたてる際に出てくる「真理」ということばがまさに、この「語りたくなかった努力」で得た「真理」なのではないかと、わたしは思った。
興味深い発見をした。
P.144の4行目に、「私はいつも最悪の仮定に立った。即ち特赦請願却下だ。」とある。ムルソーが「特赦請願を却下した」というのはP.145のうしろから3行目なのだが、そのひとつ前のページに至ってなお、ムルソーにとって「特赦請願を却下」するという仮定は「最悪」なものだったのだ。
その後、P.145に入ってすぐに「”だから”、私は特赦請願の却下を承認”せねばならなかった”のだ。」とくる。そしてそのような「特赦請願の却下を承認」する心境のときの自分にだけ、「第二の仮定(赦免)」に近づくことを許した、というのだ。
ムルソーは赦免のことを考えると、「ばかげた喜悦」が沸き起こり、それを鎮めるのに「骨折らねばならなかった」らしい。
そして文章は「第一の仮定における私のあきらめを、十分もっともなものとするためには、この第二の仮定においても、私は当たり前な顔でいなければならない。」と続き、ムルソーは「それに成功して」、「平静をえ」て、その結果「特赦請願を却下した」という。
よくよく考えてみると、この流れにはひっかかるものを感じた。めちゃめちゃくだけた表現にすると、「死刑を選ぶって考えるだけでも最悪で、死ななくていいと思うとうれしくなっちゃうけど、でもそれはあきらめなくちゃいけないことだから、死刑をえらぶよ」といったところだろうか。
一見めちゃくちゃな論法に思えるかもしれないが、ここにひとつの要素を放り込むと、ピシッと一本の筋が通るのである。それは、あの「真理」である。
「うそをついて生きる人生に意味なし」という結論に至ったムルソーだったが、それでもそのときのムルソーはまだ裁判前の身で、したがって実際的な「死」については深く考えていなかったのだと思う。しかし裁判が進み、あれよあれよという間に「死刑囚」となり、「死」が現実問題としてムルソーの前に現れた。
「真理」を手に入れてはいたものの、ムルソーはおおいに揺れたのだと思う。「真理」のためには「赦免」をあきらめ、「特赦請願の却下を承認せねばならなかった」が、「真理」に目をつぶり「赦免」を選ぶ自分を想像してみたりもした。でも結局彼は、「特赦請願を却下した」のだ。
「第一の仮定における私のあきらめを、十分もっともなものとするためには、この第二の仮定においても、私は当たり前な顔でいなければならない」というのはつまり、「私の抱く「真理」において考えれば特赦請願の却下を選ぶのは至極まっとうなことなのだから、赦免を前にして大喜びするのはちがうでしょ」ということなのではないだろうか。
特赦請願を却下し、マリイが興味をそそる存在ではなくなったあと、ムルソーの独房に司祭がやってくる。そうして数ページにわたり彼との問答が繰り広げられるわけだが、その最中に、ムルソーの「時間」に対する認識の変化を知ることができる。あれほど「時を殺す」努力をしていたムルソーが、ここでは「時間がない」といっているのだ。ムルソーの中で、考慮すべき「時間」の意味合いが変わったのだなあと思った。と同時に、やはりムルソーは確固たる信念をもって「死刑」を選んだのだなと思った。
「死にたい」というのとは違うのだ。自分のたどり着いた「真理」と「生きること」がイコールでつながらないので、選ばないのだ。
ほんとうに、愚直なまでに真っ直ぐな人間だと思った。
すでに述べたように、ムルソーには、「死」と「太陽」というふたつの要素があった。
そのうちの「太陽」に関しては自分ひとりの読書でなんとかたどり着くことができたけど、「死」という要素に関してはめれんげさんとゆっくり文庫さんの動画を何度も見ることで、ようやく気づくことができた。たいへんありがたい収穫であると同時に、めちゃくちゃ刺激的な体験となった。
そして『異邦人』、やはりめちゃくちゃたのしい作品だ。出会えてほんとうによかったと思います。
【参考文献】
『異邦人』アルベール・カミュ 著 / 窪田啓作 訳
(新潮文庫 / 昭和二十九年九月三十日 発行・平成二十六年六月五日 百二十八刷改版・令和二年四月三十日 百三十四刷)
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