「『異邦人』を読んだ」のおまけ

『異邦人』の感想文を書くの、ほんとうにたいへんだった。
すっごく刺激的でおもしろくて、書きたいと思うことがたくさんあってことばも次々出てくるのだけど、それらのパーツを「一本の文章」にするのにめちゃくちゃ苦労した。実際その名残はけっこうあって、いろいろブツ切りだし、文脈が繋がっていないようなところもある。いまの自分にこれ以上はムリ!となって、粗削りだけど公開してしまった。
読みやすくて、わかりやすくて、それでいて魅力的な文章を書けるようになりたいものです。

というわけで、あの流れの中に組み込めなかったものがいくつかあるので、それをここに投げ出しておきます。いつもは読んだ本の感想は手書きでノートに書いているのだけど、さすがにこの分量はキツイので今回はnoteに…という意味もあるので、感じたこと・考えたことはできるだけ残しておきたい。
公開する意味はあるのか…? と思わなくもないけど、「ゆっくり文庫(ジャンル的な意味で)」に取り上げられた作品でもあるので、視聴者のうちのひとりの反応……という感じ…で…

■わかりたい

「わからない」ことは恐ろしい。
理解できないものを理解しようとするとき、いちばん簡単な方法は「理解できるもの」に落とし込んで考えることだと思う。日本には神様がいっぱいいるけれど、それはかつて人々が、「わからない」ことをなんとか理解しようとしたことの結晶だと思っている。たとえば地震や雷などが、「なんだかわからないけど突然やってきていろいろぶっ壊していくもの」であるよりも、「神様が怒ったから(暴れたから)こうなった」と思える方が、よほど精神的に楽である。
人々は、「太陽のせい」でアラブ人を殺したというムルソーが理解できなかった。そこで検事は、ムルソーが母親の死に際して感情の動きを見せなかったことを引き合いに出し、「最も憎むべき大罪、父親殺し」という「犯罪のよびおこす恐ろしさも、この男の不感無覚を前にして感ずる恐ろしさには、及びもつかない」と、「理解できる恐ろしさ」に落とし込んだ。彼には、我々の持つ感覚がないのだと。だからこそ平気で人を殺せるのだと。そんなムルソーは「人間社会から抹殺されるべき」であるとして、検事は死刑を要求した。
人々は、さぞ安心してムルソーを糾弾できたことだろう。

■「ふつう」ってなんだろう

わたしは「ふつう」という概念のことを、平均の「上澄み」だと考えている。そう思うようになったのは、学生のころに受けたグループワークの授業がきっかけだった。

ごく簡単な地図がある。3本くらいの道路が並列に並んでいて、それらが何本かの曲がり角でつながっている。スタートがA地点、ゴールがE地点で、そのあいだにバラバラに配置された地点B、C、Dで指示されたイベントを消化しながらゴールを目指したとき、どのような順番になるかを各班で話し合って発表する、という内容だった。
途中のイベントはたとえばBは「魚を買う」、C「銀行でお金を下ろす」、D「郵便局で荷物を送る」とか、そんな感じ。場所その他いろいろな角度から判断し、各々順番を考える。

確か全部で6班あって、各班6~8人くらいいたと思う。
まずは自分の班で話し合い。いろいろ考えて、どう考えてもこれ以外ないだろ、という案を発言すると、だいたいのメンバーが同じ意見だった(たとえばADCBE)。数人違う意見の人もいたが、「ADCBE」と考える人の理由を聞いて納得し、我が班の意見は「ADCBE」となった。このときちょっとびっくりしたのが、自分の班に「ADCBE」案の人が4人いたとして、そう考える理由がそれぞれ違ったこと。「まったくの想定外」の人もいれば、「似てる」「だいたい同じ」という感じの人もいたが、「まったく同じ」考え方の人はひとりもいなかった。
制限時間をむかえ、各班の意見を発表する時間になると、また驚いた。自分たち含め6班中4班が「ADCBE」、残りの2班がそれぞれ「ACDBE」、「ADBCE」といった感じの結果になったのだが、自分の班であれほど話し合って、「ADCBE」に対してこれ以上の考え方のパターンは出てこないだろうというくらいまで詰められた感じだったのに、他3班の「ADCBE」と考える理由それぞれが、我が班では挙がらなかったものだったのだ。しかも、「う~ん、たしかに」と思わせる、じゅうぶん説得力のあるものだった。さらにいえば、「ACDBE」、「ADBCE」の案も、うちの班ではナシになったものの、「そう言われればそうかもな」と思わせるだけの根拠がしっかりとあって、けっして突飛なものではなかった。
その後各班のリーダーが意見を交わし合い、最終的にその授業での見解は「ADCBE」ということに決まった。

わたしはこの授業を受けてほんとうによかったと思った。それまでは、総意が「ADCBE」だということは「みんな同じ考え」なのだと思い込んでいたけれど、「ADCBE」に至るプロセスは人それぞれ何通りもあるのだと、「「ADCBE」と考える人=同じ考え方をする人」というわけでは「ない」のだと、実際に体験しながら学べたからだ。視界が開けたような心地がした。
ついつい最終的な総意ばかりを大事にしてしまいがちだけど、その総意が「異なるプロセスの集まり」であるという認識は、しっかりと持っていなければならないことだと思った。むしろ、「プロセス」が多彩であることは強みであるし、尊いことだと思う。

「ふつう」ということばは便利だけど、発するまえに「それってなに基準で?」と頭の中でワンクッションもうけるなど、もっと慎重になって使わなければならないと思った。「常識」や「あたりまえ」ということばも。

■小柄で機械的な女と若手新聞記者

裁判のあいだ、「小柄で機械的な女」と「若手新聞記者」のふたりは終始特別扱いされていた。そのため、その二人はその後、なにかしらの形で物語に絡んでくるのかもと思い、彼らの描写が出てくるとフセンを貼り付け注目していたのだけど、とくになにも起こらぬまま作品を読み終えてしまった。
しかし、巻末解説の筆者の「仮説」を読んで、ハッとした。「彼らはムルソー側の人間だったのだ」と思った。そうしてあわてて彼らの初登場シーンを読み返してみると、それはもうはっきりと書いてあった。

女は歩道の縁の石畳に立ち、ほとんど信じがたいほどの速さと確実さで、自分の道を外れもせず、振り向きもせずに歩いていた。(P.58)

そしてムルソーをして「あれは風変わりな女だ」と言わせている。小柄で機械的な女は「異邦人」サイドの人間ということで、ほぼ間違いないだろう。
いっぽうの若手新聞記者はというと、

私はまるで自分自身の眼でながめられているような、奇妙な印象をうけた。(P.109)

とムルソーは語っている。巻末解説の筆者は、この『異邦人』は彼による聞き書きだと考えているらしいのだけれど、わたしとしては「うーん、そうかなあ?」といった感じで、そのような印象はとくに受けなかった。ただ、彼は「異邦人の目」で事件を見ようとした人ではあると思う。だから、この二人は特別だったのだ。
多くの関係者や傍聴人がひしめく法廷において、この二人の存在だけがムルソーにとって際立って感じられたのは、彼らが「異邦人の文脈」で事件をとらえることができる人間だったからではないかと思った。

■おわりに

こうして感想文に組み込めなかったパーツを並べてみると、どうして組み込めなかったのかがわかったような気がした。
わたしは感想文ではムルソーを中心に据えてあれこれ書き連ねていたけれど、ここに並べられたものたちは主に「ムルソー以外」について書いているのだ。そうかそうか、それじゃあ入らないわ。

今回感想文を書くにあたって、ほんとうに『異邦人』一冊の情報(本編 + 巻末解説)しか用いていないので、その他のカミュの著作を読んだり彼の生涯についてもっとよく調べたりしたら、この『異邦人』がまたちがった風に見えてくるかもしれないな、と思っている。それはそれですごくわくわくする。
感想文を書いているあいだ、「『異邦人』で卒論書く学生さんは楽しいだろうなあ」と何度も思った。また、「法学部の学生さんだったらどう読むだろう」とも思った。時代背景などもきちんと考慮しながら「法曹家目線でムルソーの裁判をどう見るか」みたいな切り口の論文があったら、それはそれでおもしろそうだ。

ところで、「自分は『異邦人』をフランス文学としては読めていないだろうなあ」ということも、感想文を書いているあいだじゅう何度も思った。それは、フランスのこともフランス文学のこともフランス語のこともほとんど知らない(知識がない)からなのだが、中でも「フランス語を知らない」ことへの悔しさが強かった。海外文学を読んでこんなにも「原語でも読めたら」と思ったのははじめてだった。
感想文(本編)でも触れたことだけど、構成的効果がすごく発揮されている作品だと感じたので、言葉選びもさぞ周到に行われているのではないかと思うのだ。たとえば日本語で「~した」といっても、「過去」と「完了」のちがいがあり、それを日本語話者は文脈やニュアンスで判断することができる。もちろん訳者の方はそういう点まで考慮して訳してくれているというのはわかるのだけど、そういうことじゃなくて(じゃあなんだよ)、なんというか、ネイティブだからこそ感じ取れるニュアンスというか、「ことばの向こう側」にある風味というか、そういうものまで感じて『異邦人』を読めたらなあと思うのだった。

そう考えると、自分はやはり「ことば」が好きなんだろう。だからこそ、ことばが連なり、それ単体では持ちえなかった響きや味わいを発揮する物語を読むのが、楽しいのだと思う。「ストーリー」そのものだけではなく、そういう部分にも楽しいと感じられるようになってきたこと、素直にうれしく思う。


【参考文献】
『異邦人』アルベール・カミュ 著 / 窪田啓作 訳
(新潮文庫 / 昭和二十九年九月三十日 発行・平成二十六年六月五日 百二十八刷改版・令和二年四月三十日 百三十四刷)


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