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ファンタジーがはじまる

「ファンタジーというジャンルに属するのはどういう作品だと思いますか」

教壇からそう問われ、講義を受けていた学生たちはそれぞれむん、と考えを巡らせた。かく言うわたしもそのなかのひとりである。

魔法の概念があったり、現実には存在しない生きものが出てくる作品――かなあ

「ファンタジー」という言葉を聞いてまず思い浮かんだのは「ゲーム」だった。そんなにゲームをするほうではなかったけれど、CMなどでよく目にしていたせいか、「RPGのストーリー = ファンタジー」というイメージが強くあったのだ。

ある程度の間をおいて、学生たちに考える時間をしっかりと持たせたあとで、先生はにっこりとほほえんで次のように話しはじめた。

「みなさん、『ナルニア国物語』は知っていますか。あの作品、主人公たちがクローゼットから異世界へと旅立つでしょう?」

わたしは『ナルニア国物語』は原作も映画も未履修であったが、映画放映時にたくさん流れていたCMのおかげで、クローゼットのくだりのことは知っていた。

「この、クローゼットというのが、とても重要なんです」

先生は力強く、そしてすこし誇らしげにそう言った。
たしかにCM映像で見ただけでも、クローゼットから異世界に入り込むあの雰囲気には、わくわくさせられるものがあった。とはいえ、「異世界への入り口」の数多くあるパターンのうちのひとつにしか過ぎないだろうに、なんでそんなに特別感たっぷりに話すんだろ……と謎に冷めた気持ちでわたしは先生の話を聞いていた。その直後、「ほんとだ!!!すごい!!!!!」と大感動するとも知らずに。

「みなさん、クローゼットは、服がしまわれているところだと思っているでしょう。それはたしかにそうなんだけど、でもね、それだけじゃあないの。クローゼットっていうのはね、”選ばれなかったもの”が入っているところなの。だってそうでしょう? 選ばれた服はそこから出されて、みなさんが着ているのだから。このね、”選ばれなかったもの”が詰め込められたところを通って”別の世界に行く”というのが、とっても重要なんですよ」

衝撃だった。そんな風に考えたことは一度もなかった。
わたしが今日着なかった服たちは、わたしに今日”選ばれなかった”ものたちだったのだ。

このように言われると、なぜだか定期的にファンタジー世界を欲する(味わいたい)心地になることや、ファンタジー作品に感じるなんとも言えない魅力の正体がおぼろげながらつかめたような気がした。ファンタジーとは、「決して現実ではない」けれど「ありえたかもしれない世界」を、味わわせてくれるものなのだ。

よく考えてみると、わたしの好きな恩田陸はファンタジーノベル大賞出身だ。試しにデビュー作の『六番目の小夜子』を、自分がそれまで思い描いていた「ファンタジー」の基準に照らし合わせてみると、魔法もオリジナル生物も出てこないので、その枠の外にはじかれてしまうことになる。であるにも関わらず、この作品が「ファンタジー」だと言われても、なんの違和感も抱いたことはなかった。
やはり「ファンタジー」というのは、わたしが考えていたよりも、はるかに懐の広いジャンルであったのだ。

来世と異世界転生

平安文学作品にいくつか触れていくと、いずれかのタイミングでかならず気付くことがあると思う。それは、登場人物たちがやたらと「出家したがる」ということである。ちょっとなにかあると「ああもうダメだ…」と嘆き落ち込んで、「これはもう出家するしかない…」という思考に至り、絶対出家するマン(ウーマン)が誕生してしまうのだ。出家とはすなわち俗世から離れることなので、周囲の人々は言葉を尽くして励まし、なんとか思いとどまらせようとする。しかし一度「出家」という言葉が頭に浮かんでしまったひとはもうそれしか考えられないようで、今度は「出家したいのにさせてくれない…」という不満とかなしみを抱えながら、欝々とした日々を過ごすことになる――皆が皆こうだというわけではないが、ままあるパターンだったと思う。その後は念願叶って出家したり、案外ケロッと立ち直って出家したいと言っていたのがウソのようになったり、はたまた出家したのち還俗したりと様々であるが、とにかくこの時代のひとびとの「出家したさ」はやたらと目に付いた。

授業で聞いた話によると、平安のひとびとがこのようであったことには、理由があるらしい。その理由というのが、「末法思想(まっぽうしそう)」である。
ざっくり大雑把にいうと、仏教の恩恵にあずかるよい世の中が続くのは釈迦の入滅後二千年までで、それ以降は「末法の世」というひどい世の中が一万年続く――というのが「末法思想」とのこと。
日本ではまさに平安時代にこの「末法の世」に入り、ひとびとは現世にそれほど期待をしていなかったらしい。だから、現世を頑張って生きるよりも、よりよい来世のために出家して徳を積みたいと考えていたそうである。
この話をしたとき、教員は、「だから、いまもまだ末法の世ですよ」と言ってニヤリと笑った。当時もそう感じたが、いま振り返ってみても、それは鬱屈と自虐をはらんだ笑顔だったように思う。


わたしはライトノベルもネット小説も全くと言っていいほど読まないが、そんな自分でも「異世界転生モノ」が流行っている(た?)ことは知っていた。アニメ化されたりゲーム化されたりで、それらの広告を目にしていたからだと思う。なーんか最近やたらと「異世界転生」という字面を目にするなあ…と感じていた。
界隈の外にいる自分ですらそうだったので、渦中の方からすれば横行しすぎて食傷気味であるらしいというのを耳にしたときも、「でしょうねえ」という感想以外なかった。
この「異世界転生モノ」への見方が変わったのが、それらの作品群の一部が「チート能力」とか「俺Tueee」という要素をはらみ始めたというのを聞いてからである。わたしはそのとき、「現代版末法思想じゃん」と思った。
わたし自身も現代を生きる人間のひとりなので、なんとも言えないどん詰まり感というか、さとり世代とも呼ばれるような感覚はよくわかる。頑張ってもどうにもならないし、それなりでよくね?というような、そんな感じ。これって、平安時代の(おそらく)貴族たちが抱いていた感覚と似たものがあるのではないだろうか(学んでいたのは文字文化のある貴族社会のことばかりなので、庶民がどうであったかについてはよく知らない。現実を生きるのでせいいっぱいで、貴族サマのように現世だ来世だと言っている余裕などなかったのではないかと思うけど、一方では信仰という心の支えを持っていたのかなとも思う。けどその場合、仏教というよりはもっと土着の信仰だったのではと思うけど)。
現実世界では満たされない、果たされそうもない事柄の消化(あるいは昇華)先として選んだのが「来世」か「異世界」かの違いでは…と思えてしまうのだった。主人公がチート化する傾向にあったのも、「ままならない現実の救済先でまで苦労したくない」、あるいは「今のままでもじゅうぶん通用する」という意識が働いた結果だったりしてと思ったりする。
そして興味深いのは、これら「来世」や「異世界」は、「決して現実ではない」けれど、「ありえたかもしれない世界」――つまり「ファンタジー」と同じ役割を担っているのではないかということである。

『三国志演義』と『水滸伝』

わたしは最近、中国時代劇のドラマをよく見ている。といっても最新作ではなく、10年くらい前に中国で放送されていたらしい『三国志』と『水滸伝』なのだが。
以前、北方謙三の『三国志』と『水滸伝』『楊令伝』を読んでいたので(『岳飛伝』は文庫版が出揃うまで――とあたためているうちに読まずじまいになってしまっている…手元にはあるので、近々読むつもり)、なつかしー!とかまったく覚えてないな…とかなりながら(読んだ本の内容は3年くらいでほとんど忘れてしまう)、とても楽しんでいる。
これらのドラマを通していろいろ調べていくうちに、今回はじめて知ったことがある。それは、ドラマの原作となった作品(『三国志演義』『水滸伝』)の成立がどちらも明の時代だということ。このふたつの作品が中国四大奇書に数えられているということは知っていたけれど、なぜだか成立年代は別だと思い込んでいた。
そうなってくると、ちょっと、「ん?」となることがある。
これらはどちらも戦いの物語だが、国の在り方を左右するような戦いが描かれている。つまり、敵役となるのは国の中心人物(朝廷を牛耳り勝手放題する奸臣など)なのだ。そのような物語が同時代に併発し、こうして後世にまで残るほど広く受け入れられたことを考えると、ひょっとしてそういう物語は、その時代のひとたちにとても「欲されていた」のかなと思った。
こうなると、気になってくるのは、明とはどのような時代であったのかということである。


結論からいうと、ネットでちょっと調べたくらいでは、よくわからなかった。これはたいていどの時代にも言えることだろうけども、よい面、そうではない面、どちらもあったように思える。ただ、これらの作品の成立に関する時代背景については、すこしだけ知ることができた。

明の時代、人材を広く集めるために全国各地に国立学校を設置し、登用試験(科挙)のための共通の教科書を配布したことで、それまでは官吏とほぼ同義であった「文人」の範囲が、一般にまで広がったらしい。民間の私立学校もあって、そこでは農民の子に読み書きや計算などを教えていたとのこと。
そのようにして花開いた民間の文字文化の中から、『三国志演義』『水滸伝』などの名作が誕生したのだ。
しかしこれらの作品、この時点で唐突にポッと出てきたのではない。『三国志演義』は正史の『三国志』をもとにしているというのはわかると思うが、実は『水滸伝』にも、いろいろな下敷きがあるらしいのだ。史実をもとにしたと思われるエピソードもある他、寄席や見世物小屋で講談として語り継がれてきた題目に、『水滸伝』に登場する好漢たちと関連するものが複数あるらしい。長年、人々の間で愛されあたためられてきた物語の芽が、明の大衆文化誕生を受けて、満を持して小説として花開いたのではないかと思われる。
このように長々と書いてきてなにが言いたいのかというと、つまり、『三国志演義』や『水滸伝』は当時の人々にとって、なくてはならない「ファンタジー」だったのではないかということである。
武や知に長けた好漢とも呼ばれるような登場人物たちが、巨利をむさぼり民の暮らしを苦しめる奸臣らに立ち向かう――現実世界にそのような英雄が現れずとも、せめてお話の中だけでも、こうした胸のすく感覚を味わいたかったのではないだろうか。
どの国、どの時代、どんなシチュエーションにおいても、「シワ寄せ」というものが行き着く先は、たいてい弱き者のところである。そんな庶民たちが文字文化を獲得し、物語が生まれ、現代まで残された――とくにこの、「残された」という部分から見ても、これらの作品の偉大さがわかると思う。
いろいろなところで言っている気がするが、こういう古い時代の作品は、人々がリレーのように繋いでくれたおかげで、いまわたしたちが読めるのだ。現代のように、コピペでどんどん拡散できる時代ではない。複製するにもかなりの労力を要する(木版印刷の技術はあっただろうが、当時の主な複製手段は写本だったと思われる)。
「残っている」という事実それだけで、もうひたすらに尊いのだ。

* * * * * * *

以前、イギリスへ一人旅に出掛けたことがある。
旅程の最終日、観光バスではなく、ふつうのタクシーの車窓から、(バスに比べると)低い視線でロンドンの街中を眺めていたときに、次のように思った。

素敵な街並みだなあ…こんなところで暮らせたらいいなあ…
でも、”非日常”だからいいんだろうな。これが日常になってしまったら、きっとわたしはまた別の”非日常”を求めるんだと思う。


ひとは、「ファンタジー」を欲するように出来ているのかもしれない。
何度も読み返している本や、何周もプレイしているゲーム、お気に入りの映画、アニメ――それらはあなたにとって、なくてはならない「ファンタジー」なのかもしれません。

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