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『異邦人』を読んだ

『異邦人』を読んだ。
想像していたよりずっとずっとおもしろく、またその内容にたいへん感動したので、個人的な感想をつらつらと書いていきたいと思う。
確実にネタバレはすると思いますので、未読の方は読まないことをおすすめします。(貴重な初読の前にわたしの感想文のせいで変な先入観を抱いてほしくはないというのもある)

はじめに

わたしの中では長いこと、この作品は「『異邦人』というタイトルの海外文学作品」でしかなかった。どういう内容かも知らず、したがって読みたいと思うこともなく、ただただ「そういう作品がある」ということを知っているにすぎなかった。
それが、去年あたりから『異邦人』に関する話題をときどき目にするようになり(今思うとめれんげさんのツイートをTLで見かけていたのだと思う)、そのおかげで『異邦人』に対する認識がちょっぴりアップデートされ、機会があったら読んでみようかな、と思うようになっていた。

・殺人の理由として「太陽がまぶしかったから」と答えた
・主人公のムルソーは理解しがたい人物

アップデート内容はほんとうにたいしたものではなくて(上記二点)、おそらく世間的にはよく知られた作品情報だと思う。ただ、わたしは今回はじめて知り、さらに言えばこの前情報があったおかげでかなり充実した…なにより楽しい読書ができたので、すごくよかった。

ムルソーの印象

具体的になにがどうよかったのかというと、わたしは上記二点の前情報から、「ムルソーはとんでもない変わり者で、なにを考えているのかもわからず、そのためにとにかく難解な話になっている」のだと考えていた。なので、読み始めてすぐにムルソーの感情というか言い分というか、そういう言葉が出て来たことにすごく驚いた。
「なんだ、人間らしい感覚あるんじゃん」と思うと同時に、「でもこれはそうそう出て来るものじゃないのかもしれないから、とりあえずフセン付けとこ」と、該当箇所にフセンをぺったり貼り付けた。それ以降、ムルソーの感情や思考と思われるような箇所には(内容にのめり込んで忘れていなければ)フセンを貼っていくようにしていた。
そのように、ムルソーの主張を拾っていくようにして『異邦人』を最後まで読み終えたとき、わたしが彼に対して思ったことは、「ムルソー、ぜんぜん変じゃないじゃん」ということだった。センセーショナルに言われていた「太陽のせい」というのも作品を読んでみればまっとうな言い分だと思えるし、多少欲求に忠実すぎるきらいがあるけれども、感情もあれば思考力もある、ただの人間だなあというのがムルソーに抱いた印象だった。

ムルソー側の視点で言動を見ていけば(=『異邦人』を読むということ)「変わってるとは思うけど、世間にはこういう考えの人もまあいるわな」という感じで、ムルソーに対して「ワカラン人物」というような感想は抱かなかった。「本人がそう言ってるじゃん」と。「そのまま受け取ればいいじゃん」と、思うだけだった。
ただ、ひとつはっきりとしていることがある。「そのまま受け取る」ことができるのは、隔たりがあるからだ。いまという時代に、日本という場所で、本を読むという行為によって『異邦人』世界を覗き見ている「わたし」だからこそ、ムルソーを「あ、そういうタイプの人ね」とあっさり受け入れられるのだと思う。
もしこういう感じの人が身近にいて、生活していくうえでどうしても関わらなければならなくて、でもどうにも「合わないなあ」と感じている「わたし」だったとしたら、「ちょっと距離置いておきたいな」とは思ったと思う。
あるいは、ムルソー(のようなタイプの人)を大切に思っている「わたし」だったとしたら、別の意味で他人ごとではなくなっていただろう。大事な人であればあるほど「理解したい」という思いが強くなり、それと比例するように「理解できない」と感じることも多くなってゆくのではないかと思われる。

一人称と回想と「きょうママンが死んだ」

ところでこの作品、内容以外にも感動した点がある。
それは、構成というか、作品全体の「つくり」のうまさである。
わたしたち読者が『異邦人』世界に足を踏み入れた際、まず最初に出会うのが「きょう、ママンが死んだ」という一文である。そのあと「もしかすると、昨日かも知れないが」「マイソウアス」「二時のバスに乗れば、午後のうちに着くだろう」「明くる日の夕方帰って来られる」と、「時間」の情報が次々と押し寄せる。これ、めちゃくちゃうまいなあと思う。
冒頭でこれでもかというほど「現在視点」からの時間の情報をあびせられると、読者としては無意識に、これから描き出される物語を「いままさに発生中の出来事」なのだろうと考え、その時間軸に読み手としての自分を寄りそわせてしまう。しかし、しばらく読んでいくとわかることなのだが、この作品で描かれている内容は、実際には「ある時点」からの「回想」なのだ。つまり「すでに済んでいる事柄」を振りかえっているということになる。
しかし、冒頭での強烈な印象づけに加え、回想している「ある時点」からの視点はときどきしかあらわれないので、読者はついつい「進行中」の話として読んでしまいがちになる。すると、「活字で語られる出来事」に過ぎなかった事柄が、じわじわと「目の前で起こっていること」のような臨場感を醸し出してくるようになる。

さらにもうひとつ重要なのが、この作品が「一人称」で記されているということである。
一人称というのは、語り手の視点に読み手をぐっと引き寄せる(=物語世界に一気に引き込む)ことができる利点があるいっぽうで、三人称にくらべて制約が多くなる。たとえば視点主がいないところでの出来事は知りえないので語ることができないし、他人の心情や思惑なども、実際に聞かされたのでもないかぎり憶測としてしか語れない。
そんな一人称での語りの持つ問題をあいまいにしたのもまた、「回想」なのである。一人称で語られる、ぱっと見では進行中の話のように見えるストーリーに、一人称視点の枠を超えた描写がちらりと添えられたとしても、「回想」なので「のちのち知った情報が上乗せされているのかな」とか「その後置かれた状況からそうとしか思えなくなってるのかな」とか、わりとすんなりと受け入れることができる。それでいて、一人称視点の長所である「語り手の目線に読者を引き付ける」効果はしっかりと発揮されているのだ。これ、かなりニクイ手法だと思った。
「時間」と「視点」の境界を意図的にぼやかし、コントロールし、「どこかの誰かに起こった話」にはとどまらせない実感を読み手に与えることに成功している。内容うんぬんの前に、カミュは書き手として、かなりのテクニシャンなのでは。(『異邦人』しか読んでないから判断がつかないけど)(ていうかよく考えたらこれは翻訳モノなわけで、原語ではまたいろいろと事情がちがってくるだろうし、それをこのようにまとめあげた訳者の方の手腕が素晴らしいということなのかもしれない)(こんな風に考えていくと、原語でも読めたらなあと思ってしまうな)

異邦人

そもそも、設定の時点で示唆に富みすぎている。
「植民地」時代のアルジェリアが舞台で、タイトルが『異邦人』ですよ。それだけでちょっと「うわぁ…(=つらい)」てなりましたもん。察するに余りある「うわぁ…」感を、読む前からひしひしと感じた。
そしてその「設定」はそのまま、『異邦人』の作者アルベール・カミュが置かれた境遇そのものだったと読了後に知ったけど、「でしょうね」以外の言葉がなかった。カミュの出版第一作目が『異邦人』だというのも、たいへん納得。
フランス植民地時代のアルジェリア生まれ。フランス本土の人からは「フランス人と言ったって生まれも育ちもアルジェリアでしょ(=自分たちと同じではない)」と言われ、いっぽうでアルジェリアにもともと住んでいた人たちからは「よそからずかずか入り込んできた支配者側の人間」と見られる――
カミュが書かずにいられなかったもの、それが『異邦人』なのだ。

ところで、ムルソーは『異邦人』以前にすでに、自身の「異邦人性」を認識して(させられて)いたと思われるふしがある。
「自分のせいではない」ということを度々主張したがっているし、「こんなことを言うべきではなかった」というような後悔をしているシーンも何度か見受けられる。「回想時」の思いが反映して、要所要所でそのような「自分に罪はない」という趣旨が見え隠れするというのもあるのだろうけど、「私のせいではないんです」と「実際に」言ったり、「こういうべきではなかった」と「感じて」「ばつが悪」くなったのは「回想をしているムルソー」ではなく「過去のムルソー」自身なので、やはりムルソーは『異邦人』で描かれるよりも前から、「異邦人」として扱われる経験をしてきていたのだと思う。
最初に読んだとき、とくに「こんなことを言うべきではなかった」系の後悔のほうは、「こんな風に見られたい(=こういうやつだと思われたくない)」というような思いがムルソーにもあるのかと、すごくびっくりした。すでに述べたとおり、前情報からそういう感覚などない人なのだと勝手に思い込んでいたので。
極め付けは、次の一文である。

私は自分が世間のひとと同じだということ、絶対に世間の尋常なひとたちと同じだということを、彼に強調したいと願った。(P.84)

これは第二部に入ってわりとすぐのシーンでの出来事なのだが、第一部からそこまで続いてきた一定の落ち着いたトーンにくらべるとすごく語気が強く感じられ、とても意外に思ったし、印象にも残った。
確かに全編とおして読んでみると、他にも「自由人としての生活」への願望がちらちらうかがえたり、「死刑を逃れる術はないか」と真剣に考えをめぐらしたりと、程度の差こそあれ、「世間のひと」がしそうな思考を、ムルソーもしているように思われる。
このシーンのすぐあとで、今度は

母を愛していたか、と彼は私に尋ねた。「そうです。世間のひとと同じように」と私は答えた。すると、書記は、それまでは規則的にタイプをたたいていたのだが、キイを間違えたらしかった。(P.86)

という場面が出てくる。意外な返答に思わずタイプミスをしてしまったということなのだろうが、ムルソーはひょっとして、ずっとずっと、周囲にこういう反応をされ続けてきたのではないだろうか。
自分は「世間のひとと同じだ」と思っている。しかし、どうも周囲はそうではなさそうなので、そんな風に思われないように自分なりに言動に気をつけようとはしている。でもときどきよけいなことを言ってしまったり、「自分のせいではない」ことで不本意な評価を下されそうになることがある。そんなときは「世間のひとと同じ」と主張するのだけれど、それを聞いた周囲の人は、思ってもいなかったことを聞かされた、とでもいうような反応を示す――

本作には、「よく考えてみたところ、結局○○をしなかった」というニュアンスの表現がけっこう出てくる。読んでいる最中は、「よく考え」ることで反射的に「世間」や「常識」に迎合することを避ける(「自分の論理」を曲げない)ようにしているのかなあと考えていたのだけれど、読後にふと思い浮かんだのが、これって「自分を納得させ慣れている」人の特徴でもあるなあということ。そしてこれは、普段から「諦め慣れている」と言い換えることもできると思う。
ムルソーは、多くを語らない。もし彼が、「これこれこのように考えるから、こうなんだ」というような「自分の論理」をもっと周囲に示せば、考え方そのものに対する理解は得られずとも、すくなくとも「そのように考える人」という理解は得られたのではないかと思う。しかし、彼はそれをしない。ムルソーがそのような人であるのは、もともとの性格という側面ももちろんあるだろうが、他にも、これまで「有無をいわせぬレッテル貼り」を幾度も体験してきたから――という可能性はないだろうか。

太陽

ムルソー曰く、動機は「太陽のせい」だというアラブ人殺害事件。この件においてムルソーのムルソーらしさが現れているのは、一発目の発砲ではなく、間をおいて追加した四発の発砲行為のほうではないかと思う。この銃が何発入るものなのかは知らないが、残弾すべて撃ち込んだのではないだろうか。残しておく「理由もとくにない」ので撃ったのではないかと、思えてならないのだ。
言い換えれば、一発目の発砲は、同じ状況になれば誰しもやってしまう可能性のある行為だったといえるのではないだろうか。
ムルソーだってそうだったのだ。一発目がなければ、二発目以降もなかった。あらゆる条件が揃っていたためにああなってしまったが、たとえば銃を持っていなかったら。たとえば雲が太陽の力を弱めていたら――

ムルソーは、アラブ人を殺害したときの太陽のことを、「ママンを埋葬した日と同じ太陽」と表現している。そしてその「ママンを埋葬した日」のムルソーについて、養老院の院長は、裁判で証言をした。
「このひとがいかにも冷静だったのには驚いた」と言い、冷静とはどういうことかとたずねられると、「ママンの顔を見ようとはしなかった、一度も涙を見せなかった、埋葬がすむとママンの墓の上に黙禱もせずに、すぐさま立ち去った」と、具体的に挙げてみせた。「ママンの年を知らなかったと、葬儀屋の一人から、告げられたこと」にも驚かされたらしい。
そうして最終的にムルソーは、「不感無覚」の「恐ろしい」人物であり、それゆえその存在は「人間社会から抹殺されるべき」だとして死刑を宣告された。

「ママンを埋葬した日の太陽」と、「ママンを埋葬した日と同じ太陽」には、どんな意味があったのだろうか。わたしは読んでいて、このときの太陽はそれぞれ「あつさ」の描写が詳細だったように思った。アフリカの海と大地を照らす、想像を絶するような灼熱の太陽。そんなものを脳天に浴び続け、体内の血が沸騰したように駆け巡り、彼は「むきだしのムルソー」となったのではないだろうか。

ムルソーを「取り繕えなくする」太陽、それさえなければ彼は死刑になることなく生きてゆけたのではと思ってしまうけれど、しかしその太陽のおかげで彼は「ムルソー」でいられたという見方もできると思う。というのも、巻末解説を見てみると、作者のカミュは「自身の源泉はアフリカの太陽と貧困にある」と語っているらしいのである。裏をかえせば、それらなくしては「『異邦人』を著すカミュ」にはならなかったということだ。
太陽によって表出した繕わざる「ムルソー(=異邦人性)」は、彼らの「アイデンティティ」なのだと思う。

『異邦人』

ムルソーは作品の終わりのほうで、母がなぜ死を前にして「生涯をやり直す振り」をしたのか「わかるような気がした」と述べている。そしてそのあとで、「私もまた、全く生きかえったような思いがしている」とも言っている。
わたしは、この『異邦人』が、ムルソーにとっての「生涯をやり直す振り」だったのではないかと思っている。そしてそれを通してムルソーは、「全く生きかえったよう」だと思えるまでになったのだ。
「私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした」と自分の生き様を振りかえり、「私はかつて正しかったし、今もなお正しい」と断言するムルソーは、自身のことを、他者から貼られた「レッテルとしての異邦人」ではなく、あくまで「パーソナリティーとしての異邦人性を持つ人物」として改めて認識しなおし、受け入れからこそ、死刑を選んだのではないだろうか。
「変わっている」と、「われわれとは違う」と扱われ続けてきたけれど、それこそがこの「ムルソー」という人間なのだ。その「ムルソー」が、選び、決断し、実行してきたことが間違いで、罪だと「あなたがたが」言うのであれば、甘んじて受け入れよう。それこそが、私が他ならぬ「ムルソー」であるという表明である――そういうことなのではないだろうか。

「死刑」という結末が待っているにもかかわらず、どこか清々しさすら感じる余韻が読後に残るのは、ムルソーが最後に自身の生き様に抱くことのできた誇りのようなものが、伝わってくるからなのではないかと思う。

まとめ

ムルソーは『異邦人』を通して「自分はこういう人間である」という自己認識をしっかりと確立し、そのような自身のアイデンティティを受け入れるにとどまらず、自負さえ抱く境地に至ったのではないか、というのが、私の現時点での最終的な読みである。「現時点での」と但し書きをしたのは、今後もっと作品を読みこんだり、人生経験を積んだりしたらいくらでも読み方が変わるかもしれないと感じているからです。

この『異邦人』、想像してた100倍楽しく読めたのだけど(とんでもない苦行になると思ってた…笑)、それは自分がときどき若干の諦念とともに考えたりする、「結局○○ってこういうことなのかもしれないな」というような事柄が、たくさん詰まっていたからかもしれない。やっぱりそうだよね、という答え合わせのような感覚と、結局そういうもんなのは仕方ないんだから開き直っちゃえばいいのかもな、というようなカラリとした前向きさが得られて、読後感はけっして悪くなかった。

人は誰しも大なり小なり「異邦人性」を内に秘めているということは忘れないでおきたい。さまざまな都合で折り合いをつけたり、目をつぶったり、押し殺したりということ、自分にもある。相手にだって、ある。
子どものころからたびたび考えていたことなのだけど、たとえば教室なんかで先生に「青」と言われて、生徒それぞれが頭の中で思い浮かべるのって、きっと「ちょっとずつちがった青色」だと思う。
そんなとき、「ああ、そういうのもあったか!」とか、「その青もいいねえ」とか、そういうことを言える人でありたいなあと思います。


【参考文献】
『異邦人』アルベール・カミュ 著 / 窪田啓作 訳
(新潮文庫 / 昭和二十九年九月三十日 発行・平成二十六年六月五日 百二十八刷改版・令和二年四月三十日 百三十四刷)

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