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映画を作るということがどういう事か加速度的に不確かになっていくからこそ、映画は作られるべきなんだと確信をしている/伊参スタジオ映画祭第19回シナリオ大賞

群馬県中之条町で2001年から行われている「伊参(いさま)スタジオ映画祭」。現在その実行委員長をつとめながら、映画祭に関する発信をほとんど出来ていない。長年続けたこの関わりが日常化して、言うまでもない部分が多いとも言えるが、仕事にばかりに重心を置いて映画祭活動を疎かにしているんじゃないかという気持ちもずっとある。今年1月開催予定だった映画祭は新型コロナウィルスまん延防止を理由に延期となったが、いよいよ再開の話も進んでいる。ちょっとずつ、映画祭に関する紹介も増やしていきたいと思う。

さて、つい先日、映画祭の柱とも言える「シナリオ大賞」の一次審査(映画祭スタッフによる審査)が終わった。全国から映画シナリオを公募し、その大賞を映画化させるという取り組みももう19回。この取り組みによって過去34作品が映画化され、今年撮影された『冬子の夏』(脚本:煙山夏美)は次回映画祭で上映予定である。完成した映画のコンテストは今も全国に数あれど、映画化も含めたシナリオでのコンペは函館を除いてあまり例がなく、外部から「若手監督の登竜門」などと言っていただくと、少しこそばゆい気もするが、その言葉に胸を貼れる活動をしていかねばいけないといつも背筋が伸びる思いがする。

前回、第18回はコロナ過の過酷な時期であったが、ステイホームが執筆も進ませたのか短編・中編合わせて353本もの応募があった。今回、第19回は応募総数238本。今ちょうどシナリオ大賞の枠組みを改変している最中で、今回は過去例のない「映画化作品は1作品のみ(例年2作品だった)」という決定事項もある中で(それが直接な原因ではないとは思うが)、応募数が減ったのは、ひとつにはコロナ過の厳しさが緩和されてきて、書き手の意識が他にも移ってきたから、という事もあるのかもしれない。宣伝不足も否めないが。

ここで一度シナリオから離れ、今の状況下において「映画を作る」ということはどういう事なのか、正直に言えば僕自身はよくわからなくなってきている。もちろん、僕は映画製作が生業ではないから(シナリオ大賞作品のサポートや、町の観光ドラマ制作などでは似た立場にもいるが)それにより生活に支障があるわけではないが、映画祭の実行委員長がそんな中途半端な気持ちで良いのか、という思いもある。だけど、目をきらきらさせて「今の時代、映画だよねっ!」と言ってしまうことは、多くのことから目を逸らしていることでもあるように思う。

そのわからなさというのは、1つには「鑑賞者の映画に対する意識が加速度的に変わっている」こと。映画館離れが進み、皆がDVDやテレビで映画鑑賞を済ませるようになった・・ということすら明らかに昔の習慣で、映画鑑賞はスマートフォンによる視聴や、NETFLIXなど月定額のストリーミングでの鑑賞が一般的なものとなった。それはここ、群馬の田舎にあっても、知人の話を聞いたりDVDレンタル店の閑散ぶりなどを見ればわかることである。

その情報を鵜呑みにするわけではないが、今の若者は映画は倍速で観たり、ネタバレ的に結末を知った上で面白そうなら観る、という鑑賞をしている。僕も、ツイッターなどでインパクトのある漫画のリンクを踏んでしまい、これどういうこと?とネタバレサイトを見て読んだつもりになったこともあるから、映画や漫画などの物語というもののインスタントな消費の楽しみ方もわからなくはない。もはや老人の回顧と言われてしまうかもしれない「映画館で、見知らぬ人とその場を共有しながら、暗闇に包まれて、映画とじっくり対峙する良さ」は僕個人であれば死ぬまで持ち続けはするが、それを若者に強要することはできない。「スマホでながら見していて、ダルいと思えば、タップして別の映画に切り替える」映画鑑賞。だが果たして、それら若者の(いや、若者に限らない意識になりつつあるから、世間の)支持を得るためだけに、キャッチーに、インパクト勝負で、わかりやすく作られる映画は、この先も残っていく映画なのだろうか。・・わからない。

そして、作り手にとっても映画を作るということの意味が変わり続けているのが今だと思う。「映画作れりゃ、いくつになっても四畳一間でいいのさ」という時代は遥か過去で、20年前、僕が映画学校に通っていた時期はまだ「映画とドラマは別物という意識」や「昔ながらの徒弟制度」が生きていて、映画に携わる物は映画だけを考えていれば胸を張れる最後の時代だったのだと思う。でも今は、映画よりも配信ドラマの方が何倍も豊かだったり、商業的に当てる映画を作るにはSNSでの評価・拡散を考えたり、色々な制約を受け入れたり、映画以外のことを考える必要性ややるべきことが多い。

そしていくら機材の革新が進み昔に比べて撮影が楽になったとはいえ、映画作りは昔も今も「めちゃくちゃしんどい」。自主制作なんてクラウドファンディングをしてもしなくても資金繰りが大変だし、ワンカットワンカットを集団芸術として収めていかねばならぬ苦労に変わりはない。そして、よほどの良い作品、注目される作品でなければ「作られた映画の消費のされ方がめちゃくちゃ早い」ということを、製作者側も気づいている。さらに、現場におけるパワハラセクハラ問題が世を騒がせたり、作り手を取り巻く状況として、映画に対する支援がなかった(少なかった)日本の文化政策の問題があったりと・・・

今時代映画を作る、ということは、他の仕事と比べてもとても大変で、先の見えないものなのではないか。・・と、ここまで洪水のように不安点ばかりを書き連ねたが、「それでも」という思いは僕にもある。それがあるから、僕は映画祭スタッフを続けている。

シナリオ大賞の一次審査は、さすがに1人で238本ものシナリオを読むことはできないので、1作品を複数人で読む、等の決め事をしつつ全体の1/5ほどの量を手分けして読むこととなる。

まだ審査も始まったばかりなので(これから、歴代大賞受賞者が審査をする二次審査、最後に、篠原哲雄監督(『月とキャベツ』『影踏み』)ら最終審査員による三次審査と続く)詳しくは書けないが、僕は僕が読んだなかで

「これが大賞を獲って、映画化されるのを観たい」

と素直に思える1作品を見つけた。わりと毎年そんな作品と出会うので、それがそのまま現実となることはほぼないのだが、その作品は、今の流行りを取り入れたり、先の読める作品ではなく、どちらかといえばわかりにくいことも多く、けれど「今時代を描いていて、人間を描いている作品」だった。そして多分、映画を取り巻く今がわけわからん・・と悩んでぐるぐるして自爆しそうな製作者を除き、今本気で映画を作っている人たちというのは、そんな「これ映画にしたい」という素直な欲求に従っている人なのではないか、という気もする。

僕個人は、今の映画を取り巻く状況がよくわからない。けれど、映画を取り巻く状況にもある程度翻弄されながら、映画が生まれる場所には居続けたいと思う(どいてよ、という新しい人、継ぐ人が現れない限りは)。映画を作るということがどういう事か加速度的に不確かになっていくからこそ、暗中模索の中で、映画は作られるべきなんだという確信をしている。

伊参スタジオ映画祭HP

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