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マイ・バイサイクルズ

小学校の三年の終わり頃から、自転車でレースをしたり、鬼ごっこをしたりして遊ぶのが流行った。それはその字面から想像される以上に危険な遊びだった。実際にそれなりに怪我をしたし、それを見かねた親や学校の先生からこっぴどく叱られたりもした。

しかし、そういうのも含めて僕らはこの遊びに夢中になっていた。周りから咎められるような、そして同時に身の危険が伴うような、刺激的な遊びを見つけてしまったからには、飽きるまでやめるわけにはいかない。その年の僕らにはそんな風潮が確かにあった。

当時僕が乗っていたのは、雷をモチーフに黒と黄色でペイントされた自転車だ。多分知り合いのおさがりか何かだったと思う。

僕はその自転車がはっきり言って好きじゃなかった。周りの子が乗っているものよりも明らかに一回り小さかったし、ギアを替えるハンドルもついていなかったからだ。その自転車で、大きなしかもギアが六段まである自転車と勝負するのは、当時の僕が中学生と競走するようなものだった。それにそれがおさがりと知ってからか、デザインもどことなく古くさく感じられた。

今ならなんら気にも留めないような些細な違いは、その頃の僕には居ても立っても居られない一大事だったのだ。僕はその自転車をわざと壊して、新しいものを買ってもらえばいいと思った。

小学生の僕は「個性」というものを一切持たないように心がけていた。とにかく人からはみ出すことが心地悪くて、人と違うことに自信が持てなかった。だから多くの子が当たり前のように持っているものを自分は持っていないとか、持っていたとしても周りと少し違うとか、そういうことで強烈に劣等感を覚えてしまう。特にみんなが同じように持っているもの、例えば筆箱や自転車なんか、大きく膨れた自意識の対象になりやすかった。当時の僕らにとって筆箱や自転車はまさに学歴であり、年収であったのだ。

僕は必死だった。友達の団地をぐるぐると周り、ケヤキの木がずらりと並ぶ一直線の道を勢いよく駆け上った。それだけ熱中していたから、時には、角を曲がり切れず、茂みに車体ごと突っ込んで傷だらけになることもあれば、自転車同士が衝突することなんて毎度のように起こった。

だから振り返って、僕らのうちどれくらいの子がそれを本当に楽しいと思っていたのか考えると、胸が少し苦しくなる。中にはこの遊びに前向きじゃない子もたくさんいたはずなのだ。それでも僕らはその遊びをやめるわけにはいかなかった。「チキンなよ」とか、

「ビビってんの」とか、ふざけて言い合ったつもりの言葉には、ナイフを向けるかのような冷たい響きが忍ばせてあった。

やがて、タイヤの滑り止めの溝は見事に擦り切れて跡形もなくなり、頻繁にパンクを起こすようになった。自転車屋さんに、新しい自転車に替えるのを勧められた時、僕はそのつるつるのタイヤを誇らしく撫でおろした。

こうして僕は新しく両ハンドルにギアが付いた大きな青の自転車を手にした。古いものとは何もかもが違って見えた。サドルに跨ると、足が地面につかなくてぶらぶらする、僕は嬉しくて浮かれていた。

それから少しして、周りの子が一斉に自転車を買い替え始めたのは多分偶然ではないと思う。僕らの身長はぐんぐん伸びていたし、大なり小なり、みんなの自転車もボロボロになっていた。そしてそのタイミングで多くの子が子供用の派手にペイントされた自転車を卒業して、いわゆるママチャリに乗り替え始めた。買い替えずとも、親や年の離れた兄弟から使っていない自転車をもらった子も多かったようだ。よくみんなで集まった公園の自転車置き場が、赤だの黄色だの色とりどりであったのから、銀色一色になっていく様は見ていてとても不思議だった。

無駄のないシルバーの車体。それまで気にもしていなかったその退屈なデザインが、なぜだかスタイリッシュに見えてくる。僕はまた、その新しい自転車に引け目を感じなければいけなかった。

思えば、こういう価値観の転倒みたいなものはよく起こった。給食の時に敷くテーブルクロスがポケモンからシックなチェック柄になったり、四角い筆箱がいつの間にかスポーツブランドのロゴがはいったポーチになったり。突然に、それでいてなにか示し合わせたように、かっこいいとされるものはサイコロが転がるようにころころと変わった。

その頃は、タイミングが僕のすべてだった。移り行くスタンダードにいかにちょうどよく合わせられるか、それが当時の僕の一番大事に思えることだった。カードゲームをやめるのも脇毛や陰毛が生えるのも、異性と話すのをやめるのも、自分の恋愛感情に素直になるのも、すべて、絶対的なタイミングが幼い僕らの中にはあって、僕はいつも早すぎたり、間に合わなかったり、とにかくそういうのに振り回されてばかりの子どもだった。

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