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感情と理屈と世界の創造
思いつきメモ。
他人の世界を妄想だなんだと偉そうに片付ける前に、なぜその人にはそのように見えたのか?と考える方がよほど建設的ではないだろうか?
実際にそう考えたり、そう発信してるのには何か意味があるはずだから。
「理屈」で考えるのも大事だけど、それに合わないからなんでも無意味、と片付けるのはなんと一面的なのだろうか、なんとゴーマンなのだろうか、とさえもいえる。
たとえそこに悪い意図があったとしても、そこに悪い意図という意味があるわけだから。
一歩引いてその意図を汲み取る方がより広い視点で見ることができる。
そのときに正しいか正しくないかはひとまず置いておいておく。
機械でない限り必ずそこにはなんらかの「感情」がベースにあるはずだ。
冷酷に切り捨てる人もそこに切り捨てたいという「感情」があったはずだ。
切り捨てられたことよりも、その人がなぜ切り捨てたかったのか、そこを考えるといいかもしれない。
私の奥さんを考えればよく分かる。「理屈」は求めていない(笑)。
(・・・これは余計な例え話だった。)
もとい、
実際はまず「感情」があって、その後に「理屈」がつくられる。
そして「感情のある理屈」に裏付けられて「世界」が創造される。
「感情」を無視したコミュニケーションは成り立たない。
また、「理屈」よりも「感情」のほうがよほど動機になる。
・・・というこれらも「理屈」先行かも知れない。
さっさと手放すことだ(笑)。
「感情」→「理屈」→「世界」の創造の順番で。
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