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虚実の交差の中で、別の逃走経路を探る【でち映画2024/04/12「犬ヶ島」】

愛玩される側になる

ウェス・アンダーソンが好きで数本貸してくれてた老シネフィルが、でもこれは嫌いと言っていた「犬ヶ島」がPrimeビデオに来ていたので視聴。最近は息子も22時に寝るし、ビデオゲームは(また)禁止したし、映画を観る時間ができてきた。

観終わって、老シネフィルがこれを嫌いと言った意味はわかった。日本への偏愛めいた戯画的表現に、人が犬に向けるよりもグロテスクな愛玩のニュアンスが込められている。

ただし、他の作品を観ていると、さらには初期の「天才マックスの世界」などを観ていると、そもそもこの監督は対象を戯画的に愛玩するという表現を、自分自身を含めた全ての人、国、世界に適用しているようにも思える。

もはやそれが善悪の彼岸にある持ち味だし、全てのものを嗤うことによるフェアネスが発生している分、世の人々の振るうよりも抑制された暴力になっているのもわかる。

ただし、その矛先が自分たちの属するアイデンティティに向いた途端、ウッと嫌気が刺すのであった。俺らも自分勝手なもんである。

あのノリはデッドパンと呼ばれるものなんだな

現実世界の酷さと比べてしまう

さて、2018年公開の作品ということで、その後コロナ禍を経て、ウクライナ侵攻、パレスチナ問題の激化が起こり、日本でも裏金問題があってからの2024年の4月にこの映画を観ても、なんというか…なんというか、という気持ちにさせられる。

クライマックスで犬たちの大虐殺は食い止められたが、現実で起こっていることとの対比が、ひどい虚しさをもたらしている。

たった一人の交換留学生の熱意が社会全体を動かす、という建付けも、どこかそれ自体が手垢のついた幻想として、ある種類の人々を虚しい戦いへ繰り出すことへ加担しているのではないか?

もちろん虚しい戦いとは、巨悪に立ち向かうこと自体ではなく、陰謀論をもって他人と関わろうとすることの感情的な正当化などを指す。こんなことは2018年に言ったとしても、あまり人に伝わらなかったことかもしれない。

微力のダイナミクス

何世代も、心身をすり減らし切るように仕向けられて、考えるべきこともやるべきこともできないまま、最小限の意思決定で生活を維持するしかない上に、その態度を「大衆」と揶揄までされる多くの人たちに向けて、

想像できない規模と精密さ(それはコマ撮りで長編映画を作るような)で、産業構造と利害関係を調整しまくった上に、そのパッケージの中に、表裏様々な「世界が少しだけ良くなるような祈り」を込めてフィクションとして届けることの健気さと業の深さを前にして、

俺が海外大手資本のサブスクを経由した一消費者としてできることの中に、思考停止以上の何かがあるのだろうか?という気持ちになってしまう。

しかし、もしそれがあるとしたら?というフィクションを立ち上げることはできる。ないものがあるとうそぶいて始まったとて、その行為自体には実在性が伴う。こんなことは綺麗事ではなくて、だからこそ世の凄惨な出来事が起きているということでもあるんだけど、

こうしてここで誰かがひとり、映画を1本観れたということは、その分何かができたはずだったということが事後的に明らかになったわけで、その最初の一歩として、強すぎて目を覆うようなフィクションの熱風を浴びて、その時たまたま服にこびりついた塩の結晶のようなものを、あとでこそげ落としてから集めておくことができる…こともある。

そのささやかな振る舞いの中で虚実を交差させて、世界をより良く、時にはしくじって余計に邪悪に傾けることがある。ということは幻想として、うわ言として言える。

これくらいが、芸術的専門性を持たざる大衆の中の俺がひとりで選択できる、作品行為とは別の逃走経路であればいいのだけど、どうだろう。

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