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QuizKnockが着火した空前の角田浩々歌客ブーム(?)にテンション爆上がりした件

QuizKnockのYouTubeチャンネルが昨日(二〇二〇・七・二六)公開した「【あたまいい】インテリ東大ワード流行らせ選手権」を見ていたら、角田浩々歌客の名前が出てきて椅子から転げ落ちました。

(一)概要

QuizKnockというのは同名のWebメディアを運営するクイズプレイヤーたちからなるYouTuberです。彼らは動画の中でなぜかしばしば探検家の白瀬矗をいじっており、ここ数年、視聴者たちの間では日本史上まれに見る白瀬矗ブームが起こっていました。当該の動画は第二の白瀬矗を輩出することを目論み、インテリっぽい流行語をプレゼンしあうというもので、「ツッコミ部門」で伊沢拓司氏が取り上げたのが件の角田浩々歌客でした。

なぜ私が椅子から転げ落ちたかというと、この浩々歌客に並々ならぬ関心を持っていたからです。何を隠そうこのワタクシ、現在の日本では数人しかいないであろう宮崎湖処子のファンなのですが、浩々歌客は湖処子の後を承けて『国民之友』の文芸時評欄の担当となった人物であります。湖処子でさえろくに知られていないというのに、さらにまたマイナーな浩々歌客とは……。いくらYouTuber界最強の知的集団であるQuizKnockとはいえ、近代文学史でもレアキャラ中のレアキャラである浩々歌客を持ち出してくるなんて、伊沢拓司、やはりすげーな。

どれくらいマイナーかというと、そもそも手にとりやすいテキストがありません。浩々歌客が主に活躍した明治期の文学作品をかなり細かいところまで網羅的に収録した筑摩書房の『明治文学全集』全九九巻にも入っていません。この全集のうち、文芸評論家としてデビューした『国民之友』系の作家を収める『民友社文学集』や、明治期後半を過ごした新聞社の文筆家の文章を収める『明治新聞人文学集』にも、彼は漏れているのです。さいわい彼のWikipediaの記事には、無料で読める国立国会図書館デジタルコレクションの蔵書URLが著作一覧に紐付けられているのですが、単行本未収録の作品が多く、それらは自力で初出に当るしかないのです。また、学術研究もほとんど進んでおらず、国内の論文を検索できるWebサービス「CiNii Articles」でヒットする論文はわずか八件(!)しかありません。大部分は大阪府立中之島図書館の高松敏男氏の地道なリサーチになっています。

そんな浩々歌客が、いまQuizKnockのおかげさまで空前のブームを迎えております。試みにTwitterで「角田浩々歌客」と検索すると、昨日以来、急激にツイート数が増加しているのが確認できます。

(上記まとめは、資料のために私が作成したものです)

明治文学クラスタの私としては、これを機に浩々歌客がドチャクソ流行ってほしい。もっといえば、名前の面白さや「誰やねん」的興味関心だけではなくて、せっかくならもう少し詳しく知ってほしい。そこで次節からは「浩々歌客入門」を書いてみたいと思います。なぜかWikipediaには妙に詳しく経歴が書いてあるんですが、残念なことに出典があいまいです。QuizKnockの視聴者のみなさんには釈迦に説法かとは思いますが、Wikipediaは素人が誰でも編集できるので誤りが多くあります。特に、出典が書かれていない記事は、合っているかどうか判断できないので、信頼してはいけません。浩々歌客の記事の場合は、「経歴」の内容に出典があるものとないものが混在しています。ここでは、手持ちの資料や論文を基に見ていきましょう。

(二)角田浩々歌客の略歴

人物の略歴を調べるにあたってまず手っ取り早いのは、その分野でもっとも信頼に足る大規模な事典を引くことです。浩々歌客の場合には講談社の『日本近代文学大事典』か吉川弘文館の『国史大事典』でしょう。しかし『日本近代文学大事典』には畑実氏の執筆した僅々二段の解説が載っているだけで、『国史大事典』の方にはそもそも立項されていません。かなしい。

そこで今度は専門の論文に当ることになります。ありがたいことに、畑氏も挙げている高松敏男「角田浩々歌客書誌 1」(『大阪府立中之島図書館紀要』第一一号、昭和五〇・三)に詳細な伝記が出ています。

これによると角田浩々歌客は本名勤一郎。明治二年九月一六日生れ。慶應義塾時代に小野湖山に漢詩を学び、また徳富蘇峰に親炙。明治三〇年二月より蘇峰が主宰する民友社の雑誌『国民之友』にて、宮崎湖処子の後継として文芸時評欄を担当するも、すぐに同誌は終刊したため、招かれて『大阪朝日新聞』に入社、記者として文芸時評を担当します。しかし日露戦後の明治三八年五月には『大朝』の方針が変わって文芸欄が冷遇されるようになり、八月にはライバル紙である『大阪毎日新聞』に異例の移籍。明治末年代には社会部長を務め、全国漫遊の紀行文を精力的に発表します。『大毎』が『東京日日新聞』を買収すると『日日』の初代学芸部長にもなっています。その後は大正五年三月一六日に心臓麻痺で四八歳の生を終えます。以上が略歴で、いってみれば新聞社系の文芸評論家として人生の大分部を過ごしたわけです。このほか高松氏は文芸評論家としての事績として、平尾不狐、薄田泣菫らと創刊した文芸雑誌『小天地』、明治三八年に『東京読売新聞』紙上で片山孤村、長谷川天渓らと交わされた「比興詩」論争、フィンランド文学やチェーホフ文学の先駆的紹介などを挙げています。このうち『小天地』については詳細がよく分からず、国立国会図書館にも欠号が多いのですが、同館の所蔵情況からみておそらく明治三三年創刊とみてよいのではないかと思います。

(三)『小天地』から「比興詩」論争までの文壇

前節では浩々歌客の略歴を見ましたが、略歴というのは得てして、同時代の情況の中に置き直してみないとその意味が理解できないものです。具体的にいえば、彼の事績が当時の詩壇のなかでどういう位置にあったのか? を考えるということ。そこでまず明治三三年創刊とおぼしい『小天地』について考えてみましょう。QuizKnockの動画で伊沢氏が〈主催誌には永井荷風、泉鏡花、与謝野晶子らが参加〉としていたのはこの雑誌のことです。

国立国会図書館が所蔵している明治三四・五年発行分の数冊を確認してみますと、寄稿者は当時の人気作者たちです。尾崎紅葉門下の柳川春葉、通俗小説の中村春雨、新聞連載の家庭小説の代表的作者である菊池幽芳、『文庫』派の指導的立場にあった河井酔茗、その『文庫』派の山本露葉や横瀬夜雨、後期浪漫主義運動の旗手・与謝野鉄幹、その鉄幹の庇護を受けてのちに妻となる鳳晶子、同じくこの頃は鉄幹グループにいた中島孤島や薄田泣菫、のちに自然主義に傾倒してゆくことになる田山花袋や片山天絃、正岡子規門下の歌人伊藤左千夫、このころ初期自然主義を独走していた小杉天外、鉄幹に対抗して叙景歌をやろうとしていた金子薫園などなど。よくぞこれだけ集めましたという感じです。党派的な偏りは感ぜられません。

明治三〇年代前半というのは難しい時代です。まず短歌や詩がめまぐるしく成長していきました。詩では明治二八年に、『少年文庫』という雑誌を河井酔茗が『文庫』と改題します。河井酔茗というのは温雅な詩を書いている地味な詩人なんですが、指導力がたいへんにあって、この雑誌には次第に年少の詩人が集まって、明治三〇年代になると『文庫』派という近代文学史上類を見ない年少詩人グループを形成します。一方短歌のほうも一つの山場の時期で、明治二九年に与謝野鉄幹が近代短歌最初の作品集『東西南北』を刊行したことを契機に、短歌がものすごく盛り上がります。この与謝野鉄幹は、後期浪漫主義の旗手です。前期浪漫主義というのは評論で発達したのですが、いったん下火になり、そのあと鉄幹がめちゃくちゃ我の強い短歌を詠みはじめて、主に短歌と詩で盛り上がってゆくんですね。

明治三〇年には、三木天遊、繁野天来の『松虫鈴虫』(これは『国民之友』で浩々歌客も書評しています)や島崎藤村の『若菜集』など、明治期を代表するアツい詩集が刊行されます。激動の三〇年代のはじまりです。そのあと明治三二年には、薄田泣菫が詩集『暮笛集』刊行します。藤村の影響を受けつつ、藤村以上に芸術至上的。キーツのソネットに学んだ八六調の十四行詩をひっさげて、すごい若手が出てきたぞという感じになります(わかりにくいかもしれませんが、この時期の詩歌というのは、どういうリズムで書くかというのがとても大きな問題でした)。明治三三年には鉄幹が『明星』を刊行、翌年には鉄幹がプロデュースした鳳晶子(与謝野晶子)の『みだれ髪』が出て、とにかく盛りだくさんな時期です。一方小説の方でも、なかなか高校までの現代文や日本史ではやらない時代ではあるんですが、自然主義が萌芽したり、通俗小説が発達したりと、地味ながらも重要な動きが出てきています。

浩々歌客の『小天地』は、いろんなトレンドが乱立しているなかで、それらを広く見わたして、ハズレなく載せていった雑誌だったのです。こういう目利きのいる雑誌が関西にもあったのだ、ということ自体が興味深いです。

では、もう一つの事績である、明治三八年の「比興詩」論争の方も見ていきましょう。お恥ずかしながらまだ資料収集が終わっていなくて、あくまで部分的な説明になってしまうのですが、これは浩々歌客が『東京読売新聞』に連載した「比興詩を論ず」(のち浩々歌客の単著『鴎心録』明治四〇年、金尾文淵堂に収録)という文章にまつわるものです。「比興」とはなんぞや? というのをまず説明すると、古代中国の古典的詩集『詩経』で挙げられている漢詩の技法の一つで、伝えたいことを、面白く、ものに例える、という技法です。で、浩々歌客が「比興詩を論ず」で何を言っているのかというと、きわめておおざっぱな説明をお許し頂きたいのですが、「最近〈象徴詩〉というのが流行っているが、〈象徴詩〉という言葉の意味が分からないし、せっかく『詩経』が〈比興〉という概念をもう言っているのだから、これに学んで〈比興詩〉と呼んだらどうだ」という話です。

ここで問題になっている「象徴詩」というのは、文字通り伝えたいことを別のものに象徴させて描写する詩の手法です。明治三一年に上田敏が『帝国文学』に「仏蘭西詩壇の新声」を発表し、海外の浪漫主義や高踏派とともに象徴詩を紹介したのがはじまりですが、本格的に知られるようになったのは明治三七年、敏が『明星』に「象徴詩」としてヴェルハーレンの「鷺の歌」を訳出したのが最初と見られています。明治三八年には蒲原有明が『春鳥集』刊行して、日本の詩人も象徴詩を作りはじめています。浩々歌客もこのトレンドに反応した一人だったというわけです。浩々歌客のほかにもこの時期には片山孤村「神経質の文学」、中島孤島「暗黒なる文壇」といった象徴詩関連の評論が発表されていて、最終的には象徴詩のボスである上田敏が、訳詩集『海潮音』を年内に刊行、序に〈詩に象徴を用ゐること、必らずしも近代の創意に非らず、これ或は山岳とともに旧るきものならむ。然れども之を作詩の中心とし本義として故らに標榜するところあるは、蓋し二十年来の仏蘭西新詩を以て嚆矢とす〉と述べ、上記の論争への回答という形で象徴詩を整理しています。

海外の詩の翻訳は明治一〇年代からすでにはじまっていて、浩々歌客の先輩である宮崎湖処子も明治二〇年代にワーズワースを紹介したりしているのですが、最新の動向をきちんと踏まえた上で「日本もこういうのを書くべきだ」とマトモにやりだしたのは、上田敏でした。以後日本の詩人たちはながらく、海外の詩のトレンドをしっかりと勉強するようになっていくので、彼の存在はエポックメイキングだったわけです。で、浩々歌客の言っていることは、正直に言えばちょっと古くさい。ただ、新しい時代の波が来るぞ、ということ自体は理解して、素早く反応していたのは間違いないことだと思います。

ね、浩々歌客、面白いでしょう?

(四)「東の坪内逍遙、西の彼」について

件の動画の中で伊沢氏は、浩々歌客の基本情報として〈「東の坪内逍遙、西の彼」と並び称された文学者〉というのを挙げています。これはWikipediaの〈東の坪内逍遥と並び称された〉という記述を踏まえたものでしょう。この記述の出典として挙げられているのは青木稔弥氏の論文「坪内逍遙と角田浩々歌客」(『文林』第三四号、二〇〇〇)です。これはありがたいことに機関リポジトリで全文を読むことができます。

この論文が言っていることは、要約すると次のようになります。すなわち――浩々歌客の紀行文『漫遊人国記』(大正二年、東亜堂書房)に序文を寄せている四人のうち、三人は浩々歌客の関係が判明しているが、残りの一人である坪内逍遙との関係がよく分からないので、考えてみよう。実はこの紀行文のための旅行中に各地の人物から協力を得るための紹介状を、浩々歌客が逍遙に書いてもらっている。しかしこの紹介状は、逍遙が浩々歌客の目の前で書いたものではなく、東京で逍遙が書いたものを、逍遙と交流のあった浩々歌客の弟が取り次いで、大阪の浩々歌客のもとに運んだものであろう。『漫遊人国記』もおそらく逍遙は連載の時には見ておらず、出版直前に序文を書くために読んだものと考えられる――。

逍遙と浩々歌客の関係性はこれっぽっちのものだった、というのが青木氏の分析なのです(にもかかわらず逍遙の序文は的を射ている、というのが論文のキモなのですが)。とすれば、この論文を典拠とする〈東の坪内逍遥と並び称された〉というWikipediaの記述は大嘘です。そもそもそんな話は出てきていません。だからウィキをソースにしちゃだめなんだってー。おそらくこのウィキの記述は、

①「東の坪内逍遙と並び称された」とする文献は別にあるが、間違えて青木論を出典だと書いてしまった。
②青木論を誤読して「東の坪内逍遙と並び称された」と要約してしまった。
③浩々歌客が好きすぎて、架空の評価をそれっぽくでっちあげた。

といういずれかの回路で生成されたものではないかと思います。ただ、浩々歌客に関する研究がほぼなく、本人や関係者の文章もほとんど読まれていない現在、①の可能性は限りなく低く、「東の坪内逍遙と並び称された」というのは存在しない評価なのではないかと考えられます。QuizKnockは、この評価に基づいて、「東の○○、西の角田浩々歌客だね!」というフレーズを提唱しているのですが、ちょっとまずいんじゃないでしょうか。

(五)対案の提案

前節では、伊沢氏が紹介した〈「東の坪内逍遙、西の彼」と並び称された文学者〉という浩々歌客の情報が誤謬である可能性が高いことを指摘し、「東の○○、西の角田浩々歌客だね!」というフレーズには問題がある、としました。しかし、これだけで終わるのも申し訳ない。これを没にする代わりに、対案として別のフレーズを勝手に提唱したいと思います。それは、

「○○(誰かの苗字)××(その場の印象的な四音程度のフレーズ)歌客だね!」

です。これは「角田浩々歌客」という名前が、動画内でもさんざんいじられていたように、やたら長い上になんか面白い、という点を利用したフレーズです。そもそも角田浩々歌客という名前について考えてみますと、まず「角田」は本名の苗字です。で、問題は「浩々歌客」なわけですが、「浩々歌客」でひとまとまりなのか、「浩々」と「歌客」に分かれるのかは一考の余地があります。というのも「歌客」というのは、「漁史」だとか「主人」みたいに、雅号の下につける語のように見えるからです。例えば森鴎外ですと「鴎外漁史」ですし、正岡子規ですと「獺祭書屋主人」です。むかしは雅号の下にさらにこういう「立場」をあらわす語を置くことがよくありました。「歌客」というのは、詩歌に携わる人物である、くらいの意味でしょう。浩々歌客以前の人物に用例が見られないので、これは造語だったのだと思います(浩々歌客以後だと小説の人物などに用例があります)。「浩々」が単独の号として意識されていたのか、「浩々」(水が広がってゆくさま)とした「歌客」であるという意味で「浩々歌客」がひとまとまりだったのかはよくわかりませんが。

で、私が提唱する「○○(誰かの苗字)××(その場の印象的な四音程度のフレーズ)歌客だね!」は、こういう不思議な名前の構成をパロディにしたらどうか、という試みです。たとえばQuizKnockの「リモート朝からそれ正解!東大生ら10人で爆笑回答連発!?【#17】」で、「「ぽ」ではじまる赤いものといえば?」という問いに対してYoshidaさんが「ポニョ」と回答して物議を醸しました。

こういうときには「Yoshidaポニョポニョ歌客だね!」といえばいいのです。あるいは「東大生弱すぎwwwしりとり風ゲームしたら語彙がすごい奴かポンコツしかいない【なかとり】」では、こうちゃんさんが「おまま」というよくわからない言葉を言って問題になりました。

こういうときには「渡辺おままおまま歌客だね!」になります。ちょっと字余りだけど。

(六)結語

まあ、前節で提案した「○○(誰かの苗字)××(その場の印象的な四音程度のフレーズ)歌客だね!」は寒い冗談だとして、角田浩々歌客がホットな人物であることはここまで述べてきた通りです。せっかくQuizKnockで取り上げられたからには、このままブームが加速して、なぜかみんな知っている文人になる……という未来を夢想してやみません。頑張れ、角田浩々歌客!!!!


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