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国葬の日に

一国の長になるとき、「聞く力」をもつということを言ったのはみんな覚えている。これは前任者たちがあまりにもそれを持たなかったことへのアンチテーゼのみせかけであり、その場かぎりの主張だったのだろう。

今日は前々任者の国葬の日。武道館のある北の丸公園は閉鎖され、わたしの散歩コースに立ちはだかった。九段下から坂を上ると武道館の入り口、そしてその先、大山元帥像のある九段坂公園は一般献花の場所だ。はるか先の内堀通りからつづく千鳥ヶ淵の桜道は行列を予想して立ち入り禁止となっていた。

国葬にあたっての「聞く力」はなかったに等しい。感染者の自宅療養や海外からの受け入れに対する規制の変更に対しても、専門家の意見が割れたとき、片方の主張に肩入れした。「政治判断ではなく専門家の意見をしっかり踏まえた結果だ」と逃げた。「聞く力」はおろか、「丁寧な説明」もない。

「文にあたる」(牟田都子さん)この校正仕事のエッセイに対して、渡邊十絲子さんの書評(毎日新聞)にはこうあった。これをそっくりそのまま、今日の国葬の葬儀委員長をつとめる一国の長に投げてやりたい。

「たいていの人は自分の書いた文章を人に直されるのを嫌う。書いたものは自分の分身のように自分らしいものだと感じ、表現や表記に疑問を示されると、自分のセンスが否定されたように感じるのだと思う。しかし、文章を書いてメシを食っている人は自分の文章を何度でも直すのが普通だし、他者に疑問点を指摘してほしいと考える。校正者の目をとおらない文章が人目にさらされるのは怖いことだ」