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書道ってなあに?これから書道を定義してみます。(2/2)

こんにちは。お字書き道TALKSです。
このnoteでは、字にまつわるあれこれ様々をざっくばらんに記録していきます。YouTubePodcastもよろしくお願いいたします。

前回からの続き。

今回で(2/2)ちゃんと完結しますのでお付き合いくださいませ。書道関係者の方、何だかイラっとしたらごめんちょ。

「芸」の誕生


昔々のこと、まだ人類が誕生していないくらい昔でもいいかもしれません。
例えば中が空洞になっている木か何かがあって、そのとき地球に住んでいた少し高等な知能を持つ生き物が、その木を叩いたり、あるいは体をぶつけてみたりした。

すると、何だか良い音がして楽しかった。
例えばこんなようなところが、後の「音楽」に繋がるのかなと思います。

文字に関して言えば、もともとは古代エジプト(紀元前3200年〜紀元後400年頃)のヒエログリフに代表されるようなデフォルメされた「絵」だったわけで、この「絵」の要素がどんどんデフォルメされて、最終的に現在の「文字」に到達しました。

昔は、現在のように紙やペンなどはないので、ルーン文字(西暦100年代〜200年代、ゴート族)なら金属板を引っかいたり、甲骨文字(紀元前17世紀〜紀元前1046年、中国・殷王朝)なら文字通り亀の甲羅や動物の骨なんかに彫り付けて文字を残していました。

で、これたぶん最初は、文字って便利!
物事を記録して保存できる!
スゴイ!便利!

みたいなことだったと思うのですが、どうもこの便利なる「文字」をたくさんの人たちが書いていったところ、そのうちにデザインがキレイに整った状態で紙などに書きつけることが出来る人たちが一定数現れたでしょうし、そういう人たちは書記官みたいな当時の上級職に就いたりなんかしたんだと思います。

しかし、こんなことが続いていく中で、「デザインがキレイに整った状態で紙などに書きつけることが出来ている」ということ以外に、どうも書く人によって各個人の特徴が出ちゃってる気がするぞ。と気が付いた。

つまり、「筆跡」の存在に気が付いた。
現在でもこの筆跡をもとにして、筆跡鑑定なんかの科学捜査が行われていたりします。

そして、この「筆跡」を拡張、誇張していったのが書道という「芸」のはじまりだったんじゃないかなあと推測されるわけです。

で、この「芸」の技術によって表されたものが「芸術」作品かなと。ただそれだけ。


余談ですが、コレは芸術の域に達していて、ソレは芸術の域に達してないとか、なんだそれ!?wwみたいな議論があったりしますが、だからなんだって思います。何かの価値をはかったり足切りしたりしてるのかな!?どういう意味があるのかは良くわかりませんが、たった今そのとき。みんなが欲しがれば価値が高くて、欲しがらないと安いだけです。

2022年現在、エネルギー価格は大変に高騰していますが、2020年には原油価格が一時マイナスまで行ってしまったこともありましたね。(つまり保管場所がいっぱいなので、お金払うから貰って行ってくれないと港の積み荷がもう降ろせなくて、港が大渋滞していた。)

とにかく対象が何であれ、たった今そのとき。みんなが欲しがれば価値が高くて、欲しがらないと安いだけです。芸術だとなんなの?(笑)と。

古代から、どうやって「書道」に発展したか


ところで、漢字の元となった甲骨文字は3300年前(殷の時代)から使われていたようですが、古代から、いかにして書道というものが生まれたのかを考えてみます。

記録という行為・絵の発見

絵が文字に進化

可読性の高い文字が優秀

A.文字を書く技術者が育つ
この人たちは概して文字を書く技術が高い、美文字


いろんな人が書いていたら可読性の高さ以外にも個人に依存する何かがあることを発見

文字を書く、線の集合によって何かをあらわすと筆跡が生じることを発見

B.転じて、筆跡によって、その筆跡と対応関係にあるワタシを表現することが始まる
書道と呼べそうな領域がスタート

A.とB.は目的が異なる。
B.に於いては文字を書く技術が必ずしも高くなくとも良い。

「書道」というのは「プレイヤーサイドがどのような立場・マインドで支持体に臨んでいるかだけの話」です。


もちろん、A.に於いては文字を書く技術の高さのみが重要。
だって、可読性の高い文字を書く技術者なのだから。

また。概ね、B.的な表現をするためには、A.的な技術の高さが裏打ちになることが多く、それゆえA.(美文字)B.(書道的表現)は高い隣接性を持つが、そもそもこの2つの領域に一方が他方を必要とするような関係性はありません。

例えば野口英世の母、野口シカさんの書いた手紙(是非検索してみてください。これはすごい。大好き。)に得も言われぬ味わいがあることと、その手紙が「書道作品」であるかどうかは一切関係がないということです。

シカさんは文字の読み書きが不慣れであったのだけど、外国にいる息子あての手紙を書くためにおそらく必死になって書いた。と、そのサイドストーリーを知らずとも感じる味わいがあると思うので、ぜひチェックしてみてください。

野口シカさんの書いた手紙はそれが書道作品と呼べるかどうかとは関係なく味わい深い。


「書道作品」とは書き手が、その筆跡によってその筆跡と対応関係にあるワタシを表現したものであるが、そのような「書道的な」表現行為が行われているかどうかということと<支持体上に示された何かに、何らかの価値が生じているかどうかなどは全く関係がないのです。>

ですから「コレは書道です!」のように自らの表現物をどうしても「書道作品」であると言いたい人は、何故そうしたいのかやはり良く考えなくてはならないのだと思います。なぜなら技術の程度はさておき、筆と墨と和紙などで何か文字を表すことは今すぐ私やほとんどの人にとって可能なことだからに他ならず、また先に挙げた野口シカさんの書いた手紙を味わい深いものとすることが差し支えなければ、つまり高い技術によって示された文字でなければ何か価値を持たない訳ではないからです。そのうえで、自らの表現物をどうしても「書道作品」だと言いたい理由があるならば、そこにどんな意図があるのかは明確でなければならないだろうと。

一切のこまごまとした分類的な取り扱いを取り除けば、そもそも、いかなる画法、画材選択、描写対象(抽象具象)の選択に重要性などはなく支持体上に示された何かが持つ良きにつけ悪きにつけの「何らかの価値」のみが重要なことだと言えるでしょう。

別に文字を書いたりしたものが、「書道」であろうがなかろうが、それは重要なことだろうか!?そう思ったりします。

書道に隣接するもの。分類・整理。その1


もう少し詳しく見ていきましょう。
書道(書)やその界隈に存在するものを挙げてみます。

  • 筆文字

  • 硬筆文字

  • ドローイング(ライン・ドローイング、線画)

  • 墨象(墨の造形美を追究する)

  • 絵全般

まず、書道の作品は、大きな分類として「絵」という範囲に収まるものであると考えます。前項で述べたように特に漢字などはもともと絵なのですから、それがさらに抽象化された文字を書くことは、まあ要するに絵を書いている訳です。書道の世界では字源(「あ」の字源は「安」)を大切にしようと言われますが、平仮名の字源は漢字だし、漢字の字源は絵です。

突き詰めるほど、ただ「絵」を書いていることになりますし、墨象などは「書道分野なのに文字を書かない!」ってんですから、文字を書かないならもう単に画材が「墨」に指定された抽象画と言う訳です。絵です。

とにもかくにも、「書道は絵」です。これには大小の異論はあるかと思いますが、詳しくはこれから説明していきますね。

絵を構成する要素は、「線」「形」「色」「画材の選択や使用法などから来る質感など」でしょうか。

「画材の選択や使用法などから来る質感など」についてもう少し詳しく見てみると、描かれている上物だけでなく、どんな材質でどんな形状の何(支持体)に描かれて(書かれて)いるかというあたりも重要です。
ラウンドした教会の天井など、必ずしも平面でない場所に描かれた絵や字などは数多く存在しますから、平面に対して書かれている必要もなければ、例えば石に描かれて(書かれて)いるような場合もあるでしょう。

絵を構成する要素⇒「線」「形」「色」「画材の選択や使用法などから来る質感など」
このうち書道にとって必須の要素は、多くの書家も言う通り、「線」かなと思います。

つまり、「絵」という分野のうち、「線」にこだわっているのが「書道」。
ここから少し、補足的なお話をはさみます。

書道には「線」の要素が必須


絵を構成する要素「線」「形」「色」「画材の選択や使用法などから来る質感など」
このうち書道にとって必須の要素は、「線」。

「絵」という分野のうち
「線」にこだわっているのが「書道」。

「絵」を描くことを考えてみると、例えば紙にスタンプを押していくことでも絵は完成します。このときにスタンプにつける絵の具の色や材質をスタンプを押すたびに変えてもいいでしょう。この場合に完成する絵には線の要素は含まれず、「形」「色」「画材の選択や使用法などから来る質感など」のみで描かれたものということになります。また、点描画というのは「線の要素を含まないように意図して書かれた絵」と言えるでしょう。

ですから、必ずしも「絵」にとって「線」は必須ではありませんね。

しかし、「書道」が取り扱っているのは「線」です。この線の表現を主にしつつ、「形」「色」「画材の選択や使用法などから来る質感など」なんかも表したりします。


筆で描く線には、筆の穂にかける筆圧によって線の「形」の要素が生まれたりしますが、硬筆の細くて硬いペン先で紙などに書きつける線にはおよそ「形」の要素は含まれない、もしくはほとんど含まれません。ですが、いずれにせよそこには「筆跡」というのものが存在します。

スタンプや点描のみを用いても「絵」は完成しますが、「線」の要素が無ければ「筆跡」は生まれない。だから「線」の要素が無ければ「書道」の要件を満たさないだろう。と言っているイメージ伝わって来たでしょうか?


また、書道における「色」「画材の選択や使用法などから来る質感など」にあたるものは墨の濃淡でもいいですし、もしくは必ずしもいわゆる墨で書かずとも、水彩絵の具などで字を書いてもいいし、赤いボールペンで字を書いてもいいし、和紙に書きつけても、画用紙に書きつけても、段ボールに書きつけてもいいのだと思います。

何か狭量なものを書道と言うために今回のお話をしているわけではありません。細かいことは自由で構わないけれど、「線」の要素が必要だ。と、まずはただそれだけ。です。

書道に隣接するもの。分類・整理。その2


書道やその界隈に存在するものとして以下のものを例に挙げていました。

  • 筆文字

  • 硬筆文字

  • ドローイング(ライン・ドローイング、線画)

  • 墨象(墨の造形美を追究する)

  • 絵全般

これらの関係を整理してみましょう。

とにもかくにも、すべては「絵全般」に含まれます。筆文字や硬筆文字は筆記具の指定によって分類されるもので、あと筆・硬筆「文字」と言っていますから、文字を書かないといけないでしょうね。

ドローイング(線描画)は画法によって分類されるべきもの。例:点描画

墨象は、油画・水彩画などと同じ画材の指定によって分類されるものでしょう。また文字を書いてはならず、加えて具象表現(鳥の絵を描くとかね)も禁止かな。墨で鳥の絵を描いたらそれは「墨絵」に分類されます。つまり、墨で抽象画を描くと墨象らしいです。


今回の目的は「書道ってなあに?」を明らかにすることで、定義についても第一回で述べましたが「筆跡に責任を持つために書いたもの」です。

「筆跡→ワタシ」という個人と対応関係にあることを利用して、「その筆跡によってワタシを表そうとしたもの」また「表す行為」 ⇒ 書道だということ。と言うことで、まずは筆跡が生まれないといけないわけですが、筆記具の指定については別に毛筆だろうが硬筆だろうが筆跡が生まれますし、別に指に墨やインクなどを付けて支持体に何かメモをしたとかでも筆跡は生まれますね。なので、筆記具が何であれ書道であるかどうかについては関係がない。

書道と筆記具は関係ない。

点描、これはスタンプを押していくことでも構いませんし、広義で言えば山下清画伯のちぎり紙細工も点描に分類できるかな!?ここには筆跡は存在しません。とにかく線を引かないと筆跡が生まれないので、線を引きましょう。

書道は線を引かないとダメ。

画材の指定については墨だろうが、油絵具だろうが、水彩絵の具だろうが、いったい何を使おうと「線さえ引けば」筆跡が生まれます。なので、書道と画材の指定については関係が無さそうです。

また、墨象は読んで字のごとく画材を墨に指定していますし、線を引くことを必須としていませんので、墨と和紙を使うことが多い書道の隣接ジャンルとは言えそうですが、書道ではないと言うことになりますね。墨象は書道ではない。

書道と画材は関係ない。

まとめると。

書道と筆記具は関係ない。
書道は線を引かないとダメ。
書道と画材は関係ない。

です。

任意の筆記具と画材を用いて、線を引く。
すると「筆跡」が生まれる。

そのうえで、「筆跡→ワタシ」という個人と対応関係にあることを利用して、「その筆跡によってワタシを表そうとしたもの」また「表す行為」 ⇒ 書道だということ。

「書とは筆跡がワタシと対応関係にあることを利用して、<筆跡の要素を含めた自己表現>を目指す意図が含まれる(またはそのことを排除しない)形で書かれた造形物である。」

ピカソのドローイング作品

パブロ・ピカソ「平和の鳩」

について、ピカソ本人が「この作品はワタシの筆跡をあらわすことを目的に、鳥の絵と言う具象表現を用いたものだ。」ともしそう言ったならば、この絵は書道だと本記事ではそう言っています。

または、ピカソ本人が「線描で鳥の絵を描いてみた!この鳥さん可愛くない??」とか言っていたら、筆跡より鳥が大事なので、書道ではないと言うただそれだけ。

第一回の末尾にも書きましたが、書道と言うものは。
ワタシが筆跡に責任を持つために書いたのですから、無論本人の意思表明によって書道は成り立ちます。むしろそれだけで良い。

書道の発信者と受信者


「筆跡に責任を持つために書く」
といったようなピンポイント過ぎる行いについては、およそ一般の人が手を出す領域でないものと思いますが、その分かえって、敢えてわざわざ「そんなこと」に情熱を注ぎ、その取り組みを「芸」として昇華しようとすることに努め、またその芸や、芸の技術、芸の技術によってあらわした何か、をもって世界と対峙しようとする「書家」という人種に対して崇高さや、美しさを感じる次第であります。

しかし、このあまりにピンポイント過ぎておよそ一般の人が手を出す領域でないものについて、社会一般といった側にはこれらを正しく受け止め、理解するリテラシーの獲得に努める義理はない。何故ならあまりにピンポイント過ぎておよそ一般の人が手を出す領域でないものだからです。そして、だから社会は書道をおよそ正しく受け止めることができない。

つまり、書道をやる人(書道の発信者)=書家は当然のように生きづらい。
何故なら正しく受信して貰えることがほとんどないから。

なので、今回考察してきた書道と非書道のちょっとわかりづらいあたり、境界線上風に見える例えば「美文字」などに焦点をあてて(だって、これは読みやすい字。と言うことは書道とは関係なく役に立ちますし!)、それを教えたりなんかして、書家ではなく「美文字の講師」として口に糊をして行かねばならないのは、他分野の多くの「芸の術の人」同様に切なさも背負っていたりすると。

ただもちろん、それがダメだとか劣っていると言うことではなく、社会がお金と交換してくれるのはそのような部分だったりするというお話。仮に「美文字の講師」を目指して今日も筆と墨と和紙に向かっている人だっているでしょうし。素晴らしいことだと思います。

他のジャンルでひとつ例を挙げれば、哀しいことか嬉しいことかはわかりませんが、世界的なジャズ・ギタリストの最終キャリアの多くは大学教授だったりします。

以下、余談ですが。
前述のように書家とは崇高で、美しい。また、ある人物に対する認識が「書家(美文字の講師)」であったとしても、純粋な意味での「書家」との隣接性はとても高い。

これらのことから、書道界隈に籍を置くことはエレキギターを弾いてポピュラー音楽に従事する人との比較において、崇高な行いをしている人として扱われやすいことは、筆者として羨ましく、妬ましくもありますが!

つまりポピュラー音楽をやっていると言うだけでは崇高さを感じてもらうことは非常に難しいが、書道をやっている(もしくは書道と隣接性の高い墨と筆で美しい、あるいは意味ありげな文字を書いている)というだけで、最初から少し評価に下駄履いてる感が妬ましい。

こちとら「エレキ」「ギター」を持って、「ポピュラー」音楽なんかやってるとですね。仮にバッハの曲を弾こうがもうダメ。って時がある。

「アコースティック」な「ヴァイオリン」何かをもって、「クラシック」音楽なんかをやってると、多少崇高なことをやってる風に下駄履いて見て貰えるかもしれませんね。

まあ別に崇高なことやってると思われたい訳じゃあないんですが、ひとつも音を出す前から低俗なことやってると思われるのは居心地悪いんですよ。これが何というか実に。

だから、キレイな字を周囲に示しつつ「ワタシ書道やってます!」と公言しておくのは、周囲が多少なり下駄を履かせた評価をしてくれる可能性が上がって、それによって自尊心を高くして生きていきやすいというライフハックかもしれませんね。書道的な何かおススメ。

大切なことですから繰り返して言っておきましょう!

『書道的な何かおススメ!!』

まとめ


なかなかわかりづらい話だったかもと思いますが、書道、あるいは音楽についてでも、それを受け取る側のリテラシー、読解・認識する能力が高まれば、より作品を楽しんだりできると思いますし、発信側もより多くのことが伝わって嬉しい。Win – Win。

少しでもそんな風な世界に近づくことがあれば良いなあ。

と、そんなお話でした。
ご意見、ご感想、各種コメント、メッセージなどお気軽にお寄せください。


最後に本記事の最重要部分を再掲して終わりたいと思います。

『書道ってなあに?これから書道を定義してみます。』

「書とは筆跡がワタシと対応関係にあることを利用して、<筆跡の要素を含めた自己表現>を目指す意図が含まれる(またはそのことを排除しない)形で書かれた造形物である。」

今回以上。それでは!

前回その1↓↓↓


※毎週木曜19時更新

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