#210『海辺のカフカ』村上春樹

 久しぶりの再読シリーズ。この小説が発表されたのは大学一年生の時が気がする。文学のクラスの辛気臭い講師がだらだらと嫌味を言っていたのを思い出す。
 私はこの作品までのはほとんどの村上作品を読んだと思う。エッセイや翻訳も含めて。つまりかなり好きだった。まあ当時の大学生で小説を書きたいと思うような者で村上春樹に影響されなかった人なんて、ほとんどいないだろう。それくらい強力なインパクトがあった。
 しかしなぜか熱が冷めてしまって、その後はすっかり読まなくなった上に、持っていた氏の著作もほとんど全部手放してしまった。『1Q84』も読んでいない。で、小説をいくらか読むような人と話すと決まってこういう同意に至る。「まあ、村上春樹は一度は通る道だよね」
 ということは、永遠に踏み続ける道ではないということなのだ。しかしそれはなぜなのかということは、考えないままだった。
 このたび、ふとこの作品を読み直そうという気になった。それで私は結構ナイスな理解に達してしまったような気がする。
 ただ、その内容を最近口頭で喋ってしまって、今更ここに書くのが面倒くさい。それで超簡潔にまとめるに止めようと思う。

・近代小説は論理的連続で成り立っている。それがほとんど唯一のルールである。
・論理が支配する世界では偶然や奇跡は排除される。偶然や奇跡が出てくる小説は、作品の出来として「ご都合主義」「破綻」「説明不足」と言って減点を受ける。
・しかし逆に言うと「ヨーロッパ・近代」の小説以外の物語の様式は、「ご都合主義」「破綻」「説明不足」の方がむしろ標準であり、人類はその作法に古代から慣れ親しんできた。そちらの方が、無意識は手応えを感じることが出来るからだ。
・現代の読者は古代からの物語の系譜を無自覚の内に取り戻したいとの欲求を持つようになった。村上作品はそこに見事にヒットした。
・というわけで村上作品には論理的連続性というものがポリシーのように存在しない。というか、ほとんど頑迷なまでにそれを拒否する。それがA・Bパートの並行や相互影響(ただし論理的に説明可能な因果関係は絶対にない)などの独自の物語話法の源になっている。

 以上が、村上春樹が世界に歓迎された主たる理由だと思う。本作も勿論、その芸風に則っている。ただ他の作品と同様、本作も、その方法論によって「何が得られたのか」というと、微妙、である。
 何もそこにこだわらなくても、とか、うーん、それって解決? とか、私個人としては「そう、ほんとそうなの、これを誰かに言ってほしかったんだよね」みたいな体験は0だった。そもそも問題提起、設定に無理があるし、必要以上に思い詰め、決め付けている感が否めない。無駄に悲壮である。
 構造上もちょっとぬるい部分があったように思う。星野くんパートは、まあそれなりに楽しめた。新鮮味もあった。
 読み始めると読み進めさせる力はとても強い。でも読み終わった後に、主人公と一緒に旅した気持ちにはなれなかった。とまあそんな感じであった。
 

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