転調 第四話
第四話
私がギターを弾いた動画への反響は、予想していたよりも遥かに大きかった。再生回数の桁数が数えきれないくらいだった。
「ちょっと! 何ふざけたこと言ってるの? 辰則をバンドメンバーにして、ライブに出すですって?」
マンションで、かすみは、私を太腿に挟んで、私の爪を丁寧に切ってくれている。
「見てよ! この爪!」
かすみは私の肉球を持ち上げて押し、まだ切っていない爪を見せた。ナゴミと沙汰は覗き込む。
「一曲弾いただけで、爪ボロボロじゃない!」
「そうか。それは可哀想だな。気付かなかった、悪かった」
沙汰は、申し訳なさそうな顔をしている。
「そうね、ごめんなさい。私が軽率だったわ。ねぇ、肉球に大きめのピック(ギターの弦を弾くための人工の爪)を着けてみたらどうかしら?」
ナゴミの提案に、かすみはまだ渋い顔をしている。
「それと、辰則君に演奏してもらうのは、新曲『銀クラ』だけ。それも間奏のギターソロに限定するわ。出演は短時間でも、話題として引っ張ってもらえれば、それでいいの。どう?」
私は、「うにゃあ」と一声鳴いて、かすみの足から抜け出し、近くに立っているナゴミの足へ、スリスリと胴体を擦り付けた。「その条件でいいよ」のサインだったが、伝わっただろうか?
「辰っちゃん、いいの?」
かすみが不安そうに聞いてくる。言葉で伝えられないのがもどかしい。
「辰則君の事、注意して見てますから。この子が嫌そうにしていたら、すぐに止めますから」
ナゴミの真剣な表情に、かすみは折れた。
「少しだけですよ。猫は大きな音が苦手だから、演奏終わったら、すぐ静かな場所で休ませてね。おやつも忘れずに」
かすみは優しい子に育ったなあ。私は、嬉しくて、かすみの太腿の間に戻った。柔らかーい。
ナゴミ達は約束を守ってくれた。私の出演直前まで、静かな会議室の様な場所でくつろいだ。出番が来たら、ナゴミに抱っこされて舞台の袖の様な場所を通って、ステージ中央の沙汰のいる場所まで連れていかれた。予め、注意事項として伝えられていたのだろうか?袖にいた時は、相当歓声がうるさかったが、私の登場で、会場はシンと静まり返った。沙汰の歌とギターと、家夢のシンセサイザーが作り出すドラムの音だけが響く。その音量も控えめに聞こえる。
沙汰の前に着いた直後、沙汰の歌が止まり、ギターを私の目の前に差し出した。ドラム音に合わせて、ギターの弦を十秒程引っ掻き、再びナゴミに抱っこされてステージから去った。袖を通って戻るとき、遠くで歓声と拍手が鳴り響くのを感じ取り、成功を確信した。
帰りの車の中で、運転席の沙汰の機嫌は、予想外に悪かった。あれだけの歓声が気に入らなかったのか?耳を立てて、沙汰達の会話を聞いてみる。
「やってらんねえよ。辰則の出番が終わったら、客の大半が帰りやがった」
「チケット捌けて良かったじゃない?」
隣のナゴミの声に慰めが込められているのが分かる。
「ほとんど客いないんだぜ。超テンション下がっちまったじゃねえか! なあ家夢?」と怒った声
「今日は、辰則君のファンがたまたま多かったという事で、いいんじゃないすか?」
後部座席で私の隣にいる家夢に、不満はなさそうだった。
「あいつら、猫がギター弾く絵を見たかっただけじゃねぇか! ロックを分かってんのか?」
私は、聞き耳を立てていて、少し苛々してきた。どうやら、久し振りのライブみたいじゃないか? チケットも売れて、何が不満なんだ? 客が皆、自分のファンじゃなきゃ気が済まないのか? 考えていると、ナゴミが諭す様にいう。
「今回は辰則君に助けてもらったの。文句言わないで。ねえ、辰則君」
キャリーケースの天板が開き、細くて長い指が、優しく私の頭を撫でていく。
「これで、話題は作ったから。沙汰さんは早く次の詞を書いてね、曲は私が提供するから」
次の日の朝
「スタジオ取れたから行ってくる」
沙汰はムスッとした顔でマンションから出て行った。私は、桃子やかすみと一緒に見送った。ギターを持って行ったから、嘘ではないとは思うが、浮気の可能性もあり得るとちょっと心配になった。
見送った後、かすみに甘えた振りをして、彼女の足に体を擦り付け、お約束通り抱っこしてもらう。その時に、かすみの表情を確認する。嬉しそうだった。この分だと、本当に練習か仕事に行ったのかも知れない。でもな、かすみ、お前が優しくて簡単に人を信じてしまう所は、ちょっと心配だぞ。
「帰ったぞ」
低い声で沙汰が帰ってきたのが分かった。かすみは、収録があると言って出て行ったきりだった。私と桃子の二人で出迎えた。
「飯食ったか?」と聞いてきたので、二人で声を揃えて「うにゃあ(まだ)」と答えた。すると、通じたのか、猫缶を開けて、テーブルの下に置いてくれた。沙汰もリビングのテーブルで何か食べると、ムスッとした顔のまま、ギターを取り出し、アンプに繋げないで、ジャカジャカと弾きだした。
「やっと、やる気になった様ね」
桃子が、猫缶を自分の元に引き寄せながら言う。
「途中で客が帰っちゃったから?」
私は、桃子の下にある猫缶を前足で手繰り寄せながら聞く。
「それもあると思うけど、お兄ちゃん、ベッドのお部屋にある紙見た?」
「何それ?」
「悔しいから貼っておくって、昨夜言ってたよ。お兄ちゃんが寝てた時、ずっと『チキショー』って叫んでたよ。何て書いてあるか教えてよ」
「わかった、行こう」
ベッドルームのドアは閉まっていた。私がジャンプしてドアのレバーハンドルを引き、ガチャと音がした瞬間に、桃子がドアを体で押した。沙汰は気付いていない。ドアは開き、ベッドルームへの侵入は成功した。
部屋に入り、大きなベッドに登ると、枕元にプリントされた紙が貼ってあった。以前見たことがない紙だったので、これだなと思って読んでみた。どうやら、インターネットの掲示板の画面をプリントアウトした物らしい。
辰則かわE(イー)
沙汰よりリズム感あって草生えるww
今北産業
ヘビロクに
ぬこ様がメンバーに加わり
沙汰首になりそう
ぬこうp 沙汰ぬこに気を遣っていてワロタ
こいつジェラートとぬこに食わせてもらってんな
ヒモ二本になってて裏山 人生勝ち組
マジレスするとアマ並みのギターテクで昔のまぐれに縋ってただけ
声もぬこの方がかわE
沙汰ぬこのブリーダーやれば? ぬこだけでバンドできる
それはないわww 家夢はいるで
あいつ家借りられたんか?
マジレスすると沙汰が保証人になったらしいで
泥船やないかww
「お兄ちゃん早くぅ」
桃子にせがまれ、仕方なく丁寧に読んでやった。
「イマキタサンギョウ?」
「今来たところだから三行で説明して」
私は、昔の知識と憶測を組み合わせて説明する。
「ぬこっていうのは猫の事。うPは画像提供してって事かな? 草生えるとギザギザ記号は、笑えるの意味らしい。裏山は羨ましいの意味」
「お兄ちゃん、よく分からないけど。沙汰って、どうやら馬鹿にされているみたいね」
「そうだと思う、悔しかっただろうね」
隣のリビングからは、ギターのジャカジャカ音が深夜まで続いた。
次の日も、その次の日も、沙汰はスタジオに行くと言って出て行った。見送る際に、臭いを嗅ぐ振りをして沙汰の左手の指先を見ると、指にタコができて硬くなっているのが分かった。ギタリストはここが硬くなるのは分かっている。出会った頃は、タコなんてなかった。本当に練習しているらしい。
「『ねこねこにゃんにゃん』です。きょうの猫ちゃんは、ヘビーロックの天才ギタリスト辰則君と、妹のフローレンスちゃんです。ゲストは、同じくヘビーロックのキーボード、源家夢さんです。拍手ぅ」
かすみは、私と桃子を抱っこしてオープニングに入った。私達はすぐに床に降ろされたので、セットのこたつのテーブルの上に移動した。それにしても、この番組、同じ事務所の人間ばかりが出演しているが、大丈夫か? 私が腹這いで寝そべり、ぼんやりとそんな事を考えていると、桃子が隣に寄って来て、二人で並んで寝そべる格好になった。
「あいつ、ダメ男に引っ掛かってザマあと思ってたけど、沙汰が真面目になっちゃってつまんない」
多少嫌味は入っているが、以前ほどかすみに対して嫌悪感を持っていないようだ。話している時の横顔が穏やかで、緊張感がない。
「そういえば、桃子がベビーベッドの頃、かすみに齧られていたな。ごめんな、もっと強く注意すればよかったな。まだ怒っているんだろう?」
「それだけじゃないよ。あいつ、私の上で何回か吐いたのよ。その汚れも落ちなかったし。お兄ちゃんが死んじゃった後、奥さんがわたしをリサイクルショップに売ろうとしたの。でもね、傷と汚れのせいで買い取ってもらえなかったの。仕方ないからって、粗大ごみに出されちゃった。そこで処分されて、桃の人生終わっちゃった」
私は、申し訳ない気持ちで感情が高まり、尻尾の震えを止めることができなかった。私が死んだことで、自分の周りの人生を狂わせてしまったことに、今更ながら気付かされた。
「ごめん」頭を桃子の体に擦り付ける。
「気にしてないわよ。お兄ちゃんと奥さんには大事にしてもらってたし、あの女も悪気があった訳じゃなくて、おバカだっただけ。仕方なかったのよ」
「じゃあ、桃子は幸子より早く死んじゃったんだね。幸子はその後、いい人生を送ったんだろうか?」私は感慨にふける。
「奥さん? いい人生かどうかは知らないけど、まだ生きてるよ」
「え?」
「もう、かなりのお年らしいけどね」
桃子のコミュ力にはいつも驚かされる。
「俺たちって、それ程遠い未来に生まれ変わった訳じゃなかったのか」
「よく分からないけど、お兄ちゃんの住んでいた埼玉の家にまだ住んでいるって、植物仲間からリレーで聞いた。ほら、あいつの墓の横に、赤い花植えてたじゃない?」
それを聞いて、無性に幸子に会いたくなった。私の亡き後、面倒をかけただろうに。会って謝りたかった。そう考えている事に桃子は気づく。
「お兄ちゃん、猫一人で埼玉に行くのは大変よ」
「そうだな、お金もないし。ライブで埼玉に行くことはないかな?連れて行ってもらおう」
「家に帰ったら、調べてみようよ。埼玉に行った時に、こっそり抜け出せばいいよ」
マンションに連れて帰られ、キャリーケースから出されると、桃子と二人で部屋を探索することにした。リビングのテーブルの上に、沙汰のスケジュール帳が放置されているのを見つけた。沙汰は相変わらず、ギターの練習をしていた。私は、悪戯をする振りをして。前足をペロペロと舐めてから、スケジュール帳をめくってみる。沙汰は、ギターに集中していて気づかない。スケジュールを見ると、来月からライブの予定がぎっしりと詰まっていた。カレンダーに書かれていた渋谷、中野、高崎、などの地名の羅列を追っていくと、『埼玉やすらぎの森ホール』と、私の以前の自宅の近くの公園から、さほど離れていない地名が見えた。やった、でも縁起悪いな、私が前の人生を終えた公園の近くじゃないか。ただ、スケジュール帳を見る限り、チャンスはその一度きりしかないようだった。私は、桃子と作戦を打ち合わせることにした。桃子は、コンサートに連れて行ってもらえるとは限らないので、桃子と一緒に抜け出す案と、私一人でなんとか抜け出す案の二通り考えておくことにした。
「埼玉のライブ? あたし、食レポあるから無理。フローレンスだけ留守番は可哀相。ねぇ、この子も辰則と一緒に連れて行ってあげて」
かすみは、上目遣いで沙汰に頼んでいた。相変わらずかすみは優しいな。これから、抜け出す作戦のことを思うと、私の尻尾は少し震えた。私達は、別々のキャリーケースに入り、ライブに向けて車は出発した。
運転は沙汰に任せ、ナゴミは携帯で、静かだが強い口調でどこかと交渉をしている。
「急にすみません。ピアノを手配してもらってもいいですか? 使うつもりだったピアノに不具合があって。ええ……。家夢さんのピアノソロがあるので……。いえ、曲順は変えるので大丈夫です。ピアノある? 良かった。調律師がいない? いえ、それは私が何とかしますから……」
電話を切ったナゴミは、後方を振り返り、後部座席で私の隣に座っている家夢に謝る。
「ごめんなさいね。家夢さんの曲順が変わるわね。それと、いつものピアノとちょっと感じが違うらしいから」
「い、いいえ」
家夢の声は、オドオドしている。家夢は、キャリーケースの蓋を開け、細い指を伸ばしてきた。私を撫でたい様なので、顔を出してやった。彼は小さな声で呟く。
「ナゴミさんってスゲエよな。仕事もできるし、トラブルにも冷静だし。この人に弱点なんてあるのか? そんな彼女と仕事している沙汰さんもスゲエ。しかもジェラートさんが恋人でモテまくりじゃん。最強だ、カッケエ」
ぶつくさ私に話しかけないで、前の二人に言え。それに家夢よ。お前は二つ間違っている。一つは、お前はナゴミの本当の姿を知らん。もう一つは、沙汰なんぞはまだまだモテているとは言えん。本当にモテるとはどういうことか、だ。
「ピンポーン」
数日前の深夜、マンションのインターフォンが鳴った。かすみは、玄関先に行く前にモニターをチェックした。私は、キャットウォークから、モニターが見える位置まで移動する。沙汰は旅番組のゲスト出演で、今日は帰ってこないはずだが? モニターにはナゴミが映っていた。
「ただいまぁ、ジェラート。お家に入れて」
ウインクしながら、人差し指を何度もモニターに押し付けてくる。かなり酔っているようだ。かすみと私は玄関先まで迎えに行った。
「ちょっとナゴミさん!」
「なぁに、えへへへ」
「飲んでるじゃない。もぉ、どうやってホールからここまで三重オートロックを抜けて、ドアの前まで来れたの?」
「えへへ、これ、沙汰さんに貰ってた」
ナゴミは、白いプラスチック片を、かすみの前にチラつかせた。まさか、沙汰はマンションのカードキーを名刺代わりに配っているのか?馬鹿だ、本物の馬鹿だ、あいつは。
私は立ち上がって、ナゴミのカードキーをはたき落そうとしたが、徒労に終わった。
「ねぇジェラート、少し飲みましょうよ」
普段の黒髪をなびかせシャキッと仕事をするナゴミは、完全に崩れ去り、ただの酔っ払いと化していた。かすみ、関わるな、寝かせとけ。だが、人の好いかすみは「少しだけですよ」とナゴミをリビングへと招き入れた。
「2020年物だけど、これでいい?」
「お、悪いわねぇ、乾杯」
私はかすみの膝の上へ移動した。桃子は、キャットタワーの上から、私達を見下している。
「で、何かあったんですか?」かすみは、何かを察したようだ。
「ちょっと切ないことがあってね」
一口ワインを飲んで、ナゴミは下を向く。
「KSKって知っているでしょ?」
「同じ事務所ですから」
ああ、今売り出し中の、アイドルの男の子か、かすみが何か言ってたな。
「その子と飲みに行ったのよ。『二十歳のお祝いに、お姉さんがご馳走してあげる』って」
「まさか、またいつもの酒癖発揮しちゃったの? ヤダー」
かすみは呆れている。
「ち、違うわよ。私、酔ってなかったわよ。ボトル一本で酔う訳ないでしょ? ほら、あの子、カッコいいじゃない? 前から、いいなと思ってたのよねぇ」
「えぇ? ナゴミさんが? まさか、あの子を口説いてたの? バーか何処かで?」
「個室で飲んでたからさあ。今度は写真に撮られる心配もないと思って……」
「何したの? ヤダー!」
かすみは、酔っていないのに顔が赤い。
「いや、ちょっとキスなんかをね。チュッチュッとしてたら『や、やめて下さい』なんて言われてね。男なんだから覚悟決めなさいなんて思ったワケ」
「まあ、デートで個室で飲んでたら、それ位はありますよね。でも、ケースケとはかなり歳離れているでしょ? ナゴミさん三十七でしたよね?」
「今月はまだ三十六!」変に強調する。
「ケースケからしたら、ナゴミさんは恋愛対象にならないんじゃ?」
「そんな事ないって!『僕、ナゴミさんに憧れているんです。いつか僕にも曲書いてください』なんて言うのよ? 絶対年上好きだと思うじゃない?」
ナゴミよ、それはビジネス上での感情ではないのか? かすみも、同意しかねて首を傾げている。
「で、もうここまで来て引く訳にはいかないじゃない? 周りに人はいないし。ちょっと強引に彼の上に乗っかっちゃったの。そしたら、あの子涙目で『お母さーん』って」
「そこで冷めた?」
かすみが前のめりで尋ねる。可哀想に、そのケースケとやらは、襲われてパニックだったんだろう。ナゴミは私を掴んで、自分の胸元に抱える。おぉ?結構あるな。
「いや、冷めたってのもあるんだけど、私、あの子から見たらお母さん位の歳なんだなって。そう思ったら、私、自分の息子位の子に何やってんだろうって」
ナゴミよ、『お母さん』はそういう意味ではないと思うぞ。かすみは、私を取り戻して自分の膝に置き直す。
「そう言えば、私とは逆だけど、ジェラートと沙汰さんもかなり歳の差あるわよね? きっかけは? 仕事で一緒だったから?」
「仕事で一緒だったけど、男として見たことはなかったよ。ナゴミさんも私がやらかした『カメラマンビンタ事件』知っているでしょう?」
「ああ、あなたが、きわどい水着を着せようとしたグラビアカメラマンを叩いたやつでしょ?あれで却って人気出たわよね」
「事務所の確認不足だったらしいけど、あの時、現場から一旦事務所に戻っていたマネージャーに電話入れたら、マネージャーと一緒になぜか沙汰が現場に来たの」
「どうして?」
「沙汰は『理由はともかく、殴ったのは駄目だ。俺、あいつと仕事したことあって顔見知りだから、ついて行ってやる。一緒に謝りに行くぞ』って、手を引っ張って一緒にカメラマンに頭下げてくれたのよ。私は渋々下げたけど」
「へえ、沙汰さんがね。あの人、面倒見いいわよね。家夢さんなんて神様扱いしてるよ」
ナゴミは私を引き寄せようと足を掴む、かすみは私の胴を抱えてそれを阻止している。
「その後も、なぜか事務所の社長に直談判して『バラエティで売り出そうとしている子に、変な仕事やらせるな』って言ってくれて。まぁ、事務所とカメラマンとの打ち合わせが足りなかっただけなんだけど」
「そこまでしてくれたんだ。それで付き合うように? 初めからオープンに付き合ってるわよね」
「私、隠さないから。事務所も公認だし」
「同棲も早くなかった?」
「いや、それは訳があって……。ほら『ゴンドワナ』が捕まってたじゃない?」
「ああ、あのミュージシャン。大麻だっけ?」
「覚せい剤だったと思うけど。あのニュース見て。沙汰なんて言ったと思う? 『ロックはクスリで捕まってこそ一人前だ。カッケエ』って。いつの時代の話しているのか呆れたわ」
「沙汰さん、子供みたいな所あるからね。悪いけど」
「で、アタシ思ったワケ。沙汰売れてきてたから、そのうち薬に手を出すんじゃないかって。それで、一緒に住んで、薬やらないように見張ろうって」
「でも、その後、売れなくなって、薬買えなかった訳だ」
「ナゴミさんも、沙汰を注意して見ててよ」
かすみ、お前はそんな理由で奴と同棲していたのか?私は呆れて、かすみの膝から立ち上がった。そこへナゴミの手が伸びる。
「ちょっとぉ、さっきから辰則盗ろうとしてません? 駄目ですよ」
かすみに取り返されてしまう。
「今日位いいじゃない?ねえ辰則君。可哀想なお姉さんを慰めて」
二人に引っ張られている。前世でこんなにモテた事があっただろうか? 猫って得な生き物だな、はっ!
ふと斜め上を見ると、キャットタワーの上で桃子がうつ伏せになってこちらを眺めていた。前足を体の内側に畳み、その上に顔を乗せる『香箱座り』という形だ。これはリラックスしている証拠の筈。リラックスはしているようだが、半開きの目は、私を軽蔑して見ているようだった。
「お兄ちゃん。何? 二人の女の間でデレデレして。奥さんに会った時に言うよ」
「お、おい、違うって。俺の意思じゃないって」
私は慌てて二人の手から抜け出し、キャットタワーを上る。桃子のすぐ下まで行き。桃子の機嫌を取ろうとした」
「知―らない」
「幸子に言うなよ」
まさか、幸子に喋ったりはできないだろうが、こいつ変なネットワークとコミュ力あるからな。回りまわって、オウムにでも喋られたら大変だ。
「私達も、フローレンスには適わないね」
「あの兄弟は、家に来てからも仲いいの」
かすみたちが笑う。いや、私は困っているんだが。
キャットタワーから、女二人を見下ろしてふと思った。
「なぁ桃子。俺が生まれ変わったこの世界って、沙汰やかすみにしても、しっかりものに見えるナゴミにしても、ちょっとおバカさんが集まっていないか?」
桃子はふうっと溜息をつく。
「お兄ちゃんが一番馬鹿よ」
「いや、あれは二人が俺を……」
「そこじゃない。愛する奥さんや、可愛い私を残して死んじゃうんだから。二人がどれだけ悲しむか、分からなかったの?」
そう言われて、私は胸が痛み、遠くの方に目を向けた。埼玉はあっちの方だろうか?
ふと現実に戻ると、コンサート会場の『埼玉やすらぎの森ホール』が近づいたようで、キャリーケースの蓋は閉じられた。前世では、音楽にあまり興味がなかったので、ここに来たのも初めてだった。リハーサルで分かったことだが、ここは、小さなイベントホールで舞台のすぐ裏に、控えのために会議室がある。私と桃子は、そこで出番まで待機することになった。
舞台と控室の距離が近いせいか、観客たちの声援が、以前よりも大きく感じられた。沙汰が「埼玉最高だぜ」とシャウトした後、キャーっと響く声の海。かなり盛り上がっているようだ。それも、私が出演予定の新曲に入ると、観客の声は鳴りを潜めた。今回も、大きな音に弱い猫に配慮してくれているようだ。すぐにナゴミが会議室に入ってきて、私だけを抱き上げた。
私は、これまで何度もそうしてきた様に、静けさの中、十数度ギターの弦を弾き、再びナゴミに連れられて控えの会議室に戻った。
「お疲れ様。お兄ちゃんの弾いているところ、見たかったな」
桃子は労う。私の出演が終わっても、ライブの歓声は衰えていなかった。沙汰のトークが始まり
「俺も、辰に負けてらんねえっすよ」の直後に拍手が響いているのが伝わる。よかった。私の役目は終わったようだ。これで、沙汰とかすみも大丈夫だ。お幸せに。
ライブが終わり、私達は、行きと同じく別々のキャリーケースで車の後部座席に乗せられた。運転席の沙汰は上機嫌な声だった。
「今日は、俺のファンも沢山いたぞ」
「良かったわね。沙汰さんの努力が実になってきたのよ」
助手席でナゴミもそれに合わせる。
後部座席の私達の隣には、家夢がいて「辰則君、フローレンスちゃん。今日もお疲れ様」と言いながら、私と桃子のキャリーケースの天板を、どちらも開けて、上から指を差し入れる。私と桃子の頭を交互に撫でていた。この人は根暗で友達がいないのであろうか、猫に対しては優しく、その扱いは丁寧で、撫でられているとうっとりする。決意が鈍りそうだ。
車がコンサートホールを出発してすぐに、桃子が「お兄ちゃん、いい?」と確認を求めた。ホールから出て数分で、昔の自宅の近くに着くはずだ。
「いいよ。もう少し走ったら、近いと思う」
私は、家夢に甘えた振りをしてキャリーケースの開いた天板から頭を出し、彼の手にじゃれる振りをして、周囲の風景を確認した。次の信号を過ぎたら、すぐ家だったはず。運よく、その信号が赤になった。私は、天板を押しのけて家夢の胸に乗っかった。彼は私を抱きとめて、思いがけないじゃれつきに、その幸薄そうな細い顔に笑みを浮かべた。彼は、体を隣のキャリーケースの方に向け、後部座席のドアに背をもたせる格好となった。幸い、ドアにロックはかかっていなかった。
「桃子、今だ!」
私が鳴くと、桃子もキャリーケースから飛び出してきた。桃子も家夢の胸に飛び込み、彼の両手が私で塞がっているのを見て、彼の左脇に前足を突っ込んだ。ガチャリと音がした。打ち合わせ通り、後部座席のレバーを引いたみたいだ。
「うわっ!」
ドアが開き、家夢は、後ろ向きに道路に落ちた。
「どうした?」
「沙汰さん、車止めて! 後ろのドアが開いた!」
私も、家夢と一緒に車から投げ出されながらも、前方の二人がパニックになっているのが分かった。
家夢は、私を守るように、しっかりと抱きかかえたまま道路に落ちていた。沙汰、いいメンバーじゃないか。心苦しくなりながらも、覚悟を決めて、私は家夢の手を噛む。
「痛い」と彼が私を抱っこした手を緩めたところで、彼の胸から飛び出した。桃子も後から車外に出た。
「行くよ! 桃子、ついておいで!」
私は全力で走り出した。風景は以前と変わっていたが、路地に入ると『池谷医院』の看板が見えた。以前見た時よりも、看板は錆びてボロボロになっていたが、文字は読めた。振り返ると桃子に「ここを左だよ」と言い残し、先を急いだ。捕まらないようにというよりは、一刻も早く幸子に会いたかった。猫は長距離走に向いてないからだろうか、すぐに息切れをおこした。それでも、ヨロヨロと歩いて道路を横断すると、生け垣に囲まれた青い屋根の家が目に入った。我が家だ!
息を整えて、生け垣の隙間から体を入れて、庭に入り込んだ。かすみの墓はあるだろうか? 庭を探索することにした。縁側のサッシから離れていない場所に埋めたはずだが、確か石を乗せたはずだが。正確にはお墓の場所は、はっきりしなかった。ただ、お墓と思しき場所の周囲には、赤い花が一面に咲いていた。確かゼラニウム。花屋の勧めで植えたゼラニウム。「君がいて幸せ」この花言葉を噛みしめる。以前も今も幸せだよ、かすみ。本当にこの五枚の花弁をもつ花が、私が植えたゼラニウムかどうかは分からないが、この花達がかすみを守ってくれていた。そう思うだけで、心が温かくなった。
私は、玄関へ回ってみた。幸子が家にいるかもしれないと思った。大きな木製のドアが目に入った。その瞬間、ドアがガチャリと開き、そこから中年女性が出てきた。ふくよかな女性、だが幸子ではなかった。まさか娘?でも彼女に娘が生まれる筈がないのだ。もしや、ここは私が生まれ変わった未来ではなく、並行世界っていうものなのか?私は、混乱したが、兎に角幸子を探そうと決意した。玄関から出てきた中年女性が、ドアの隙間から、家の中に向かってお辞儀をしていた。その時に私は、女性の足元に近づき「ニャーゴ」と大きめの声で鳴いてみた。
「あらあら、可愛い猫ちゃん、毛がフワフワね」
女性は私の頭を撫でる。
「森須さぁん。大きな猫ちゃんがお庭に来ましたよ」と、閉めかけたドアを再び開けて、家の中へと声をかけた。
「あ、あら、猫ですってぇ?」
玄関から外に、ヨロヨロとした足取りで老婆が出てきた。髪は短くなり、顔は以前よりふくよかになったが、昔の面影は残っていた、幸子に間違いない。幸子、お義母さんに似てきたな。私は、幸子に近づき、彼女の下腿に私の腰を擦り付けた。かすみも、以前私や幸子に、こうして愛情表現をしてくれていたから伝わるはずだ。更に尻尾を伸ばして、幸子の足に絡めてみた。
「おやおや。この猫ちゃん人懐こいわね」
「そうですね、私にも平気で近づいてきたし。おや、首輪がありますよ」
中年女性が、フサフサの私の首に埋もれた首輪を発見した。
「青い首輪ね、男の子かしら? 迷い猫かもね」
「外飼いの子かもしれませんよ」
二人は私の前後に立って、どうしたものかと話し合っている。
「ヘルパーさんは、猫飼った事あるの?」
「私、去年亡くしちゃったんですよ。だから寂しくてぇ……。森須さんは昔飼ってたんですよね?」
幸子は、頷きながら私の方を見て、背中を撫でる。
「そうよ。この子みたいに大きくて長毛の猫ちゃんだったわ。ずーっと昔にね、主人と二人で甘やかしてたのよぉ。猫も甘えちゃって、どこにでもついてきたものよ。猫が死んじゃって、その後に主人も、亡くなったの」
老婆の手は優しく私を撫で続けた。かすみが死んだのはともかく、妻を未亡人にしたのは私の責任だった。そう思うと、居たたまれなくなる。感情を抑えきれず、尻尾がピンと立つ。
「でもね、猫ちゃんは最後まできちんと主人に看取られていたみたい。私は病気で実家に帰ってたんだけど。猫ちゃんは、主人にとっても大事にされていたんだなって、つくづく思うの。主人は、猫と私のために一生懸命働いてくれた。昼間も夜勤もこなしてたのよ。ほら、向こうに工場の跡地があるでしょ?あそこで、工場長してたのよぉ。家族と従業員の為に必死で働いてたのよ。おかげで、何不自由ない生活させてもらって、おうちも建ててもらった。でも、そんなに一生懸命働かなくてもいいから、もっと長生きしてほしかったわ」
「働き過ぎで、体を壊されたんですね?」
何も事情を知らないヘルパーが相槌を打っている。
「俺が悪かった」と謝りたいが、どうせ伝わらない。気持ちが高ぶっても涙は出ない。代わりに、立てた尻尾が激しく震えていた。私は高まる感情の中で、自分の次に為すべき事を見つけたような気がした。ここに残ろう!残って数十年分の埋め合わせをさせてもらおう。そう心に決めた。沙汰が立ち直り、かすみは幸せになれるだろう。桃子もかすみ達に大切にされている。もう、あのマンションで私が居る意味はない。代わりに、此処で幸子と余生を共にし、慰めとなってやろう。そう考えて幸子の方を見上げると、彼女は優しい声で、でも目は厳しく諭す様に、首を横に振りながら言った。
「駄目よ」彼女は首輪に触れる。「あなたには、待っている人がいるでしょう? こんなに毛並がよくて、体つきもふっくらしている。あなたが大切にされているのが分かるのよ。何があったかは知らないけれど、その人達の側に居てあげて頂戴。側に居て、目を合わせて、声をかける。噛みついたって、引っ掻いたっていい。あなたの温もりを、あなたの優しさを、大切な人に感じさせてあげなさい。わかるわね?」
私は、小さく「グル」と鳴く。
「お婆ちゃんはね。昔に猫ちゃんと旦那様を亡くしたけれど、いい思い出がたーくさんあるのよ。この家に居るとね、あなたみたいに人懐こい猫、優しい旦那様の事がよく浮かぶのよ。それだけでいつも胸が一杯になるの。今はお友達もいるし、こうやってヘルパーさんも来てくれる。だから、何も心配してくれなくてもいいのよ。優しい猫ちゃん」
幸子は、意識に上っているかどうかは別として、私が何を考えていたか分かっている、そんな気がした。私は、今一度、体と尻尾を彼女に擦り付け「元気そうで安心したよ」と言った。きっと気持ちだけでも伝わったろう。そして、玄関のドアの前から踵を返して立ち去った。
幸子の言う通り、かすみ達の元へ帰ろうと決意した。まず、ついて来た筈の桃子を探さなければ。昔の我が家の生け垣の根っ子付近の臭いを嗅いでみたが、犬ほど嗅覚がないので、よく分からない。生垣からそっと首を出し、左右をキョロキョロと見渡した。家の前の路上のどこからか「お兄ちゃん」と声が聞こえた。そっちの方向を見ると、猫らしき動物が、人間に抱っこされていた。恐らく沙汰か家夢だろう。私は「今そっちに行く!」と言って道路に飛び出した。次の瞬間、大きなエンジン音と共に、巨大な黒いタイヤが横から突っ込んでくるのが目に入った。私は体がすくんで動けなかった。後には、かすかに「お兄ちゃーん」と悲しげな声だけが耳に残った。
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