あなたと逢うのは今日で最後かもしれない

人生は出逢いと別れの連続だ。
大袈裟かもしれないが、そのすべてに意味があるんじゃないか。
感傷的なアラサーの私は、ふとそんなことを考える夜がある(昼もある)。

私は基本的にネガティブだけど、唯一、運だけはめちゃくちゃいいと思う。
中でも群を抜いて”出逢い運”に恵まれている。
残念ながら頭の切れる策士ではないので、自分の目的を叶えるためにこういう人とお近づきになって、ここから人脈をどんどん広げて…なんて、仕組んだ出逢いをしたことは一切ない。
だが、必要な時に必要な人と出逢ってきたような気がする。

振り返ってみて「あの人、一体なんやったんや…?」という謎人物でも、なんらかの意味があったのだと最近は思うのだ。
その人自身と私は大して縁がなくても、実は誰かに出逢うためのキーパーソンの役割を果たしてくれる場合や、強烈な気づきを与えてくれる存在だったりする。

現に、第二の母である歌の師匠を紹介してくれた部活の顧問とは反りが合わなかったし、中学のクラスメイト本人は卒業後すぐ疎遠になったのに、彼女のお母さんは未だに毎回私のコンサートに足を運んでくれて、その後にお茶をするほどの仲だったりする。
一度一緒に酒を飲んだだけの人がその時の迷いを晴らすアドバイスをくれて、もう彼の名前も顔もあやふやなのに、言葉だけがずっと心に残っていることもある。
(かと思えば、前日まで普通に連絡を取っていたはずの子から急に音沙汰がなくなって、一緒にやろうとしていた企画が頓挫したりする)

人間、何がきっかけで変わるかわからない。
二人の仲に亀裂が入ったわけでなくても、環境の変化が原因で疎遠になるのはよくある話だし、それによって自然と心が離れてしまうのはどちらが悪いということではない。
だが”去る者は追わない方がいい”というのが私の持論だ、たとえ縋りたくなったとしても。(思い出は美化されるものだからね)
意図的に私の元から去った者であれば尚更、追い掛けるに値しない人だと言い聞かせている。
自分を必要としてくれていない人を想うのは、ただの自分の無駄遣いだから。
ご縁があればまたどこかで再会するだろうし、なければそれまでだったということだ。

私はよっぽどのことがなければ、自分から積極的に距離を置いたりはしないので(人間関係において”断捨離”という概念は好きではない)、今まで離れゆく人たちをちょっぴり寂しく思いながら見送ってきた。
時には裏切られたような気持ちすら抱いていた。
でも大人になってようやくわかったのだが、どうやら人は同じ温度感を保って相手を想い続けるのは難しいらしい。魔法瓶ではないからな。

それに気づいた時から、人と逢う時は”あなたと逢うのは今日で最後かもしれない”と意識するようになった。
(コロナ禍でよくも悪くも自然と人間関係が整理されたここ数年は、特に)
そうすれば変な喧嘩はしなくて済むし、少なくとも笑顔でバイバイしようという気にはなる。
何より思いっきり楽しい時間を一緒に過ごせるし、もし運命の悪戯で再会したら、またいい関係が築けるかもしれないから。
”終わりがあるからこそ置かれている状況に感謝できる”というのは、ネガティブなんだかポジティブなんだかわからないが、私はこう考えることで別れのダメージを最小限に抑えている。

ふと、そんな諸行無常な世の中なのに、ずっと仲良しでいる友人の顔を思い浮かべてみた。
今のところ、私の人生に登場する主要人物はほとんどが高校時代の仲間である。
(彼女たちの人生にも私は主要人物として登場しているだろう)
もう同じ制服を着てから10年以上の仲だ。それなのに未だに毎月のように逢う関係が続いている。
大人になると逢いたくない人には逢わずに済む代わりに、双方が逢いたいと思わなければなかなか逢えない。だからこれは奇跡のようだ。
私たちの中では、「来月はいつ頃にしよう?」と次の予定を決めるまでがデートだが、これは決して当たり前のことではないのだと毎回思う。


円満な関係は、お互いが同じ温度で相手を想うことで初めて成り立つものだ。
そしてその気持ちが継続する条件は、同じようなペースで成長することなのではないか。
これからも一緒にいるために変わってゆけること、それが”友情”なのかもしれない。

この世に永遠なんてないとしたら、変わらない関係でい続けられることはこんなにも愛おしい。

#出逢い #別れ #諸行無常 #エッセイ  

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