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0009 A-side 百物語の怪談史

1.百物語とは

 百物語という怪談形式がある。自ら参加したことはないとしても、言葉だけは聞いたことがあるという方は多いだろう。何となくのイメージとしては、真っ暗な部屋の中で、数人が車座になって座り、1話ずつ怪談話を披露していく。時刻は夜がいいだろう。あらかじめ蝋燭を百本用意しておき、一話語り終えるごとに、一本ずつ蝋燭を吹き消してゆく。百話語り終えるのは、きっと明け方近くだ。いよいよ最後の一本となった蝋燭が、ふっと吹き消された時、世にも恐ろしい怪異が起こる。まさに「怪を語れば怪至る」である。
 古式的な正式の作法としては、杉浦日向子女史のエッセイに載せられた次のものが参考になる。文章は後に紹介する東雅夫『百物語の怪談史』より抜粋している。

<用意するもの>
①灯心百本
②灯油(ただし、これは現代の灯油ではない。「とうゆ」ではなく「ともしあぶら」)
③灯油皿
④青い紙を貼った行灯
⑤鏡一面
 灯油を満たした皿に灯心を百本放射状に並べて差し入れ、行灯にセットして、百本の灯心全部に火を灯します。これを、話をする部屋から一部屋おいた先の部屋へ置き、その行灯の横に小さな机を並べ、鏡を一面、立てかけます。部屋及び周囲に刃物があれば全てまとめて、遠くへ片付けます。もちろん、そういうものを一切身につけていてはなりません。
 集まった人々は内側を向いて円坐を組み、ひとりずつコワい話をして行きます。一話話し終えるたびに席を立ち、次の間を通り抜けて、その先の部屋にある灯心を一筋引き抜いて、そして、横の鏡で自分の顔を確かめて帰って来ます。
 この時、通り抜ける間の部屋には照明ナシという決りなので、手さぐり足さぐりで行くことになります。皆が話をしている部屋も照明ナシです。原則として、「月昏き夜」といわれますから、ホントにマッ暗なわけです。
 灯心を抜きに行っている間も話は続けられます。灯心抜きの行き帰りに妙なものを見、あるいは聞いたりしても、進行している話を中断してはなりません。九十九話(江戸の中期までは九十九話で打ち止めするのが正式でしたが、後期になって、字義どおり百話することになりました)あるいは百話終わったところで報告します。
 九十九話でやめる場合は「安全策」のほうで、残った一筋の灯心は、夜が明けるまで灯しておいて皆々眠らずに期を待ち、解散します。百話のほうは、最後の一本を抜き去ったとたん、真の闇となり闇の中で「怪」を待つという、トンデモナイ暴挙となります。

東雅夫『百物語の怪談史』
 

昨今の情勢や現代的な事情により、上述の昔ながらの方法をそのまま行うのは、おそらく、難しいだろう。まず、このままやろうとすると火事になりかねないし、部屋の大きさによっては、酸素欠乏状態を誘発しかねないため、決しておすすめはしない。
 

2.百物語の怪談史

東雅夫『百物語の怪談史』KADOKAWA 2007

 百物語を語るにおいて、本書を抜きにしては始まらない。真正面から百物語を論じた書物としては、他に類を見ないものである。百物語研究の書物自体、相当数が少ないが、これほど全てのテーマを網羅した、しかも、入手もしやすく、リーダビリティのある書物は、私の知る限り本書だけである。
 著者・東雅夫氏は怪談界ではあまりにも著名な人物である。私がここで言葉を尽くしたところで、到底紹介仕切れないほど、日本の怪奇幻想文学へ多大な功績を残し続けておられる偉大な方である。複数の作家が特定のテーマで手掛けた作品をまとめた選集のことを、アンソロジーといい、その編集者はアンソロジストと呼ばれる。最近でこそ、ミステリーアンソロジー、ホラーアンソロジー、SFアンソロジーなど様々なジャンルのアンソロジーが出版されるようになっており、寡作であっても優れた作家の作品が読者に届くようになっているが、東氏はアンソロジーがまだあまり一般的でなかった頃から、しかも怪奇幻想文学という特殊なジャンルで、度肝を抜くようなアンソロジーを編み続けていた。クトゥルー神話を日本に根づかせる大きな原動力となった名著『クトゥルー神話事典』も氏の功績である。今は『怪と幽』に統合されているが、それ以前に『幽』が単独で雑誌としてあった頃には、編集長を務めておられ、私のような怪談好きを唸らせる味わい深い特集を組み続けていたのは、まだ記憶に新しい。これも氏の名著のひとつである『怪談文芸ハンドブック 愉しく読む、書く、蒐める』は、怪談文芸に携わる者にとっての必携の書物となっている。氏の話を語るだけで、いくつもの特集が組めるほどだが、本日は、そこをぐっと堪えて、前掲書の紹介をしよう。
大まかには、アンソロジー、エッセイ、ブックガイドの三部構成となっているが、エッセイと呼ぶにはあまりに重厚で、詳細な百物語研究がなされており、これはもう論文と呼んで差し支えない。
 第一章 「百物語の怪異談」アンソロジーは、百物語を題材とする種々の怪談文芸作品が編まれており、氏のアンソロジストとしての本領が遺憾なく発揮されている。まるで女の死を予感するような怪異の起きる岡本綺堂の「百物語」から始まり、その原話となった「首くくりの女」との読み比べができるよう配置されているのが親切である。また、「百物語で金持ちになる」、「黄金の精」などの作品は、百物語をしたことで幸運が訪れるという「めでたい話」のパターンだが、百物語が決して恐怖譚だけを呼び寄せるものではないことがわかり、興味深い。もちろん、「稲生物怪録」の異名で名高い「平太郎百物語」への言及もある。この文学史に燦然と輝く妖怪物語と百物語の関係についても本書では詳しく語られている。
 第二章 百物語の起源と歴史では、多角的な視点から百物語の歴史が語られる。百物語の百はどこから来たのかについての考察から、同じ百を冠する百鬼夜行、百座放談との関係性が探られる。そして、御伽衆という室町後期〜近世初期にかけて活躍した、「語り」のスペシャリストの話は興味深い。百物語は武家社会の啓発や徳育とも関係が深いのである。百物語の広まりが、民話と関係しているのはもちろん重要だ。それが都会の酔狂人だけの風雅な催しだけであったのなら、今日に至るまで百物語という文化は語り継がれていなかったかもしれない。
 第三章と第五章は、圧巻の百物語クロニクル。前者が近世編、後者が現代編で、本朝の百物語文芸がほとんど網羅される形で紹介されている。一般読者としては、近世の百物語本には、言語的な問題もあって、なかなか容易に手を伸ばしにくいのだが、東氏の紹介文を参考に、いくつか興味があるものを読んでみるのも一興だろう。また、百物語は近世には活字本だけでなく、浄瑠璃や浮世絵などにも取り上げられている。江戸期の文化にとって、百物語は格好のアイデアを提供する源泉であったことが伺える。百物語と銘打ってはいるものの、百話を実際に掲載できているものは少ない。語り通すことの難しさも実感される。
 現代編は実に多様である。百物語と僅かにしか関係しないような書物もきちんと紹介されており、現代必読怪談本の総覧として使うことができる。村上春樹氏の「鏡」が取り上げられているは意外だったが、思えば、この話も確かに怪談会の終わりに主催者の話した怪異譚なのであった。教科書に掲載されたことで、村上作品の中でも若い読者への知名度が高い作品といえるが、村上春樹の作品はその多くが怪談文芸なのである。これを機にハルキストへの道を突き進むのもいいかもしれない。現代編に挙げられている作品を片っ端から読むだけでも有に1年以上は怪談文芸を楽しむことができるだろう。
 第四章は本書の肝中の肝である。百物語を近代文学史の中に位置づける画期的な試みであるが、百物語が細々とではありながらも、その命の灯火を失わなかったのには、明治、大正、昭和をかけて多くの文豪たちにより、受け継がれてきたからである。三遊亭円朝、森鴎外、柳田國男、泉鏡花など今でも文学史に名を残す文学者たちがテーマとして取り上げている。こういった側面は学校教育で取り上げられる機会は少ないが、これを授業で真剣に取り上げることができるようになってこそ、日本の教育は本当に成熟してきたと言えるのではないだろうか。明治・大正期の文豪たちによる「怪談復興」の試みへの努力が、現代の怪談文化の空前の興隆に繋がっていることはいくら強調しても強調しすぎるということはない。
 最終第六章は百物語実践講座である。杉浦日向子女史のものよりも現代向けに修正された作法のあれこれが解説されている。特に、傾聴すべきは、百物語に引き寄せられる、この世ならざる「お客さん」へのおもてなしの心を忘れないことである。百物語を行うからには、霊的存在の肯定、彼らに対する理解、敬意などといったものが必要とされる。これは最低限のマナーである。古式的な方法は現代ではやややりづらいため、蝋燭は大型のものを一本だけ用意するというやり方を提唱している。現代では、むしろ話そのものに主眼が置かれる風潮である。わざわざ一本ずつ消す必要性は確かにないかもしれない。これは私見だが、用意できるのであれば、LEDライトを用意しておいて、それを蝋燭に見立てるという方法もありだと思う。どうしても儀式性を取り入れたいというのであれば、鏡を覗くというルールは課してもよいかもしれない。
 以上が概要である。百物語と怪談文芸の関係を探り、文学史上に位置づけようとする野心的な好著をその目でぜひ熟読いただきたい。

3.文藝百物語

東雅夫編『文藝百物語』KADOKAWA 2001

 東京根津にある古旅館の一室に集められた八人の作家たち。その顔ぶれは、井上雅彦、加門七海、菊池秀行、篠田節子、霜島ケイ、竹内義和、田中文雄、森真沙子という当代きっての伝奇&ホラー作家であった。彼らが集められた理由、それは無論百物語のためである。会場には結界が張られ、開始後は人の出入りも一切禁止された。通信機器の使用も禁止である。それは外界との通路の役割を果たすことになりかねないからだ。参加者は必ず怪談を語らねばならない。時刻は1997年夕刻である。かくして百物語が始まった。
 各作家については、一人ひとり紹介するまでもないだろう。それぞれが最恐レベルの怪談を持っているであろうことは、容易に推察できる作家陣であることは間違いない。実際、出るわ続くわ、恐ろしい怪談話のオンパレードである。第1限から最終限まで十話ずつ(最終限だけは九話)に区切ってくれており、章の初めにはその時限の展開のあらすじやその時会場で起きた不可解な出来事が描かれており、読者もそこに居合わせたかのような臨場感を楽しむことができる。読者への配慮が優しい1冊である。
 第1限。まずは様子見といった感じで、短い話がテンポ良く語られていく。オーソドックスな中にも怪異譚の基本となる話が多く、これぞ怪談という王道の話に興が乗っていく。私は、竹内氏のお父様の、河童の写真が回収されてしまった話が好き。
 第2限。他の怪異譚を受けて、そこから派生・変奏していく怪談会の妙味が発揮されていく。それにしても菊池氏の「仏像徘徊」は想像するだけで震える。
 第3限。ここら辺から大ネタもちらほら出始める。何と言っても、霜島氏の伝説の怪談「三角屋敷」は聞き逃せない。これについては、いずれそれだけを語ることになるだろう。そして、田中氏の「猫を焼く」はかなりインパクトのある話だ。
 第4限。どうやら会場でも怪異が起き始めたらしい。そんな不穏な空気漂う中、病院怪談が続く。篠田氏の「看護婦さん、痛いよぉ」で、昔の病院って嫌な噂がいっぱいあったなあと感慨に浸る。
 第5限。公共施設にまつわる怪異譚が数多く出てくる。森氏、加門氏の語る軍人の話は短いけれども、強烈なイメージをもって襲ってくる話である。
 第6限。ここで盛り塩が崩れるという事案が発生。不穏な空気に加門氏及び霜島氏の掛け合い怪談が拍車をかける。加門氏はおそらく怪異を呼び込む体質をお持ちである。体験談の数自体もすごいが、その一つ一つが一級の怖さをもつ怪異ばかり。
 第7限。窓の割れ目が怖い。心霊写真譚が盛りだくさんだが、森氏の白い胎児の写真がかなり気になる。竹内氏の合掌写真も何度聞いても怖い。篠田氏の小説が現実を模倣する話には、もしかすると私たちこそが小説内に生きているのでは?と怖い想像をしてしまう。
 第8限。また、カウベルの音が……。井上氏の「悪い家」の話。ああ、これはもしかすると忌み地だったのかもしれないと思わせる話。伝説の音声怪談「私にも聞かせて(ろ)」も登場し、いよいよクライマックスへ向けてのスパートが始まる。森氏の「蛇が逃げてったら霊感なくなっちゃう」にプロ意識を感じる。
 第9限。夜も白み始める瞬間こそが最も暗い瞬間である。最後まで加門&霜島コンビの怪異引き寄せの強さに度肝を抜かれる。鳩怪談という珍しいラインナップが続く。「先輩の鳩」これは大変有名な話。
 最終限。森氏、加門氏の石の話が興味深い。最後は女性陣の怪談が怒涛のように続く。そして、結界を解き、窓を開け放った途端に見える隣の民家の「喪中」の文字。やはり百物語は怪を呼ぶのだ。そして、百物語が終わる。
 これぞ実践的百物語といえる、非常に模範的(?)な会である。百物語をやりたい時には本書は大変参考になる。
 
 『文藝百物語』を読んでわかるように、百物語とは百話を終えた時点で初めて怪現象が起きるわけではない。怪現象は最初の方から少しずつ、起きることのほうが多いように思われる。ほとんどの場合、心霊現象とはっきり言えることは起きないまでも、不思議な現象には必ずと言っていいほど出会うことができるだろう。百物語ではないが、私も最近怪談を語る機会があったため、一話だけ話をしたら、場の温度が急激に下がる(心理的にではなく物理的に)という体験をした。これは怪談話には非常によくあることで、私はこれを「霊的熱力学第1法則」と呼称している。
 百物語は両価的な営みである。私たちはそれを完遂することを楽しみにしながらも、最後に起きる怪現象には恐怖を感じ、起きてほしくないと願うこともある。ゴールを目指しつつもゴールに抗う。これは一見矛盾した態度のようにも思えるが、そのような両価性の只中にいる時こそが、最も幸福で最も恐ろしい瞬間でもある。

 今回もお読みいただきありがとうございました。次回は、「0009 B-side 漫画百物語」です。次回もお読みいただければこの上ない喜びです。

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