ロリータ・リテラシーのすすめ
ネット上をはじめロリータファッションを愛する人、また着てみたい人のあいだで、たびたび勃発する議論がある。
「何がロリータファッションで、何がロリータファッションでないのか」
という論点だ。
結論から言うと私は、
「このブランドがロリータファッションで、このブランドはロリータではない」
という基準は、もはや機能していないんじゃないかなと考えている。
ロリータ(ファッション)と呼ぶかどうかの基準は、時代や環境によって変わると思うのだけど、今の時点では、
「ブランド単位」ではなく「服単位」で考えたほうがわかりやすいのではないかと私は考えている。
もっと言えば、ひとりひとりのコーディネート次第、ということだ。
つまり、服にも情報にもアクセスしやすくなった反面、コーディネートを組む側にも見る側にも、ロリータについての高い解像度が求められる、ともいえるのかもしれない。
いわば、ロリータへのリテラシー。
その複雑さがあっても、「かわいいファッション」や「ガーリーファッション」などざっくりした呼び方とは区別して「ロリータ」と呼びたいのは、その名前が積み上げてきた奥深くコアな歴史や美学を纏うことへの、特別な憧れがあるからだと思うのだ。
何をもってロリータファッションなのか
ちなみに、これまでも私はロリータファッションについての文章を書いてきたが、今のところは原則としてその中では「ロリィタ」ではなく「ロリータ」という表記に統一している。
それは、ロリータに関する雑誌や書籍(『ゴシック&ロリータバイブル』他)の中では長年「ロリータ」表記が一般的であったため、私もこう表記することで資料として幅広く伝わってほしいという意図がある。
「ロリィタ」というのは、「ロリータ」に付随する小児性愛的なニュアンスと区別するために、主にこのファッションを纏う当事者が名乗るようになった呼び名・表記だ。
「ロリィタ」と呼ぶほうが、ファッションやカルチャーとしての当事者意識を表現するには向いているのかもしれないが、そのぶん主観が入る印象がある。
私が「ロリータ」と書くときは、主にストリートファッション・カルチャーとしてのロリータを指しているが、この言葉のもつニュアンスの変化については慎重な分析が必要になるため、また別途書けたらと思っている。
それでは、フリルやリボン、レースがふんだんにあしらわれていればロリータなのか。
テディベアやアリス、スイーツ、王冠、十字架、ギンガムチェックなどの柄やモチーフが使われていればロリータなのか。
そうではないことは、世の中に溢れる洋服を見れば明らかだと思う。
2000年代には、乙女のカリスマ・嶽本野ばら氏がロリータと呼んだものはロリータ、というようなムードもあったように思う。少なくとも私には、「野ばらさんがロリータって言ってるからこれはロリータでしょ!」みたいな意識があった。
でも、『下妻物語』や『ハピネス』などさまざまなロリータファッションが登場する小説を書いてきた嶽本野ばら氏さえも、『ゴシック&ロリータ バイブル』vol.5(2002年)の中で「ろりいぬ ー正しいロリータになるためにー」と題して、こう語っている。
ロリータとはロリータを愛する者が自分で思考し、選び取り、見つけていくもの。
私もこの考え方には共感している。
でも、長年ロリータブランドが積み上げてきたロリータファッションの「型」のようなデザインやディテールは確かにあり、このファッションを愛する者はその要素を瞬時に・緻密に認識しながら、「ロリータか、ロリータじゃないか」を選んできたのではないかと思う。
たとえば、胸元にリボン編み上げのあるジャンパースカートやワンピース。
ティアードスカートの中にパニエを仕込んでさらにふんわりさせるシルエット。
はしごレースがあしらわれたジャンパースカート。
レースで囲まれた楕円形のヘッドドレス。
頽廃美を求めるゴスロリ、マリー・アントワネットのようなプリンセスを意識する甘ロリなど、細かいカテゴリによってもディテールは異なり、挙げていけばきりがないので一例にすぎないけれど、これらはロリータ服がその他の「かわいい」「ガーリー」な服とは一線を画す要素だと思う。
そしてこの「型」は、テキスタイルやプリントなどとは異なり著作権が明確なものではないので、小規模な流行となったりアレンジを加えられたりしながら広がって今に至る。
そのような「型」を踏まえた服がさまざまなショップで幅広く展開されるようになったため、ロリータと呼ぶか否かの議論がたびたび起こるのだと思う。
野ばら氏が言うように、ロリータに先生はいないのかもしれない。
でも、きっと先輩はたくさんいる。
教室はなくても、図書館はあるのだろう。
ロリータファッションを愛する者たちは、雑誌、ブランドのカタログ、街ゆく人からヒントを得て、スタイルを作り上げてきた。最近ではSNSがその役割を担っていると思う。
ジャンパースカートにはフリルブラウスを重ね、パニエでスカートをふんわりさせる。
豪華なお洋服だけが浮かないよう、レースのヘッドドレスやリボンなど「頭もの」にもこだわる。
そんな、さまざまなスタイルが形成されてきた。
言うなれば、ロリータファッションとは「歴史のコラージュ」なのだと私は思う。もっと言うなら、歴史の中にある「かわいい」を集めて、過剰なまでにデコレーションするコラージュ。
ロココ、ヴィクトリア、明治や大正、好きな時代にひとっとび。
ふと思い返してみれば、映画『下妻物語』のラストでは「タイムマシンにおねがい」が流れていたが、その詞世界ともリンクする気がする。
歴史の教科書じゃありえない、時代と時代の切り貼りもできる。
最近では、「懐古ロリータ」という、ロリータの歴史そのものさえ切り貼りするスタイルも生まれている。
たとえばひとりの少女が、古本で見つけた雑誌の中のお姫様のような女の子を見ながら、近くの手芸店で布とレースを買ってきて、見よう見まねで縫ったフリルのワンピース。
それはロリータとは呼べないのだろうか。
私は、ロリータだと思う。
プチプラファッションとロリータ
さて、このように、ロリータファッションにはある程度の「型」がある上で、精神的には「歴史のコラージュ」だと私は思っているのだが、最近「ロリータファッションか否か」という議論が生まれることには、プチプラファッションでロリータ的なお洋服が買えることになってきているという近年の状況にも一因があると思う。
元々ロリータファッションとは大量生産ではない、ワンピースが5万円前後のものもあるなど高額なアイテムが多く、ファストファッションの対をなすようなイメージだった。
しかし最近は、ファッションセンターしまむら×青木美沙子コラボでロリータに向けた服や小物が販売されるようになるという、今までにない流れができた。
これはロリータモデルの第一人者として長年一線で活躍してきた青木美沙子さんによるロリータ文化普及活動の功績もあり、ロリータ愛好家をはじめ「ちょっと興味があった」という層にも好評を博したと思う。
だからといって「しまむら=ロリータブランド」と呼ぶ人は、まずいないだろう。
「しまむらってロリータ売ってるよね!」と言う若い子は増えたかもしれないけれども。
この状況はあくまでも、「しまむらでロリータに使える服が売っている」ということなのだと私は認識している。
よく言われる「axes femmeやAmavelはロリータかどうか」も同様で、「このブランドがロリータ向きのアイテムを出している」というふうに私は考えている。
これらのブランドは、フリルブラウス、レースのついたジャンパースカートなど、ロリータの特徴と重なるアイテムを多く展開している。たしかに最近のヴィジュアルだけ見ると、ロリータブランドとの区別がつきづらい。
しかし、ロリータブランドとしては定着しているとはいえない印象で、先日もSNS上で「Amavelはロリータなのか」という論争が勃発していた。
axes femmeやAmavelが多くのロリータブランドと決定的に異なる点は、ワンピースでも10000円前後と、かなり低価格であることだ。
こうした、いわゆる「プチプラ」のロリータ的な服の良し悪しを考えるのはむずかしいけれど、より多くの人にロリータのようなファッションの存在に馴染んでもらい、チャレンジしてもらいやすくなるという点で、今の時代に重要な役割を担っていると私は思う。
また、安価な服だからこそ、組み合わせを工夫するクリエイティブな余地も生まれやすい。
「あのお店で売ってる服が意外とロリータで使えるかも!」という発見は、個人的には多ければ多いほど楽しいと思う。
一方、「こだわりを持ってつくられた高品質のアイテムを大事に身につけたい」という思いがロリータの美意識を大きく占めるのだとしたら、低価格で手に入りやすく、コストを下げて作られたアイテムはロリータとして認めたくない、という意見にも頷ける。
自分が10代の頃を思い返しても、ロリータファッションの「なかなか手が届かない贅沢な服」という要素にも憧れを募らせていた。手に入らないながら、永遠にホームページを眺めていられるあの感じ。
axes femmeやAmavelの中でも「かわいい!」「ロリータとして着られそう!」と思うアイテムは多いけれど、そういった憧れ要素とは違うものかなと思う。「あのモデルさんが着ていてかわいかった」という種の憧れもまたあるとは思うけれども。
ただ、自分が30代・母親になって思うのは、こういったお洋服は「ロリータ入門」としてだけではなく、「社会に擬態するロリータ」として非常に使える。TPOに即した当たり障りなさと、ロリータ要素をうまく融合させて着るにはとても便利なのだ。もっと言うと、これらのブランドは親子で楽しみやすかったりもする。
ロリータファッションが好きならいつだって完璧にフルコーディネートでいなければならない、というのは現実的ではないと思う。
年齢を重ねても、社会人になったり結婚・出産などで環境が変わっても、生活の中にロリータファッションが好きな自分を溶け込ませていたい。
そういう思いに寄り添ってくれるお洋服があることは、ロリータファッション文化が長く存続するためにも希望になるのではないかなと私は思うのだ。
それに、こういったプチプラのお洋服も、長く続けば歴史として蓄積されることになると思う。
プチプラをロリータと呼ぶことに反対する意見としてはまた、情報も服も溢れている時代だからこそ「偽物」にロリータを名乗ってほしくない、という危惧もあるのだろう。
たとえばロリータ愛好家から忌避されるBODYLINE(ネットスラング的に「体線」と呼ばれている)は、コスプレ衣装の会社だ。
それだけでも「ロリータはコスプレじゃない!」という反発に値するが、このショップはロリータの形をしたコピー商品を販売したり、アダルトコンテンツで使用されたりしたことから、タブー扱いとなっている風潮がみられる。そもそもロゴからしてBABY, THE STARS SHINE BRIGHTのパクりすぎる……。
何を隠そう、私も大学生の頃にBODYLINEで買い物をしたことがある。
原宿の竹下通りど真ん中という好立地。
背景を何も知らなかったので服やウィッグを買ったが、ロリータファッションに身を包んだときのときめきはなかった。安いとはいえ、お金の無駄だったと思っている。そのお金があったらロリータ雑誌の古本を買え、と当時の自分に言いたい。
やっぱり、ロリータファッションは物語を纏うものなのだ。歴史を知ることや、理想のイメージを思い描くことも、その物語の一部となる。
そんな感覚的な側面だけでなく、既存のロリータブランドのデザインを模倣したり、粗悪な環境で作られている製品をロリータとして身につけることは、ロリータとして様々なブランドや人が積み上げてきた歴史にリスペクトがないといえると、自戒もこめて思う。
ロリータファッションに限った話ではないけれど、ファンタジックなお洋服を身に纏うならなおさら、想像力を大事にしていたい。
それは、作り手へのリスペクト。
お洋服が作られた背景に想いを馳せること。
さまざまな思いでお洋服を着ている人の立場に立ってみること。
そして、この文化を狭めるよりも広げることを考えていたい。
それが私の思いだ。
カジュアルロリータという居心地の良さ
一方、価格帯が高めでも「このブランドはロリータブランドなのか」論に挙げられてきたブランドは多々ある。
その中でも歴史の古いものがMILKやJane Marple、Emily Temple cuteといった、70〜90年代に原宿で生まれたブランドだと思う。
これらのブランドは、一貫して「ロリータ」を名乗らない姿勢をとっているからだ。
「ロリータ」と呼ぶと当時は今よりもストリート感、アンダーグラウンド感、サブカル感が強く、Jane Marpleなどは『装苑』などでモード寄りのアプローチをしていたので、目指す方向性と逸れたのかもしれないと私は推測している。
しかし、これらのブランドが90年代からロリータの女の子たちに愛用されてきたブランドであることは、雑誌のスナップをみても確かだ。
1993年の『CUTiE』にはすでに「ロリータ」としてJane Marpleを着ている女の子のスナップが載っていて、90年代初頭のロリータといえばJaneやMILK、Emily Templeだった様子がうかがえる。
ただ、「ロリータ」の意味合いも時代によって変化していて、この頃は「少女的」のような意味で、「パンク」などかっこいい系のファッションに対する概念として使われていたようだ。「ロリータ」とは、それと比較する概念があることでより浮き彫りになるものなのかもしれない。
私も10代のときから大好きでよく着ていたブランドがこの3つで、これらもロリータの女の子のサイトで知ったブランドだったのだが、自分自身では「ロリータ」だとは思っていなかった。
ロリータファッションには大きな憧れがあったが、『下妻物語』直撃世代なのもあり、BABY, THE STARS SHINE BRIGHTのように自他共に認めるロリータブランドをフルコーディネートで着て、ヘアスタイルや作法まで徹底しないとロリータを名乗るのは恐れ多いと思っていたからだ。
でも、Emilyなどのお洋服を着て表現活動をするうち、自分で名乗っていないにもかかわらず、「ロリータだね」と呼ばれることが多くなった。
そして同じようなファッションを愛する仲間が増えていった。
Emily Temple cuteやMILKなどのお洋服を、ジャンパースカートにフリルブラウスを重ねるようなロリータ的なコーディネートで着るスタイルは、「カジュアルロリータ」とも呼ばれている。
そう呼ばれると、こんな自分もロリータの仲間に入れてもらえているような、居心地の良さを感じていた。
こういったお洋服を纏えば、「かわいくて、説得力のある」理想の自分を求めて突き進んでいける気がしたのだ。他のお洋服では味わえない、この気持ちが私にとってのロリータ魂だといえるなら、ロリータと呼んでもらえることは嬉しかった。
最近では大手ブランドだけでなく、個人のハンドメイド作家がロリータ服やアイテムを販売することが目立ってきているので、ますます「このブランドを着ていないとロリータじゃない」という考え方はナンセンスになってきているのではないかなと思う。
共感しあえる作家によって作られたアイテムを身につけることは、ロリータ文化を盛り上げるための応援になるような気もするし、オリジナリティも表現できるのが楽しい。
着る者としての私自身の興味は、今はこのフィールドにある。
ロリータファッションというコラージュ
日本では、「ロリータ」というワードが特別な美学をもった尊いものというニュアンスを感じさせるからこそ、そして「ロリータ」と呼ばれて嬉しい気持ちがあるからこそ、人は批評し合うのだろう。
ロリータファッションへのこだわりの方向性や度合いも人それぞれだし、
「ロリータファッションとは何か」という考えも、ひとりひとり違う切り口や深め方による多様なコラージュになると思う。
だからこそ強く感じる。
ロリータファッションの世界は、深入りすればするほど面白い。
10代にも着られるストリートファッションでありながらこのような奥深さがあるジャンルは唯一無二だろう。
「かわいい」のヴェールに隠れた巨大な美術館。
もっと、探検してみたいと思いませんか?
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▲ロリータファッションの歴史と概要について。
▲ロリータパンクというジャンルについて。
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