映画『海辺の映画館―キネマの玉手箱』感想

この文章はネタバレを含みます。敬称略

監督・脚本・編集:大林宣彦

 宇宙から尾道にやってきた爺・ファンタ(狂言回し的存在、高橋幸宏)が、映画は最高のタイムマシン、という話をする。閉館を明日に控えた瀬戸内シネマでは日本の戦争映画を特集。映画館の手伝いをしている少女・希子(吉田玲)がスクリーンの中に入るとミュージカル映画が始まる。「戦争を知りたい」と唄う希子。客席で観ていた馬場毬男(厚木拓郎)、鳥鳳介(細山田隆人)、団茂(細田善彦)の3人の若者も気がつけばスクリーン上に。

 一言、トンデモない映画である(もちろんいい意味で)。筋を逐一追っていくと夢日記みたいになるのでやめるが(例えば坂本龍馬(武田鉄矢)と中岡慎太郎(柄本時生)が暗殺されている横で千利休(片岡鶴太郎)が茶を立て南原清隆が能を舞っている、というような。カオス)、要は傍観者であるはずの観客が映画の中に入ってしまい、戦争がもたらす哀しみ、不条理さを身をもって体験するという内容である。と同時にサイレントからトーキー、白黒からカラーというように映画の歴史を巡っていくのだ。

 日中戦争(川島芳子なんかも出てくる。伊藤歩が似合っていた)。酒匂少尉(おそらく映画の主人公、浅野忠信)に助けられながら中国人の少女(吉田玲)を連れて日本軍から逃げる3人(突然『ターザン』になったりする。敵性映画!)。「映画なんだから弾のほうがヒロインを避けてくれる」はずが被弾してしまい娘は死ぬ。これは戦争アクション、つまり娯楽映画ではなかったのか…?

 茂は花街で女将(根岸季衣)から折檻を受けている少女(成海璃子)に出会う。借金のカタで遊郭に売られ、明日から客を取らされるのだという。もちろん二人は恋に落ちる。大林らしい瑞々しいラブロマンス。それも束の間、やがて徹底的に虐げられていく被支配者としての女性達。女将とて例外ではない。

 婦女(娘子隊)や少年(白虎隊)達が戦死する会津戦争では鳳介も官軍に斬られて負傷する。観客である3人にとっても戦争や暴力はもはや無関係ではないのだ。

 沖縄では出征した夫と銃後の家族に悲劇が訪れる。沖縄の人々への差別と軍隊の理不尽な暴力をこれでもかと描く。日本兵役の笹野高史が怪演。

 3人は汽車の中で劇団桜隊の一行に出会い、劇団に加わる。到着先の広島で『無法松の一生』の一場面が演じられる。爺・ファンタによって43年度版の映画は戦中戦後2度、18分切除されたにも関わらず日本映画史上に輝く傑作だと語られる。原爆投下が迫っていることを知る3人は桜隊の人々を逃そうと奮闘するが…。

 この映画、大林の反戦・平和思想が貫かれており、宇宙的スケールな愛のビジョンも示される。一方彼ならではのファンタジー、ノスタルジーやカルト的なヘンテコさに溢れており無類の楽しさだ。高橋幸宏と犬塚弘が突然セッションしたり老宮本武蔵(品川徹)の生首がしゃべったり(お通役が入江若葉!)大林自身もピアノを弾いたり、まことに融通無碍。編集も天才的。常盤貴子や白石加代子などの俳優陣の素晴らしさも枚挙に暇がない。尾美としのりが出ているのも泣けた。

(8/14、OSシネマズミント神戸にて鑑賞)
 

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