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『ハッピーバースデイ』『心の傷を癒すということ』『ティファニーで朝食を』―人間には居場所が必要ですー

虐待

 私たちは「自分は何のために生れてきたのか」とか、「自分が生きている意味はあるのか」と考えるものです。


 先日、テレビで「親を捨ててもいいですか」という番組を観ました。様々な形で親から虐待を受けてきた子どもがいます。その子どもたちも大人になります。


 そして、高齢になって寝たきりになったり、認知症になったりした親の面倒を見なければいけないという無言のプレッシャーを受けることがあります。

 介護の次にくるのは葬儀ですけれど、丁重な葬儀などを出せない。まして、先祖の墓に埋葬したりすることはできない。そういう問題があります。


 親の顔を見れば、自分は大人の年齢になってはいでも、虐待されていた頃のことを思い出します。独立して以後は、親とは関わらないようにして、自分を保って来た。

 でも、一人っ子の自分は高齢の親の世話をしなければいけない。そのために仕事も辞めた。そして、鬱病にもなったということもあります。


 世話をしている今も、親から罵詈雑言を浴びせられる現実に怒りを覚えたり、恐怖を覚えたりすると、おっしゃっていました。


 親は親で、難聴になり荒れる父親とか、夫は借金を作って家から出ていってしまった母親がいます。母一人で残された子を育てていかなければいけません。

 結果として、様々なイライラが子への暴言、暴力として現れる。しかし、傍目には「好い親」を演じている。


 子どもは、そういう親の姿を見て、苦しみの中に押し黙ってしまう。親の虐待の記憶は、年齢的には大人になっても子の中に残っています。そして、親の顔を見れば甦ってきます。だから親を愛せない。そして、自分の所在がない。自分の居場所がない。そういうことが。あります。


 解説者は「虐待の記憶は無くならない。虐待した親を赦すことと、忘却することは別の事柄だ」と言っていたが、それは本当のことだと思う。

 親だって、最初から親だった訳ではないし、子ども時代には親から虐待されてきたかもしれません。大人になってからした結婚も、願ったような結婚ではなかったかもしれません。

 何のために生れてきたのか、何のために生きているのか、それが分からずにイライラし、つい子どもにあたってしまう。そういうこともあるように思います。

 「虐待は社会の中で最も弱いところに現われる」と、ある人は言っていました。大人の男が虐待(ハラスメント)される、それが女(妻)に向けられ、そして、最も弱い存在である子どもに向けられる、というのです。

 そうかもしれないな、とも思います。逃げ場もなく、発散する相手もいない子どもは本当に気の毒です。

 そうであれば、「虐待」は個人の問題だけではなく、社会構造が生み出したものだと言えるからです。

 昔も同じだったのかも知れませんけれど、現代社会は様々なハラスメントによって、自分の居場所がなくなっていく社会であるような気がします。


『ハッピー バースデイ―家族のいる時間』

 2019年に作られたフランス映画です。私の年代にとっては、スターであり大女優であるカトリーヌ・ドヌーブが主演の映画です。

 田舎の森の中に建つドヌーブの家に、彼女の子どもたちが各地から集まってくる。その日の出来事が描かれている。実は、その日は彼女の70歳の誕生日なのです。

 長男夫婦は、夫も妻も医者であり、小学生くらいの男の子が二人いる。彼らだけが、この世的価値観から見れば、まともな人たちなのでしょう。

 次男は映画監督志望ですが、どう見てもその能力がありません。これまでも、とっかえひっかえ彼女を実家に連れてきたみたいですけれど、その日に連れてきた彼女は「アルゼンチン人だ」と、その時は言っていました。

 後ではスペイン人とも言って、結局、分かりません。そういうことは、次男にとってはどうでもよいことのようです。そして、二人とも大麻使用者でもあります。

 そうしている間に、三年間も音信不通だった長女が、アメリカから帰って来ます。彼女はアメリカ人の彼氏と家庭を持つべく、ある日、突然家を出ていったみたいです。子どもがいるのに、です。夫はいませんから、多分、正式な結婚はしていないのでしょう。

 そして屋外で、皆がテーブルを囲んでの昼食時に、彼女は、「この家の権利は自分にあり、この家を売ることにした」と、いきなり言い出します。皆がビックリするのは当然の事ですけれど、何かの事情が、この家にはあるようです。

 彼女の父親は、数年前にこの家で首つり自殺をしたらしいことが次第に分かって来ます(よって現在、ドヌーブの旦那になっている男性は再婚の相手ということになります。それもあって、家のことなどの判断は全部妻に丸投げです)。家の権利のことも、そのことと関係ありそうなことが匂ってきます。

 彼女は、今は高校生くらいの女の子を放り出して、アメリカ人の彼との生活を始めたようです。常識では考えられないことです。でも、結局、破局し、彼女は、大量の宝石(夫の母親の宝石)を盗んで逃走し、その宝石を実家の本棚に隠したのです。

 彼女は以前から、心の病に罹っており、入退院をくりかえしていたようです。「病」と聞くと、私たちは直ぐに異常と思い、直さねば、と思いがちです。確かにそういう面もあります。しかし、そういう者こそ本質が見えている、という面もあります。

 彼女に置いてけぼりにされた女の子は、今恋人がいます。その恋人は、音楽的才能が豊かな黒人青年です。彼もまた誕生会に招かれているのです。

 家族は、時に「骨肉の争い」を起こすものです。本当に頼りになることもあります。でも、いっそいなければせいせいする。捨てたくもなる。でも、捨てられない。そういう存在であることもあります。

 この家族の交わりは、ある意味、世界の縮図のように思えてきました。男と女、大人と子どもは勿論のこと、富める者と貧者、人種の違い、国籍の違い、、、、、。

 その日の晩、手作りの料理で盛大に誕生祝いがなされるべき時に、家族内で壮大な口論が起きるのです。その中で、長女が母親に向かって「あなたは子どもから様々なものを奪って来たのよ。今日が誕生祝いでなくて、葬式の日だったらどんなにか良かったのに」と言うのでした。

 その後、これまでも家族の姿を動画に撮っていた次男の行為が嫌でたまらなかった長男と次男の間で、激しい争いが起きました。その時、長女は額を目の前のテーブルに何度も打ち付け始めたのです。ドスンドスン、と。

 母親と長男は、彼女を車に乗せ、病院に連れて行きました。その病院の医者は、廊下で待つ二人に向かってこう言いました。

「今は鎮静剤を打って比較的落ち着いています。今夜は病院に泊まって頂きます。娘さんにお会いになりますか?」

 2人は立ち上がって、彼女がいる部屋に向かいます。中から「会いたくない」という拒絶の怒声が聞こえてくる。それでも母親はその部屋に入り、後ろ向きの娘の肩を抱き、「あなたが何と言おうと、私はあなたと一緒にいるからね」と言うのです。その言葉を聞いて、娘も母の体を抱き締めるのです。

 2人が家に帰ると、船頭の指示で荒海の中を前進していくという劇をした孫の3人が、手作りのケーキをテーブルに持っていくのです。祖母が70本の蝋燭を吹き消すと、そこにいる皆が、万国共通の?ハッピーバースデーを歌うのでした。「新しい人間」が誕生したことの暗示だと思います。

 しかしそれは、「それまでの人間が死んだ」ということです。それまでの人間の葬式の日こそ、新しい人間の誕生の日なのだと思います。

 それは、トラブルメーカーであり心身過敏症の娘、自分を拒否し、抹殺しようとする人間を受け入れ、いつまでも共に生きていく覚悟を決めた人間が誕生したことを意味するんだと思います。

 長女にしてみれば、この母親は、自分がどうなっても一緒にいてくれる人間なんだと確認できた時に、それまでの自分が崩壊し、新しい自分が誕生したのだと思います。

 それは母にとって、簡単なことではないと思います。誰だって自己否定は、簡単なことではありません。彼女にしても、これまでの長く苦しい日々があり、齢70にして味わわねばならぬ悲しみを経てのことなのですから。

 それは、長女にしても同じだと思います。彼女もまた、父の自死というとんでもない経験を通して、心に深い傷を負ったはずだし、自分の母親に対して、根深い複雑な感情を抱いたに違いありません。

 その両者が抱き合う時、母は、自分が生まれて来た理由、生きている理由、これから生きていく理由を悟ったんだと思います。そして娘も、こういう自分と何処までも一緒に生きてくれる母の中に、自分の居場所を見つけたのだと思います。そういう意味で、この日が彼女らにとってハッピーバースデーなんだと思います。

 自分の居場所は、それまでの自分が崩れ去らねば見つからない。それは、本当のことだけれど、本当に厳しいことだと思います。

「こころの病を癒すこと」

 在日韓国人の青年が、人間の心についた傷を癒す精神科医になる実際にあった話です。医師になってから、阪神淡路大震災を経験し、そのことで傷ついた人の心を癒すとは、どういうことかを考え続けるのです。

 そして、ひょんなことから知り合った新聞記者に懇願され、自分の経験を記事として書き、後日、それが本になり、賞が与えられたそうです。

 彼は以前から付き合ってきた在日韓国人の女性と結婚し、子どもも与えられるのですけれど、彼自身は癌で死んでしまうのです。


 彼は3人兄弟の真ん中です。そのことも、微妙な位置です。そして、在日韓国人なのです。日本人のようであって日本人ではない。名前も韓国名と日本名の二つを持っているのす。

 そして、母親から「在日韓国人は日本では差別されるから、隠していなければいけません」と言われるのです。常に自分を隠しながら生きていくという不条理は、味わった者にしか分からことだと思います。

 彼らは、この国の中には安心する居場所がなありません。自分とは何であるのか、何のために生れてきたのか、を考えざるを得ない境遇だと思います。

 彼の父親は、人間の心など一顧だにせず、世のため、そして自分のために仕事に(金を稼ぐこと)邁進する人間です。そして、エリートコースを走る長男を評価し、人間の心の傷を癒すとはどういうことかを考える精神科医を目指す次男のことは少しも評価しません。

 それは、何処にでもいるごく普通の父親のような気がします。次男は、家の中でも自分の居場所がないのです、

 そういうモヤモヤの中で、彼は同じく在日韓国人の女性と出会い、二人はお互いの中に自分の理解者を見出し、先程言ったように、結ばれていきます。

 そんな中で、彼らは阪神・淡路大震災を経験することになります。そのことで、命は助かったものの家族を失ったり、家を失ったり、仕事を失ったり…・様々なことで傷つく人々と出会うことになります。

 時を同じくするように、彼ら夫婦に子どもが与えられていきます。また、それまで上手く行っていた父の仕事が上手く行かなくなり、恐らくストレスで病気にもなり、臥せっていることが多きなりました。

 豪華な装飾品で飾られていた自宅は、装飾品をお金に換えて父の病気の治療費に充てざるを得なくなります。

 父は、仕事(金)がすべてであった自分の人生を否定せざるを得なくなっていきます。そして、かつて否定していた次男の本を繰り返し読みつつ、人には心があり、その心に正面から向き合う次男の精神科医として生き方を評価するようになっていきました。

 そして、精神科医の彼は、第二子が誕生後に死んでしまうのです。その前、自分が乗った車椅子を母親に押してもらいながら、落ち葉を拾う妻の姿を見、彼女が何て言うかを予想しつつ、「そうか心の傷を癒すためには、あなたは独りじゃないよ、ということを分かって貰うことなんだ」と、言うのです。

 自分はたった独りだ、自分が生きていようと死んでいようと誰も気にも留めない。自分は捨てられたも同然だ。

 そう思えば、誰も自分の存在意義なんて感じられないのは当たり前です。

 それまで「確か」だと思っており、その「確か」さとの関係のなかで、自分の存在に意味を見出していた人間が、その「確かさ」が音を立てて崩れ去った時、自分が今生きている意味、これから生きていく意味を感じることが出来なくなっていくことは当然です。

 彼の父親は事業に失敗し、自身病気にもなり、「自分の人生は何だったのか」と自問し、否定せざるを得なくなります。

 彼は、「人間は独りでは生きていけないのだ」と言いつつ、死んでしまう。

 人間は、金とか地位の中ではなく、自分を愛し、受け入れてくれる存在の中に、自分の存在を投げ出すことが出来る時に、自分の居場所を見つけ、生まれて来た意味、生きている意味を見出すのかも知れません。それは、自分がその人の居場所になったことと不即不離な関係だと思います。

 そのことを知り、そういう人と出会う。それは簡単なことではないだろうと思います。

 『ティファニーで朝食を』

 1961年の映画だそうで、筆者が5歳の頃のオードリ・ヘップバーン主演のアメリカ映画です。私は題名だけは知っていたし、ポスターは何度も見たことがあり、映画で使われるムーン・リバーという歌は、当時、誰もが知っていたと思います。

 この映画は今から60年前の映画で、その頃のアメリカの都市の世相をよく表しているように思います。一言で言えば、それは金と性がすべてという感じだと思います。

 ティファニーとはマンハッタンにある高級宝石店の名前で、主人公はその宝石店のウインドウを見ながら、朝食にクロワッサンを食べる。そして、ティファニーには幸福がある、私も何時か幸福になる、と夢想しているのです。

 ホーリーという偽名を使っている彼女は、ニューヨークで金持ちの男性たちと付き合いつつ、小遣いを稼ぎ、いつか大富豪と結婚し、自分も富豪層の仲間入りをするんだと思っているのです。当時のニューヨークにはそういう女性がいたようです。

 しかし、彼女は田舎のテキサス出身で、貧しさの故に14歳で結婚した女なのです。そこから逃亡し、今は名無しの野良猫とニューヨークで偽名を使って金持ちの男たちの中を渡り歩きながら、情報を得ているのです。

 彼女のアパートの上階に、ポールという名の作家志望の男が越して来ます。でも、彼は有閑マダムの若い燕なのです。セックスやデートの代わりに、彼女から金などを受け取り、生活している男です。

 彼は自由奔放なホーリーに惹かれていき、彼女もまたインテリ風の彼に惹かれていくのです。

 それから色々あるのですが、彼女は週に一回刑務所に通って得たマフィアのボスの意味不明の天気予報の言葉を、彼の弁護士に伝えるだけで、高額の報酬を受け取っていました。彼女は知りませんでしたが、それが麻薬密売に関連する言葉だったからです。

 そのことが、麻薬密売の共犯に当たると、彼女は逮捕されてしまいました。そして、メキシコで結婚するはずだったメキシコの大富豪から、麻薬密売の共犯容疑をかけられたことは「家名を汚す」とされ、飛行場に向かうタクシーの中で別れの手紙を受けたのです。

 そのタクシーには、愛しているとプロポーズをするポールもいました。まさか、メキシコの大富豪から別れを宣言されるとは思っていなかった彼女は、タクシー内でポールに別れを告げたのです。彼は怒り、タクシーからおりてしまいました。

 そして、これまで一緒に暮らしてきた名無しの野良猫もタクシーを止まらせて別れを告げるのです。

 しかし、そうなってみると、ティファニーを幸福の象徴のようにして生きてきた彼女には、何も本当のものがないことに気づくのです。名前も偽名だし、富が幸福を保証するというのも嘘っぱちだし、性的な快楽も表面的にして一時的なものだし、自分が追い求めて来たものは、全部「偽り」だと分かってしまうのです。

 そこで、彼女はタクシーを止め、雨の中、先に放した猫を探し求め、ついに雨水にあたって震えている猫を見つけだします。名前がない野良猫は彼女そのもなのです。そして、ポールも見つけ、堅く抱擁し、口付けするのです。

 彼女が、自分の居場所は富の中にはないことが分かり、自分の存在を愛するポールの中に自分の居場所があることを漸く分ったことを表すのだと思います。

 この世は、人の能力や才能や容姿などを見ます。そして、富を得ることが幸せの条件です。だから、私たちは、自分は使える人間であることをアッピールするのが当たり前だと思っています。でも、そうやって、自分の居場所を自分で小さくしている気がします。

 病気で寝たきりになることもありますし、今の時代は変化も速いですから、PCと縁遠い高齢者は使いものになりません。役立たずです。そういう自分が生きている意味を見出せない。そういうことが、あります。

 しかし、私たちの存在意義は、富とか、容姿とか、能力とか、才能とかにあるのでしょうか。

 何処までも共に生きてくれる存在、自分がどうなっても、一緒に生きてくれる存在との交わりの中に、自分の居場所を見つけることが出来るのだと思います。

 余談ですが、この映画には、日本人が出て来ます。昨年来、特に人種差別(BLMなど)の問題がクローズアップされています。そして、今はアジア系の人々に対する暴力や差別が問題視されています。

 『ティファニーで朝食』をでは、主人公の上階に住む人間が日本人なのです。それは、丸メガネ、出っ歯、神経質、変な英語というもので、当時の日本人に対するイメージが露骨に出ています。

 今なら「これは差別だ」と言われることは間違いありません。しかし、当時の日本人のイメージはこういうものだったし、当時の白人たちの優越意識はこういうものであったことを示しています。

 ステレオタイプなイメージに人を押し込める。そういうことを私たちはしがちです。親の子に対する愛は、得てしてステレオタイプなイメージに乗ったものです。それが子どもを追い詰めます。親は、子どもを愛しているのではなく、自分を愛しているのでしょう。

 性差別、階級差別、人種差別・・・、様々な差別があります。ある種のイメージを作り上げ、そのイメージの中に人を入れ込み、そのイメージから人を出さない。そして、他人よりも優位に立とうとする。そこに差別が生じてくるように思います。だから、今後も差別はなくならないでしょう。

 そして、結局、その人の居場所をなくしていく。何時まで、そういうことが繰り返されるのでしょうか。

 人間は作られた「被造物」なんだという観点が必要な感じがします。

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