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『パラサイトー半地下の生活ー』『ジョーカー』-人間の居場所ー

 いずれも話題になった映画であり、ある家族のまたある人の歩みを通して現代の世相も描いてもいると思います。それは格差であり、侮蔑であり、怒りや不安、不満でしょう。

『パラサイトー半地下の生活―』

 ある貧乏な家族が半地下に住んでいる。彼らは失業中であり、仕事がない。よって非常に貧しく、惨めでもある生活をしている。

 浪人中である長男が、有名大学に通う友人のピンチヒッターとして大金持ちの子女の家庭教師になることから物語が展開し始める。普段は関わりのない、富裕層と貧民層の出会いがここにある。

 次に、彼の妹が大金持ちの男の子(小学の低学年)の絵の先生になり、父親がこの家の運転手になり、母親が家政婦になっていくことになる。妹に始まって、すべて策略による。

 彼らが実の家族であることは、誰も知らない。しかし、半地下で生きてきて体に染みついている「臭い」は共通していた。ただ、富裕層の息子だけは、なんとなく彼らに共通している「臭い」を感じてはいたのだが。

 しかし、ある雨が降る晩、彼らの策略によって解雇されていた前の家政婦が、忘れ物をしたということで家に入ってくる。そこで、この家には地下があり、そこで借金取りに追われていた家政婦の夫(これも貧困層)が暮らしていたことが判明する。

 そして、富裕層に取り入っていた4人は家族であり、富裕層を利用して暮らしていたことが元家政婦に分かってしまい、脅迫されることになる。

 半地下に生きていた者たちと地下に生きてきた者たち双方が、富裕層を利用している。しかし、金持ちたちに見下され侮蔑されている者同士が助け合うのかと言えば、そうではない。侮蔑されている者が、自分たちよりも下の人間を作り出し、侮蔑する。

 そういう現実は、至る所で見られるように思う。人間は、人に侮蔑される悲しみや怒りを、人を侮蔑することで晴らそうとするものだ。

 そして、ある日、大金持ちの家の芝生の大きな庭で息子の誕生パーティーが盛大に祝われているとき、地下室に隠れていた男が出てき、結局、血で血を洗うような事件が起きる。

 詳細は省くが、大金持ちがその現場から自分の子を車で脱出させようとする。その時、地下に長年住んでいた男が遺体になっても放つ臭いに顔をしかめる。この「臭い」については、これまでも何回か伏線があり、貧困層の人間に対する富裕層の人間の侮蔑意識の象徴にもなっている。

 その侮蔑意識が見えたことによって、これまで大金持ちの家にパラサイトしてきた父親の鬱積していた怒りが爆発し、彼は大金持ちを刺し殺してしまうのだった。

 最後の場面は、大金持ちを殺した父親は、その家の地下に生きており、息子がいつかけ大金持ちになってこの家を購入することが仄めかされる。

侮蔑 幸福

 この映画においては、富裕層の人間と貧困層の人間の格差が一つのテーマになっていることは確かだろう。そして彼らの間には差があるだけではなく、上から下への侮蔑がある。

 同じ人間なのに、生まれながらに差があり、それが上下関係となり、侮蔑を生み出す。そういうことがあると思う。そこに人間の居場所はないと思う。

 誰もこの性別、この時代、この国、この容姿、この性別、この能力、この肌の色、この兄弟姉妹、この親・・・・から生まれようとして生まれてきたわけではない。それらはすべて所与のものだ。生まれてきたらそうだった、というものである。

 富裕層の人間も生まれてきたら、自分はそういう層に生まれたのだなと思うほかないし、貧困層の人間もそうだ。不公平と言えば、こんな不公平なこともない。しかし、中には層の間にある壁を越えて貧困層に生まれたのに、富裕層になる人もいるし、その逆もあるだろう。

 しかし、富が人間の幸せを保証するものなのか。お金を持っている人は幸せで、貧乏人は不幸なのか。お金があっても、自分の安心していることができる居場所がない。そういうこともあるのではないか。

 自分は無価値だ、自分が生きていることは無意味だ。そう思うほかない時、お金はあっても不幸なのではないかと思う。


『ジョーカー」

 架空の街が舞台だが、その町は悪臭、不安、不満、憎悪に満ちている。一部の富裕層に富が集積され、貧困層は放置されている。

 そういう街にピエロの化粧をし、ピエロの格好をした、貧しいジョーカーがいる。彼は、緊張したりすると笑いたくなくても笑ってしまう障害がある。そして、サンドイッチマンやトークショウ、病院に入院している子どもたちの慰問などをしながら日銭を稼いで何とか生きている。

 彼には心の病がある母親がいる。彼女は若き日、その町随一の金持ちの家で家政婦をしていたことがある。その彼に手紙を書き、現在の窮状を救ってもらえるということが、彼女の心の支えなのだ。

 ある時、ジョーカーはその手紙の中身を見た。そこにはジョーカーは金持ちと母親との間に生まれた子だということが書いてあった。

 真偽を確かめるべくジョーカーはその町随一の金持ちの邸宅に行った。そして、運よくその家のまだ5~6歳の息子に会い、手品を見せたりして馴染んでいくが、その家の執事が出てきて、ジョーカーが大金持ちと母親との間に産まれた子であるという話は、母親の虚言であり、彼女は若き日から精神を病んでいると言われてしまう。

 金持ちがチャップリンの無声映画『モダンタイムス』を観たとき、ジョーカーはボーイに変装し、トイレで大金持ちと対峙し、自分はあなたの子ではないかと言う。しかし、大金持ちから、ジョーカーはもともと孤児で、母親の虚言癖、妄想癖を隠すこともあって孤児だった彼が養子にされたことを知らされる。

 その間、彼は護身用に同僚が貸してくれた拳銃を慰問に行った病院で落としてしまって、会社から解雇されてしまう。一人で立ち観客を笑わせるはずのステージも一人笑いの癖が出て失敗してしまう。

殺害

 失意の内に地下鉄に乗っていると金持ちが経営している会社勤めの勝ち組のビジネスマン3人が女性にナンパしている。彼女はジョーカーに助けを求め、結局彼はその3人を拳銃で殺害してしまう。その結果、彼は警察から追われる身となっていく。

 しかし、傲岸不遜のエリートたちを殺害したことが、不満や憎悪を抱えている民衆の中で、彼を英雄にしてしまうことになる。彼は、警察から追われる身になるのだが、民衆は彼が逃げるのを助けるのだ。そして、民衆の中には、ピエロ姿に変装し、不平、不満、憎悪を体現していく者たちが出てくる。

 そして、彼は今は病院にいる彼女の記録を奪い、その記録を読むと、幼い彼に対する母親の恋人の虐待によって、彼の脳が損傷を受けたことが、彼の障害の原因であることが分かった。そして、母親は恋人の虐待を見ても何も言わなかったというのである。

 そのことを知って、彼は母親の病室に帰り、彼女を枕で窒息死させてしまう。また、「自分が拳銃を貸したと言わないように」と口裏を合わせるためにやってきた同僚を殺した。そして、すべりまくった彼のステージをたまたま地方テレビで見て、笑いの種にしようとジョーカーを彼の生番組に呼んだ人気司会者を番組内で拳銃で殺したのである。

 金持ち一家は暴動が起こった時に、逃亡を図るが、不満や憎悪が溜まっている暴徒の一味に殺害される。

 その後、彼は警察に捕まるのだが、民衆は暴徒に化し、ピエロに変装した者たちも多数おり、ジョーカーは救急車にぶつけられ、停車したパトカーの上で踊る。

 そして、精神病院の中でカウンセラーの前で彼は笑う。カウンセラーが何故かと問うと、彼は「面白いジョークを思いついた。でも、あなたには分からない」と言い、次の場面では踊るように廊下を歩くジョーカーが映るのだが、彼の靴は血塗られており、恐らくカウンセラーが殺されたことを暗示している。

居場所探し

 彼の歩みを見ていると、自分の居場所を探して、ことごとく裏切られていく感じがして苦しくなる。自分の出発には愛があったに違いないと富豪に会いに行ったり、母親の愛を信じてその中に自分を置くことで何とか精神のバランスをとってきたのに、それが根底から裏切られる悲しみ。そういう悲しみが彼にはある。

 会社の人間も自分の言うことなど聞いてくれないし、同僚も自分のことだけ考えている。彼は、どこにも身心の置き所がない。そういう中で、彼は次第に精神のバランスを崩していく。

 先日ある人がこういうことを言っていた。

「21世紀は、人を幸福にしないのじゃないか。どんどん不幸の方に向かっている気がする。70年代80年代は、日本人はもっと元気があったし、社会も上向きだった。しかし、今は違う。」

 同感である。上向きの時代は終わった。その上にコロナ禍である。この禍は世界を覆っている。そして、今、様々な面での格差が広がっている。そして、分断が広がっている。国と国、人と人が分かり合えない状況があるような気がする。

 そういう中で、私たちは安心できる居場所を求めているのだろう。しかし、その居場所がなかなか見つからない。「でも、あなたには分からない。」山梨教会ホームページ




 

 


 




         

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