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『リスペクト』『キャロル・オブ・ザ・ベル』


 
両作品とも2021年に作られた作品です。前者はアメリカの歌手アレサ・フランクリンの伝記映画で、後者は当時ポーランド領だったウクライナが舞台の映画で、いずれも人間の「尊厳」(リスペクト)を求める映画です。

『リスペクト』
 
最近のテレビコマーシャルで、泣いている赤ん坊をあやす字幕が出、「あなたは男の声が聞こえましたか、女の声が聞こえましたか」というものがあります。心の内に植え付けられた差別はないのか、という問いかけがそこにはあります。
 
ご承知のように、国籍、人種、宗教、性別、言語・・・ありとあらゆることが差別の切っ掛けになります。その一方で「多様性は大事だ」と言われます。しかし、多様性は得てして「好き勝手にやっても良い」と受け取られ、バラバラに解体してしまいます。
 
そこから、独裁主義が生まれ、同調圧力が生まれるのかもしれません。「醜いアヒルの子」を排除する傾向は、世の東西を問わないように思います。
 
フランクリンの父親は牧師です。彼は娘の声が抜群に良く、神に捧げる讃美歌(ゴスペル)を素晴らしく歌うもので、伝道集会には必ず娘を同行させました。フランクリンは、神を伝えてくれた父を信頼します。でも、父は彼女から自由を奪うのです。
 
つまり、自分の意のままに娘を用いるのです。そのことを娘は喜んでいる、という決定的な誤解が父にはあります。そして、これはクリスチャンに、特に牧師にしばしば見られることですが、自分の願いなのに、神はそう願っていると確信してしまうのです。それは、恐ろしい誤解です。
 
彼女は、信頼する父の誤解に基づく愛の強制によって、どんどん自由が奪われていきます。そして、ある時、父が招いた客がまだ10歳程度の彼女をレイプするということもありました。つまり、その男にとって彼女は一時の性欲のはけ口に過ぎないのです。
 
そういう彼女も後に結婚します。しかし、その夫にとって彼女は金づるでした。そして、支配欲が強いうえに暴力を振るう夫だったのです。彼女は、そのことでも深く傷つけられます。
 
そして、「フリーダム」(自由)、「リスペクト」(尊厳)という歌を歌うのです。それは、単なる歌ではなく、彼女の人間としての実存が掛かった歌です。大きな悲しみを通して、彼女が人間になっていくのです。そして、多くの女性たちを励まします。
 
人間にとって「自由」は必要だし、「尊厳」は必要だからです。
 
「キャロル・オブ・ザ・ベル」
 
この映画は2021年に制作されています。2022年2月に始まり、現在(2023年8月現在)も続いているロシアによるウクライナ侵攻の前です。
 
私たち島国に住む人間は、外国のことを「海外」といいます。国境線は海なのです。しかしそうではあっても、隣国のロシア、韓国、中国との間に「領土」問題を抱えています。双方とも、その島のことを「我が国固有の領土」と言います。しかし、戦争の度に国境線は変わります。「我が国固有の領土」とは何を意味しているのでしょうか。
 
『キャロル・オブ・ザ・ベル』はユダヤ人夫妻が大家のアパートに、それぞれ小学生位の女の子がいるポーランド人の家族、ウクライナ人の家族、後にドイツ人の家族が住むことになります。
 
そこは、今はウクライナ領ですが、当時はポーランド領でした。でもその地域はナチスドイツに占領され、小学生の男がいるドイツ人家族が、そのアパートに住むことにもなります。その後は、崩壊前のソビエト連邦に占領されることになります。そして、ソ連兵がドイツ人の子どもを捕らえるために来たりします。
 
話は遡りますが、ナチスドイツが来ると聞き、ユダヤ人は迫害を恐れて、いなくなります。また、妻にも内緒でドイツに対するパルチザンとして活動していたウクライナ人の夫は処刑されてしまうのです。その前に、ポーランド人夫妻は二人の子どもを置いてナチスに連行されてしまいます。
 
映画を貫くのはウクライナ民謡がもとになっている「キャロル・オブ・ザ・ベル」というクリスマスソングです。ウクライナ人家族の小さな娘は、「その歌は人々に幸せをもたらす歌だ」と信じているので、三家族が集まった食事の時にも国籍の違う子どもたちで歌います。また、ソビエトに連れ去られソビエトの愛国的歌を歌うコンサートでも歌うのです。しかし、それはコンサートの場では、とんでもなく場違いな歌なのです。でも、共にソビエトに連れ去られた娘も歌うのです。
 
妻は、ソ連の取調官に「何を子どもたちに教えていたんだ」と厳しく詰問された時、「ウクライナ地方の民謡などです」と言います。すると、取調官は「ウクライナ地方の民謡?そもそもそんな地方はないんだよ」と言います。完全な存在の抹消です。そして、彼女をレイプしようとするのです。彼女は、暴力的に拒絶します。
 
その彼女はシベリアに抑留されて、ナチスの強制収容所のような所に入れられます。その中で、彼女はベッドの板を鍵盤に見立ててキャロル・オブ・ザ・ベルを弾くのです。悲惨な場面です。しかし、彼女が体を張って守りたかったのは、人間としての「尊厳」だったのではないかと思います。
 
2023年8月に、ブレディ・みかこの『R・E・S・P・E・C・T  リスペクト』という本が出版されました。内容はど貧困の子ずれシングルマザーたちが、ロンドンの下層住宅から退去させられることに端を発し、路上で声を上げたことが次第に多くの人々やマスコミを巻き込む「運動」になっていくというものです。
 
その中からいくつかの文章を引用します。
 
「自分の声を聞いてほしい、もう自分の声をかき消されたくない」と思ってジェイド(主人公、筆者注)はこの運動を始めた。だけど、ジェイドが言いたかったのは、「こんなにお金がないんです」とか「こんなに恵まれない環境で育ったんです」とかいう貧乏レポートではなかったはずだ。
 
R・E・S・P・E・C・T。
ジェイドは腰に両手を当てて鏡の前に仁王立ちし、そうつぶやいた。少しばかりのリスペクト。それを勝ち取るためにジェイドは明日、裁判所に立つ。リスペクトのないところに尊厳はないから、尊厳のないところでは生きられないから。
 
本の終わりはこういう言葉です。

R・E・S・P・E・C・T。
このヤバさは癖になりそうだ。少しばかりの自分へのリスペクトが起動させる未来が、いま、ここから始まる。
 
 自分へのリスペクトを持っていない人間は、他人へのリスペクトを持てないのだ、と思います。
 
 仲間を作るために敵を作ることがよくあります。そして、私たちは一人では生きてはいけません。だから仲間が欲しくて無意識の内に敵を作ってしまうのだと思います。そういう素地が私たちの中にあるのでしょう。そういうものが、差別を生み出し、同調意識を生み出し、分裂を生み出すのだと思います。
 
人は、互いにリスペクトしなければ、人として生きていくことは出来ないのだと思います。リスペクトが無ければ、人から自由を奪い、単なる道具として利用したりするしかないのです。でもそうしている本人は一向に悪びれることがありません。皆がやっていることですし、その流れに乗らねば自分が差別される側になってしまうからです。
 
自分は尊厳ある人間だ、目の前の人も尊厳ある人間だ、と互いにリスペクトして接することをしなければ、この地球上から戦争とか紛争が無くなる日は無いし、様々なハラスメントが無くなる日は無いと思います。明るい未来は、互いにリスペクトするところにしかないと思います。

でも、そんな未来は夢物語でしょうけれども、夢を見続けつつ、この世を生き続けることが大事なのだと思います。


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