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掌編小説【賃金さんの休日】①

 土曜日午後、私は郊外に向かう電車に乗っていた。
 車内は、ほどよく緩んで、世間話に興じる女性連れ、大きく足を組んでうたたねをしている若い男、親密さを隠そうともしない若い男女などでさんざめいていた。

 平日は、仕事帰りの通勤電車で居眠りするのが私の日課。時間にして、停車駅3つ分の爆睡で、緊張し疲れた脳みそが生き返りすっきりとするのだ。
 今日は休日とあって、私はひとり、シネマコンプレックスに行ってきた。座席に座り映画のパンフレットを開き余韻に浸る。映画を観に行くことが私の唯一の贅沢だ。

 しかし、まだ2月中旬だというのに、気温が20度まで上がっている。どの人もまだ真冬の装いで、いきなりの暑さにダウンジャケットを脱いで半袖になっている人もいた。大きな窓から、西日が容赦なく差し込んできて肌を刺す。UVカット加工などと、気休めに窓ガラスに貼ってあるが、本当なのかと疑いたくなる。

 なにしろ更年期のせいか、この頃はホットフラッシュが突然に襲ってくる。背骨の真ん中辺り、熱の塊がなんの前触れもなく熾る。そこからジワジワと侵食するように拡がり、やがて汗が溢れ滴り落ちてくる。今もパンフレットでパタパタと顔に風を当てるが、ほてりは一向に治まらない。
 
 私は、役所に勤める非正規の期間職員として働いている。事務補佐員として午前9時から午後4時までの勤務、私と同じ立場の人間は、陰で正規職員から「賃金さん」と呼ばれているのを知って、正直いい気はしないが仕方ない。時間単位でのみ必要とされる算盤の珠、時間を換算されて、働き過ぎても足らなくてもいけない賃金さん。何十年と勤めても退職金も出ない賃金さん。

 時給は、県の最低賃金にちょい足し50円で、抵触しない程度のギリギリ。これが同じ賃金さんでも、午後5時までの契約だとボーナスが支給されるので、本当は私もそうしたいのだが欠員がなければ働けない。
 1年毎の雇用契約は、よほどのことがなければ更新される。が、毎年その時期が来るたび、首筋にひやりとしたものを感じつつ私は日々を送る。同じ立場の仲間たちは、皆そわそわと落ち着きがなくなる。あなたエントリーしたのかと、あからさまに探りをいれてくる者もいる。

 今年も募集時期の1月にハローワークに出向き、勤めている役所の採用募集にエントリーしてきた。用意した履歴書は昨年と同じ内容。違うのは証明の顔写真だけ。例年のこと、わざわざ写真館で撮るお金が惜しくて、駅前のセルフ写真を利用するのだが、出来上がりは、あーあと、ため息が出るくらいお粗末で情けなくなる。面接も例年とおり。

 そして、もう間もなくだ。
 3月の半ば、いつも同じ執務室で顔を合わせている総務課長から、合否の電話が入るのだ。

 ―来年度も、またよろしくお願いしますよ―

 私はその言葉を、もう13回も繰り返し聞いている。
 ご破算で願いましてはと算盤の珠をリセットされるように、一旦は今の位置から降ろされるのだが、結局、毎年採用され指示どおりにまた盤上で動く。まるで茶番だ。

 いやまてよ、と頭を振る。もし不採用だったら……。4月1日、いきなり無職となる。
 そうなったら、いったいどうなるのかと不安がよぎる。油断はできない。役所の都合と思惑、総務課長との相性により、非情にもお引き取り願いますと切られた人を、これまで何人も見てきた。その仕打ちに怒り、通達の翌日から残っている有給休暇を全て消化し、引継ぎもせず投げ出すように退職する賃金さんもいる。珠にだって一分のプライドがある。
 
 アラフィフ。あと2年で50歳。
 短大を卒業したものの、ずっと非正規のままだった。誰にも迷惑をかけず一生懸命生きてきたのに、何年経っても現状維持が精いっぱい。結局、生涯を一緒に歩むパートナーにも巡り会えなかった。

 一度か二度、男と付き合ったことはあったが、彼らも同じく不安定な人生を送っていた。お互いに、日々を、月々を、なんとか送っていくことだけで、いっぱいいっぱい。そんな年月を繰り返し重ねるうちに、他人と新しい関係を築くことそのものが面倒になってしまった。

 今は、母とふたり公営団地で暮らしている。数年前に亡くなった父は公立学校の教師をしていたが、何を思ったか40代で中途退職し、その後、団地の集会室で私塾を開いて不登校の子どもたちに勉強を教えていた。
 父は、還暦を迎える前に、財産も借金も残さず逝ってしまった。わずかな遺族年金と母自身の国民年金は満額に足りず、両方合わせても月に10万円少し。その年金と自分の給料とで、とりあえず今の暮らしは成り立ってはいるが……。

 いや、先のことは考えるのはよそう。


                 小説【賃金さんの休日】②了 へ続く   

                           


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