小説【せとでん通勤者~装う女~】
土曜日の遅い午後の「せとでん」。私は、始発駅「尾張瀬戸」で乗車した。終点の「栄町」まで36分で完結する何処にも繋がらない単独の路線。
電車の窓に西日が強く差し込んでいる。
今日は、栄のオアシス21で友人と落ち合い、ぶらぶらと冷やかしにショップを覗いた後、居酒屋へとなだれ込む予定だ。
週末とあって、車内は買い物帰りの女性連れや、若いカップル、部活帰りの高校生などなど、さんざめく声で車内がほどよく緩んでいる。
それにしても暑い。扇子を取り出してパタパタと顔に風を当てる。この頃はホットフラッシュのせいで、顔のほてりがなかなか治まらない。
適当に塗った化粧など、もうとっくに剥げている。化粧直しなど、たったひとりの休日にする必要もなく、そのうち、おばさんなのかおじさんなのか、性別不能と化していくのだからまあいいかと開き直る。
はす向かいの席に座る女に、ふと視線が留まった。
スマートフォンに席巻されて、最近ではあまり見かけなくなった、電車の中で化粧をする女だ。電車内をパウダールームと勘違いしている。
女……、高校生か……、幼い体つきと赤ん坊のような皮膚感が中学生かもしれない? いえ、もしかしたらまだ小学生かもしれない。
幼い顔を鏡に映し熱心に覗き込んでいる。
彼女は膝の上の大きなポーチをまさぐって口紅を取り出した。キャップを外し直に唇に塗ると、次はマスカラだ。まつ毛をブラッシングしている。
揺れる電車の中でなかなか器用なものと、私は感心して見入っていた。
どうやら顔が出来上がったようである。
光に透けて見える頬の産毛に粉がふいて、ふわふわとしている。あどけない顔に濃い化粧がアンバランスで、なぜだか無残だ。
さて、メイクの終わった彼女が次に取り出したのは、充電式のハンドドライヤーだ。ブーンという音とともに髪を整え始めた。
隣に座る中年の男性が顔をしかめている。けれど彼女はおかまいなし。自分の肘が隣の男性に当たっても知らん顔。逆に、おっさんセクハラだと言わんばかりに男性を睨んでいる。
ほどなく髪が温められ焼かれて、タンパク質特有の臭いが私のところまで漂ってきた。電車の中で化粧をする女に寛大な私も、さすがにお嬢さんこれは迷惑よと眉を顰めた。
けれど、注意なんてできっこない。
勇気を出して言ったところで逆ギレされて、くそババアと罵られるのが目に見えている。罵られるだけならまだいいけれど、下手をするとハンドドライヤ―で反撃されかねない。ここは、ことなかれ。君子危うきに近寄らず? 少しちがう。触らぬ神に祟りなし……。
いずれにしろ、見て見ぬふりするのが賢い大人の選択というもの。
彼女の髪がきれいに巻かれ、やれやれ身だしなみが整ったのねと見ていたら、まだ終わってなかったのか、彼女はバッグの底から小さなスプレー缶を取り出した。
えっと思う間もなく、彼女はTシャツの首元に左手を掛けると下方に大きく引っ張った。すかさず胸の中に右手を深く突っ込むと、手に持ったスプレー缶をシュッと腋の下に吹き付けたのだった。
おいおいおいおい。勘弁してよ!
続いてスプレー缶を持ち替えると、もう片方の腋の下にも吹き付けた。身だしなみの仕上げ制汗スプレーだ。
甘ったるい臭いが車内に漂う。
一連の彼女の行動を気にしつつも平静を装うまわりの乗客を尻目に、ついに彼女が立ち上がった。大きなショップの袋を提げて、一両目に移るのか、車両の境のドアをこじ開けて連結機の部分に入るとドアを閉じた。
が、なぜか彼女はそのまま連結機のところに留まったまま。一体どうしたのかと、私は様子を窺った。揺れ動くドアのガラス越しに、もぞもぞと身体をくねらせている女が見える。
なんと、まさか、あろうことか……。
連結機の上で、電車の中で、彼女は洋服を着替えているのだった。
「次はァ大曽根ェ大曽根ェに停車しまァす。地下鉄とJR中央線、ゆとりーとラインはァ乗り換えでェす」
いつものようにアナウンスが聞こえてきた。
それを合図に、肌を大きく露出したカットソーとデニムの短パンに着替えた彼女が、ドアをこじ開けて通路に出てきた。
そうね、確かにさっきまでの洋服はまるきり子どもだった。背伸びしたそのファッションは、痛々しい化粧にとても良く似合っている。アンバランスな名古屋嬢の出来上がりだ。
その後、彼女は「大曽根」駅で降りていった。
窓の外を見やった。
車窓に映る街のビル群が、思いのほか濃い夕暮れ色に染まっていて、私の胸はなぜかざわめいてしかたないのだった。
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