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地域で楽しく過ごすためのゼミ 10月

2021年10月26日、地域で楽しく過ごすためのゼミが開かれました。

今回の課題図書は『想像の共同体』(著:ベネディクト・アンダーソン 訳:白石隆 白石さや 2007年 書籍工房早山)です。担当は渡辺です。
この文章では、実際にゼミで使用した要約文章を掲載します。

※文章が長いので、かいつまんで内容を知りたい人は「担当者による解説」を読んでください

〈以下要約〉

〈選定理由〉

地方創生を考えるうえで不可避の存在が、地域の共同体である。この存在は自明のものとして受け取られる一方、その言葉が意味するところは、時と場合、そして人によって変化する。この様に、自明であり不明でもある「共同体」という存在を相対化したいと考えた。
今回その作業にあたり、この「地域」「共同体」と、「国」「国民」とが相似関係にあると考えた。いわゆるナショナリズムの研究を通じ、地域の共同体を捉えなおす機会としたい。

〈本の主な主題〉

この本の主題はナショナリズムである。ナショナリズムは近代を象徴する思想であるが、それに対する言論には多くの混乱が見られる。筆者はこの混乱の原因を、ナショナリズムのカテゴリーエラーと考える。本書では、ナショナリズムを再定義し、過去の事例を紐解きながら、ナショナリズムとその成立の原因となる時代や人間の習性についてみていく。

〈論旨の展開〉

〈Ⅰ 序〉
〈Ⅱ 文化的根源〉
〈Ⅲ 国民意識の起源〉
〈Ⅳ クレオールの先駆者たち〉
〈Ⅴ 古い言語、新しいモデル〉
〈Ⅵ 公定ナショナリズムと帝国主義〉
〈Ⅶ 最後の波〉 ※改訂による増補なので今回はパス
〈Ⅷ 愛国心と人権主義〉
〈Ⅸ 歴史の天使〉
〈Ⅹ 人口調査、地図、博物館〉 ※改訂による増補なので今回はパス
〈Ⅺ 記憶と忘却〉

本書の論旨の構成は大きく3つに分けられると考えられる。
①問題提起と仮説の提示─第1章
②仮説を用いた過去事例の考察─第2-7章
③仮説の検証を通じて得られた重要な概念の提示─第8章-第11章

〈Ⅰ 序〉

1-1

ナショナリズムが現代の世界に及ぼしてきた影響力とは対照的に、ナショナリズムに関する理論は貧しい。本書の目的は、この食い違いに対して満足のいく解釈を与える事である。
本書の理論的出発点は「ナショナリティ、ナショナリズムはともに、特殊な文化的人造物である」ということにある。そしてそれが如何にして、人々に対して深い愛着を与えるかに至ったかを論じていく。

1-2概念の定義

ナショナリズムに関するパラドックスは、ナショナリズムを種々のイデオロギーの同類として扱う事により発生している。本書では、国民を宗教や親族などの同類として捉え、それを「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体」と定義する。「国民がイメージとして心の中に想像される」とは、国民同士がお互いを認知できないにも関わらず、お互い一つの共同体の構成員として認識していることに由来している。

〈Ⅱ 文化的根源〉

2-1

ナショナリズム台頭の時代は、宗教的思考様式の衰退の時代でもあった。宗教的思考様式が担えなくなった文化的な役割を補うように台頭したのがナショナリズムであった。この点から、ナショナリズムを論ずるにあたっては、イデオロギーと同列に語るのではなく、ナショナリズムに先行して存在していた文化システムと比較して理解されるべきであり、そのシステムを代表するものとして宗教的共同体と王国の二つが挙げられる。

2-2宗教共同体

宗教共同体には2つの特徴がある。

①聖なる言語
宗教的共同体は、聖なる言語によって想像可能となる。この共同体は、その言語の神聖性に揺るぎない自信を持っており、この言語を習得した者をもれなく共同体の成員と見なした。

②求心・階序的
実際の所、聖なる言語を理解できたのは、一部の人々だけであったため、多くの成員はこれらの人々から教えを受けていた。このため、宗教的共同体は神を中心として階層的な構造となっていた。 

2-3王国

王国にも2つの特徴がある。

①中心
王権はすべてを、王を中心に組織する。その正当性は、神に由来し、住民に由来していない。

②血統
王権は、ハスプブルク家に代表されるように、王朝同士の結婚を維新の源としていた。

宗教と同様に、この王権のシステムも徐々に衰退していき、次第に国民的なものが優勢となりつつあった。

2-4時間の了解

ナショナリズムを理解する上で、時間感覚の変化についても比較理解する必要がある。ナショナリズム以前の時間感覚(=メシア時間)は、現在において、過去と未来を等しいものとして捉えるものである。それに対しナショナリズム以後の時間感覚(=均質で空虚な時間)は、過去と現在を分離し、歴史を原因と結果の連鎖と考えるものである。そこでは、同時刻に複数の主体が関わり合うことなく行動する様を想像することが出来る。

2まとめ

古来の三つの文化概念が人々の精神を支配していた。
1.特定の聖典だけが真理に近づく手段を提供する
2.社会が、中央の下で、そのまわりに組織されている
3.宇宙論と歴史は区別不能であり、世界と人の起源は本質的に同一である
これらは日常に一定の意味を付与し救済を提供した。しかし、これらが人々の精神を支配できなくなった時、ナショナリズムの可能性が生まれた。そしてここで大きな役割を果たしたのが出版資本主義である。

〈Ⅲ 国民意識の起源〉

書籍出版は、資本主義の市場追及の衝動に突き動かされていた。その初期市場はラテン語圏だったが、すぐに飽和し他言語への拡大が望まれた。3つの外的要因がこの傾向を加速させた。
①古典文芸復興により、ラテン語が秘儀的になり日常から離れた
②宗教改革により、プロテスタントが俗語市場を創出した
③王権がその行政執行に俗語を使い始めた

以上から、ラテン語、そしてそれを聖なる言語とする宗教共同体が衰退し、新たな共同体が入り込む素地が作られた。
出版時代以前の欧州には口語が多数あったが、それぞれの規模は小さかった。そのため資本主義は、類似の口語をまとめた出版語を作り、大きな市場を創造した。そして、この出版語が国民意識の基礎を築いた。

①出版語に結び付けられた大きな読者集団を形成し、国民的共同体の胚となった
②出版語が言語を固定化し、変化進度を鈍化させることで、旧さのイメージを付与した
③出版語に近いか遠いかによって、言語の政治的文化的な地位に差が生まれた

〈Ⅳ クレオールの先駆者たち〉

ナショナリズムに関して2つの定説がある。

定説① ナショナリズムと言語は不可分
定説② ナショナリズムと下層階級の政治的洗礼は不可分

しかし、ナショナリズムが先駆けて起こった新大陸においては、その言語はヨーロッパのものであり、独立運動を主導したのは、現地の上流階級であった。つまり定説は当てはまらない。ナショナリズムを考察するにあたり、この例外を検証することは不可避である。

新大陸に国民の観念が生まれた要因を考えるうえで重要な事実が、新大陸の国々がそれぞれ独立以前は行政単位であったという事が挙げられる。この事実から、国民の観念の発達を促した2つの要因が導かれる。

①クレオール役人
クレオール人は、本国人と同様の素性であったがために、本国に抵抗しうる脅威とみなされた。そのためクレオール役人の異動・昇進は、新大陸の行政単位内に限られた。本国人と同じでありながら新大陸に生まれただけのために、新大陸を出られないという不条理が、クレオール役人に共同体の意識を生み出した。

②出版
18世紀、新大陸では出版業者が新たなる収益源として新聞を発行し始めた。郵送の観点から、新聞と行政は同盟関係にあり、場合によっては同一のものであった場合もある。そのため新聞に書かれるニュースは、行政単位内におけるものが多くなり、読者は自ずと行政単位を範囲とした共同体を想像することとなった。 

〈Ⅴ 古い言語、新しいモデル〉

新大陸の国民解放運動時代の終わりは、ヨーロッパのナショナリズム時代の始まりであった。ヨーロッパのナショナリズムには、アメリカと比べて2つの異なる点が存在している。

①言語が争点となった
②アメリカおよびフランス革命という先例をモデルと出来た

ヨーロッパの勢力圏の拡大による異文化との遭遇、そして人文主義者による古典の発掘により、それまで絶対と思われていたヨーロッパ文化が相対化された。結果として、ヨーロッパも含めた、世界の様々な言語が研究された。これらの研究内容は市場を通じて、読者階級─当時の支配階級や、新たに勃興しつつあったブルジョワジーに供給された。そしてブルジョワジーは俗語の普及により、想像の連帯を達成した。

フランス革命は、一つの統率の取れた運動ではなかったが、一度フランス革命という名を得ると、出版を通じて一つの「概念」へと整形され一つのモデルとなった。ヨーロッパのナショナリズム時代には、この「モデル」は周知の事実となり、一定の「規格」が要求されることとなり逸脱が許されなくなっていた。かくしてヨーロッパ・ナショナリズムは、モデル元であったアメリカのものよりもはるかに深いものとなっていた。

そしてモデルを変化(=海賊版の作成)させ、ナショナリズムを牽引していったのが、先に挙げたブルジョワジーが代表するような、俗語によってはじめて想像された連合であった。

〈Ⅵ 公定ナショナリズムと帝国主義〉

国家としての正当性を国民に拠っていなかった王朝は、ナショナリズムの高まりに対して対応を余儀なくされた。結果として、これら王朝は、ヨーロッパのナショナリズムを翻案して、公定ナショナリズムをつくり出した。

公定ナショナリズムとは、ナショナリズムを王権の正当化のために利用することで生まれた。まず、君主が特定の国民的共同体へ帰化し、国民的共同体の一員となるとともに、国家語に俗語を採用した。これにより、王権と国民的共同体を溶接するとともに、初等義務教育、宣伝活動、国史の編纂などにより、国民にその正当性を教え込む。公定ナショナリズムとはこれらにより、国民共同体に対して王権に正統性がある様に感じさせる施策の事である。

〈Ⅶ 最後の波〉

今回は割愛

〈Ⅷ 愛国心と人権主義〉

これまでの章では、国民が想像され、そのモデルが翻案改変されていった過程を描いてきたが、それは国民という概念が人々に愛着をもたらす理由を説明するものではない。
この愛着は、国民とその言語が持つ歴史的宿命性、そしてその宿命を受け入れることで生まれる道義的崇高さに由来する。

いかなる言語も、その誕生がいつなのかを知ることは出来ない。この点において言語は時間を超越している。現代に残された何百年前もの言葉を聞けば、我々は同じ言葉を話した死者とのつながりを感じることが出来る。現代の人間に対しては当然のことである。言語はこうして、同じ言語を使う者たちを想像させることで、時間を超えた共同体=国民の感覚を与えることが出来る。

人が自ら選んでいないもののために死ぬという事は、道義的崇高さを帯びている。母語もまた自ら選んで修得できるものではない。そして母語が想起させる、時間と空間を超えた他者とのつながりは、我々が命をかけられるに十分な強度を持っている。

これらの理由により、国民という存在は、多くの人々に愛着をもたらしうるものとなっている。

〈Ⅸ 歴史の天使〉

本書で取り上げてきたナショナリズムという概念は、アメリカそしてフランスの事例を一つの「モデュール」として、それを時代、政治体制、経済、社会体制に応じて調整と適応を繰り返すことで、あらゆる社会に普及してきた。
公定ナショナリズムにいたっては、革命家たちが国家権力を掌握し、国家権力を行使しようとした際に利用されてすらいる。

先に述べた通り、ナショナリズムはその他の政治的なイデオロギー(マルクス主義など)と同列に語られるべきものではない。そういったフィクションを捨て去り、ナショナリズムが特殊な文化的人造物であるという事を認識したうえで過去の経験を学ばなければならない。

〈Ⅹ 人口調査、地図、博物館〉

今回は割愛

〈Ⅺ 記憶と忘却〉

11-1新空間と旧空間

南北アメリカにおいて、地名に新がつく土地(ニュー・ヨーク、ヌーヴェル・オルレアン、ノヴァ・リスボア、ニュー・アムステルダム)が多く存在している。これ自体は珍しくない事だが、新大陸において特筆すべき点は、新旧の地名が同時に存在していたことである。これは、多くの人間が自分たちの事を、われわれは他の多くの集団の人々と平行して生活していると考えるようになった時に初めて成立した。

この様な二重性は、ナショナリズムが旧世界ではなく新世界にまず現れたのかを説明することが出来る。そしてこれはまた、独立戦争の特徴も明らかにする。

独立戦争の特徴とは以下の2点である。

①革命家たちは、新旧の継承や転覆などではなく、並存を意図していた点。
②革命があくまで親族同士のものであり、後に友好的関係を築けている点。

11-2新時代と旧時代

先に挙げた並存の感覚は、時間の感覚の変容によって可能となった。18世紀後半、時計が広く普及し、人間はあらゆるものを人間の作った時間で計測するようになり、これが大洋を超えて同時に存在する対を了解可能なものとした。こうした時間感覚の変容は、一方で社会的因果関係を現世内的、連続的に見ることも可能にした。こうして歴史学が想像された。

この結果として、新大陸においては、それまでの時代と隔絶した新しいものとして理解されていたナショナリズムは、ヨーロッパにおいては系列的連続性の歴史的伝統を表現するものとして読まれるようになった。ナショナリズムは、ヨーロッパ諸国が持つ長い歴史がもたらしたものとして理解されるようになったのである。そして、現在と過去をつなげる役割を果たしたのが言語であった。

ヨーロッパにおけるナショナリズムの解釈は、アメリカにも影響を与えた。ただ、アメリカではこれはうまく適応できない。新大陸における言語はヨーロッパのものであり、言語を媒介として共同体を想像すると、逆にその正当性を失いかねないからである。これにとって代わった方法が、死者に代わって語るという方法である。死者に代わって話すとは、新大陸の先住民(インディアンなど)との出来事を掘り起こし再解釈することで、自分たちの歴史と接続させることである。これにより現地主義が生まれる事となった。

11-3兄弟殺しの安心

死者に代わり語るにあたり、忘却という行為が必要不可欠である。他者の歴史に自らを接続しようとするとき、他者の歴史を詳細に覚えていては、接続作業が難しくなってしまうためである。死者に代わって話すためには、過去の出来事を都合よく忘却し、記憶する必要があるのである。例えばアメリカ南北戦争は兄弟殺しとして記憶/忘却させられているが、これは南北がそれぞれ独立してしまっていたら、同様に語られえただろうか。19世紀、同胞愛はこのように想像された。これは国家官僚の手によるものではなくごく自然に現れてきたものである。

11-4国民の伝記

こうして忘却の中から物語が生まれる。

例えば赤ん坊の写真を見たとき、それを自分と判別するには、記録や他者の助けが必要である。こうした記録は、我々には失われた記憶があるという事を示すものであり、失われた記憶と自らのもつ記憶を整合させるために、アイデンティティの概念が生まれ、そしてそれは物語として語られるほかないのである。

国民もこれと同様である。国民に関する多くの記憶は失われており、その結果アイデンティティという概念が必要とされる。ただ、国民それ自体には明確な始まりや終わりは存在しない。唯一の選択肢は、アーサー王や北京原人の様に、過去に存在したとされる人物へと遡り伝記を作ることである。そしてこの伝記には死も記録される。この死は、暗殺や戦死など劇的な死である。ただ、この死が、国民にとって我々の物語として認識されるためには、その暴力性は忘却されなければならない。

〈担当者による解説〉

本書は1983年に初版が刊行され、刊行後まもなくして古典扱いを受けるほどの話題となった。現代のナショナリズム研究において必読の書のひとつと言ってもよいかもしれない。
古典扱いを受けるほどであるから、本書の内容は当時においては革新的であり、既存の研究の延長線上にはなかったという事である。そのため、本書の議論は既存研究の内容を展開させて新しい論を提示するのではなく、はじめに一つの仮説を提示し、その仮説を過去の事例に当てはめ、その仮説の妥当性を検証していくスタイルを取っている。
全体として試論的な意味合い強く、最初に提示した仮説以外にも、議論を補強するため多くの仮説が登場する。そのため全体として、議論の展開がわかりにくいように思われる。

本書の議論や中心となるアイデアをここで今一度整理したいと思う。

本書を書いた筆者の意図の一つが、「ナショナリズムの起源が新大陸にあると強調すること(P.12-13)」であった。基本的に本書はこの結論を導き出すように文章が組み立てられている。余談ではあるが、筆者のこの主張は余り重要視されなかったようである。この理由は不明であるが、おそらくは本書の構成がわかりにくく、また筆者がこの主張を本文上であまり主張しなかったことが大きいと思われる。

この結論に至るために筆者が用いた仮説/概念は、おそらく以下の4つである。
・想像の共同体
・人間の生の偶然性への応答
・モデュール/海賊版
・記憶/忘却

・想像の共同体
まず本書の中核をなす仮説は「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」というものである。想像の共同体とは、共同体の構成員がそれぞれお互いを知らずとも、お互いを共同体の構成員として認識できることに由来している。つまり、想像力によって共同体が構成されているという意味である。例えば、海外で日本人に会った時の安心感─見知らぬはずのお互いを、了解可能な存在として認識してしまう様な事を想像すればわかりやすいだろう。そして、見知らぬお互いを共同体の構成員として認識するためには、想像を媒介するメディアが必要である、というのも本書の中核をなす仮説である。

この仮説にのっとって過去の様々な共同体の事例を考察していくのが2章から7章までの主な内容である。ここに書かれているのは、どのようなメディアが存在し、それがどのように共同体を構成するに至ったかという視点で読み解いていくと話が分かりやすい。なお本書ではナショナリズムの形成方法によってナショナリズムをいくつかのパターンに分けている。以下は各章に登場する共同体とそのメディアである。

§2 宗教共同体 ─聖典
§2 王国 ─血統
§4 新大陸ナショナリズム ─行政単位(役人、新聞)
§5 旧大陸ナショナリズム ─俗語 ※ブルジョワジーによる
§6 公定ナショナリズム ─俗語 ※王権による
(§7 植民地ナショナリズム ─現地語、教育単位、衛星放送)

本書の指摘から導き出される結論の中で重要なもののひとつとして考えられるのが、ほとんどの共同体が想像の共同体であるという事である。言われてみれば当たり前だが、我々が所属する共同体の中で、お互いが全員顔見知りであるというものの方が珍しいのである。そこには何らかの想像力が働いていることは自明である。

・人間の生の偶然性への応答
この指摘を妥当なものとして考えると、想像の共同体には構成員を多く惹きつける物とそうでないものがあるという事実が導き出される。ナショナリズムや宗教の様に、多くの人間を進んで戦争に向かわせるものもあれば、すぐに消えてなくなってしまう様な共同体もある。いかにしてこの違いは生まれるのだろうか。

この疑問に答えるのが、第2章の序章の議論である。

「人の死に方が普通偶然に左右されるものとすれば、人がやがては死ぬという事は逃れようのない定めである。人間の生はそうした偶然と必然の組み合わせに満ちている。(中略)。伝統的な宗教的世界観の偉大な功績~(中略)~それは、これらの宗教的世界観が、(中略)生の偶然性に関わってきたことにあった。仏教、キリスト教、あるいはイスラムが、(中略)数千年にわたって生き続けてきたこと、このことは、これらの宗教が、(中略)人間の苦しみの圧倒的重荷に対し、想像力に満ちた応答を行ってきたことを証明している。(P.33)」

宗教的共同体が現在においても強い求心力を持つのは、この理由による。宗教的共同体と同じように、ナショナリズムも同様に人間の死に対して応答を行えるものであるというのが、筆者の重要な主張の一つである。そしてこの主張において重要な役割を果たすのが言語である。この議論については、第8章の要約のとおりである。言語がもたらす時間を超えた他者とのつながりが、死に対する応答に相当するというものである。

・記憶/忘却
するとここでまた一つの疑問が生じる。新大陸で使用される言語は英語、スペイン語など旧大陸の言語であるという点である。これに応えるのが11章の議論で取り上げられる、死者に代わって話すである。そして死者に代わって話すために必要となるのが記憶と忘却である。詳細は先の要約による。
言い方は悪いが、記憶/忘却とは言ってしまえば、過去の出来事うまい具合につなぎ合わせて、時間を超越した国民の起源のストーリーをつくり出す行為と言ってしまえばいいだろうか。

記憶/忘却により、新大陸で生まれたナショナリズムは、後発ながらもより強固な基盤を持つ旧大陸のナショナリズムに対抗しうる強度を得たのである。

・モデュール/海賊版
そして、筆者の主張である「ナショナリズムの起源が新大陸にあると強調すること」に必要なのが、本書で事あるごとに登場し、9章で大きく取り上げられた「モデュール」と「海賊版」である。これは、ある行為や概念が一つのお手本=「モデュール」となり、それらを模倣した「海賊版」が作られることで、ある行為や概念が変化しながら拡散していく様を指した概念である。

筆者はこの概念を用いることで、新大陸や旧大陸、第三世界などで発生したナショナリズムが、個別に発生した事象ではなく、連続した一連の事象であったことを示そうとした。そして、その始まりにいるのが新大陸であり、その新大陸においてナショナリズムを生み出す要因となったのが「出版資本主義」と「巡礼」なのである。

本書の大まかな流れは以上のような形になる。

本質的に人間は「想像の共同体」を作るものであり、新大陸に偶然生まれたナショナリズムが、モデュール化し海賊版が作られる事により世界に拡がっていき、結果として世界中の想像の共同体の多くが、ナショナリズムの海賊版によるものとなってしまった、というのが本書のもっとも主たる主張であろう。

〈感想・批判〉

まず、本書は主要な議論において、ナショナリズムを推奨していないという点は注意したい。肯定的に捉えているようには見えるが、それは筆者が、ナショナリズムがこれまでの議論において、適切な評価を受けていないと考えているためである。筆者は、ナショナリズムが政治的イデオロギーを超えた存在だと考えており、より適切なフレームワークにおいて理解したいと考えている。

本書が提示しているのは、そもそも人間が人生の不条理を受け入れるために、何らかの信仰物を求めているという事であり、そこにたまたまナショナリズムが合致したという事であろう。あくまでここにはナショナリズムに対する価値判断は含まれていない。ナショナリズムは善悪以前に時代の人々のニーズに合致していたのであり、その事実を受け止めなければ、建設的な議論は不可能であるというのが筆者の主張の一つである。かつては(そして一部では今も)その座を宗教や王国が占めていたのであり、現在その大半はナショナリズムが占めているのである。これが今後も続くのか、それともまた海賊版のナショナリズムが取って代わるのか、はたまた全く別の概念が取って代わるのかは筆者の言及するところではない。

先にも書いた通り、本書は試論的な意味合いが強く、本書の内容のみを以て、その妥当性を検証することに、どの程度意味があるのかはわからない。専門知識を持たない一読者とっては、適切な批判を加えること自体が難しいと言わざるを得ないのが正直なところである。

知識がないためどこからどこまでが筆者の仮定で、どこからどこまでが学問的定説なのかもわからないところではあるが、読んだ所感としては仮定に仮定を重ねている様な感じはぬぐえなかった。他の人の要約や批判を読んでみると、着目しているポイントが人によって様々であったので、おそらく筆者が創造した新たな仮定が多いという事であろう。
ただ人文学におけるエポックな文書というのは、そもそもこういうものなのだろうとも思わないでもない。

さて、本書選定のきっかけとなった、村という共同体について少し考えてみたい。本書によればほぼ全ての共同体は、想像の共同体という事になる。これは村という共同体においても同様である。異なるのは共同体を媒介するメディアの違いであろう。

物理的に村を形づくっているのは隣の自治体との境界線であるが、我々の心中において村を村たらしめているのは何だろうか。冷静に考えて、この村を村として体感できている人間はいないと思われる。住んでいる場所の住所こそ村だが、実際の生活において村の境界線が大きな意味を持つようなことはあまり考えられない。買い物は隣の自治体に行くし、遊びに行くのも他の自治体、境界線は単なる地図上の線で、その線のあちらとこちらで何か違いを感覚することは無いといった具合である。

多くの人が、村という枠組みを実感するのは、防災無線や広報誌、水道の料金、(学校で教育を受けた人は)学校などで、行政が村の単位を強調するパターンが多かろう。トートロジーではあるが、村が村を村たらしめているのである。
もともと自治体は何らかの経緯があって、その境界線が形作られているものではあるが、その経緯を知らない人間にとっては、行政区は行政が発行する種々のメディアによって形づくられている。逆に郷土史などを学んだことのある人間にとっては、村という単位は、心の中に異なった実感を持って現れてくるものなのかもしれない。

筆者は本書の中において、想像という言葉は決して、虚構やまやかしと言ったネガティブなモノではなく、むしろポジティブなものであると言っている。実際に存在しないものだとしても、それを想像することで人の行動がポジティブな方向に変わるのならば、それはポジティブなモノであろう。しかし逆もまたしかりである。

個人的には、この本の内容が、本の選定理由にかなうかと言われれば微妙であった。本書の内容をもって、地域の共同体を相対化するというのは些かスケールが違い過ぎて無謀だったようである。もう少し違った側面からも検証してみる必要がありそうである。
ただ近年、情報に関わる技術は格段に進歩しており、これは新たな共同体が生まれるチャンスになるかもしれない。地域の共同体が相対化されるのはむしろ、技術の進歩により更に異なる共同体が生まれたときなのかもしれない。

〈以上要約〉

ヘッダ画像はゼミの始まる前に食べたおやつの画像です。
(例によって写真を撮り忘れるという……)

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