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意識について 2024年版 下

はじめに

今回は、上編と中編を踏まえます。
未読の場合にわからない場合がございます。
文献を参照して説明している内容以外は未検証です。
ご承知おきください。

意識が生じる条件の探索

以上のように、さまざまな記憶の可能性について考察しましたが、これらの記憶からどのように意識が構成されるかが(も)問題です。
物理事象ということからすると、変分原理から説明できることが望ましいと思われます。
何に対してその原理が働き、どうしてそれを最小化させる必要があるのか、はっきりさせる必要があります

神経細胞に残る偏差は、その神経細胞がどのような内容を受け取るかにより、記憶の明晰さが変わってくると考えました。
例えば、特定の偏った受容器から受け取り、内容も特定の内容に偏るような信号ばかりを受け取る神経細胞の場合、偏差の特徴が累積させていき記憶が明晰になっていきます。
これは受容器固有の質感が保たれている状態といえます。
こうした神経細胞を記憶付き分類器と命名することにします。

一方、あらゆる受容器から、あらゆる内容の偏差を受け取る神経細胞の場合、偏差の特徴が他の偏差の影響を受けて滲み、記憶がぼんやりと広がりを持って、曖昧になりやすいと考えられます。
これは受容器固有の質感が保たれていない状態といえます。
ただし質感は保たれないものの、偏差における相対的な方向や長さは、汎用化された中でも形成され得るものと捉えます。
こうした神経細胞を汎用器と命名することにします。

分類器は特定の受容器の受容野やその近辺で形成されると考えられます。
汎用器はそうした分類器から後方に位置づく、つまり、入力から遠い場所の神経細胞で見つかるものと考えられます。

他にも器の分類があります。
先のふたつの器と、以前から定義されている受容器や効果器を含め、以下にまとめます。
受容器や効果器以外は、この記事における造語です。

器の種類とその特徴

これらの神経関連の器官を組み合わせて、どのように思考し行動するのか考察する中で、意識が働く部分を絞り込んでいきます。
以下にこれら器官の組み合わせと働きを概略的に示した図を用意しました。
こちらを使って説明してみます。

各器が連携して機能する概略図

①の受容器で信号を受け取り、それらが脳の受容野に渡され特徴ごとの経路に細分化されます。
この時、受容期間に応じた差分(方角と長さについてはどの場合も)に応答しやすい細胞群に渡されます。
②それら差分を記録した細胞群から、それらを時間的や空間的に組み合わせる神経細胞の繋がりの記録、意識される内容としての記録も、この中で階層構造を成して構成されると考えられます。
これらが分類器として機能します。
③分類器の経路の先には、特定の傾向を持つもの同士を一つの塊に見なすような神経細胞群や、それらのある塊から別塊への変遷を記録するような神経細胞の繋がりも現れ、これら抽象的な変遷を記録することになって、汎用的な振る舞いを示す構造が現れると考えられます。
これらを汎用器としています。
汎用器では、受容器固有の質感の偏差はさまざまな経路からの影響もありぼんやりとしていますが、接続し合う神経細胞間の相対的な方角や長さの差分の関係については、尖っているかも知れません。
④そうした汎用的な回路の中には、生活する上で優先すべき目標と、既知の経験から得られた良し悪しの評価を、神経細胞の繋がりとして記録してものも出来上がると考えられます。
これらが評価器になります。
⑤目標器は、最終目標から、そこへ至るまでの小さな目標の階層構造を成します。
(1)掲げられる目標は評価器で「良い」としたものを目標にする場合もあれば、「悪い」としたものを避ける目標もあると考えられます。
これらは、組み替えしやすい神経細胞の繋がり方、つまり記録の強弱を調整することで実現していると思われます。
優先順位は、遺伝的に比較的古い脳の部位や、比較的新しい汎用器との連動の双方からの影響を受け決めていると推測します。
そのためこの調整自体は無意識に行われることの方が多いのではないかと思われますが、今意識している影響を全く受けないわけでも無いと思われます。
これは何に注意を向けるかという仕組みを提供しています。この注意を向けている時、他の目標は一時的に忘れられます。
しかし例えば急な腹痛のようなことが起きると、この優先順位は無意識に組み替えられ、腹痛の対処に注意が振り替えられます。
⑥検索器は目標を達成するため、汎用器から大まかな流れを探します。
(2-1)当面の目標と目標達成の経路がすでに効果器の記録に揃っていれば、効果器が体を駆動させて目標を達成します。
この時意識は伴いません。
(2-2)反対に、目標が達成できない時、簡単な組み換えから複雑な組み換えへずらしていきながら検索器が活動を続けます。
(3)検索器は、目標達成のための手段を見つけるため、より具体的に神経回路の組み替えを、これまた過去に組み立てられた神経回路の記録を使いながら行います。
(4)この時、汎用器に蓄えられた論理の記録が活用され、分類器に蓄えられた具体的な形、形から形への順序性も参照されます。
記憶が溜められた分類器への経路が参照されると、過去の記憶が呼び起こされ、意識に上るようになると考えられます。
これはネド・ブロックさんが言うところのアクセス意識になります。
受容器からそのまま流し込まれて注意している対象に紛れ込んでしまったような記憶は現象意識となります。

既知の記録の経路からすぐに評価の高い手順を見つけられれば良いですが、見つからない場合、推測や創造の段階に入ります。
つまり、今までに見出せなかった組み合わせを、試し、記憶し、仮に評価するという段階に入ります。
(5)目標達成のための初期条件が見つかると、あらかじめ検索器で見つけていた手段のうち効率が良いを選びます。
(6)操作器を介して行動します。

図の説明は以上ですが、この意識が生じているであろう「今までに見出せなかった組み合わせを、試し、記憶し、仮に評価するという段階」に着目して話を続けます。
この推測や想像の段階では、新しい経路の構築、つまり記録が伴います。

脳における記録は、神経細胞が発火した時に次のどの神経細胞にそれを伝えるかを決める神経細胞間同士の接続仕方に蓄えられています。
これはどのように信号を流すか、流れ方を決めていると言えます。
ややこしいことに、経路があることと、信号が繋がることは、同義ではありません
どんなタイミングで複数の信号がその神経細胞に流れてきたかで、信号を後続に流すか、流さないかが決まります。

そのため後続の神経細胞に流すようにするために、タイミングをガイドする仕組みも必要になります。このタイミングの調整も、目標器、汎用器、検索器が担っていると考えられます。

過去の記録の経路に基づき、あるいは、推測や想像のために新たに構築した経路に基づき、評価器で評価するが、妥当な組み合わせが見つかるまで検索器は活動を続けます。
(評価が厳しい人も軽い人もいましょうが、それは個人の経験から構築された、目標器、汎用器、検索器の経路の違いから生じるのでしょう)

検索器で見出された経路は繰り返し利用されると、意識を伴わなくなり、効果器に取り込まれていきます。
このように、神経細胞の経路は、経験を通じて役割を変えていくとも考えられます。
分類器、汎用器、検索器、効果器はリソースを取り合う形で形成され、その初期において、決まった脳内の場所や形である必要性はないかもしれません。

目標器や検索器の働きを介し、注意が働いて生じる意識はアクセス意識と考えます。
注意の対象ではないものの、受容器から流れ込む偏差の集合が混入し現象意識になると考えます。

  • 補足
    検索器が検索するきっかけ自体が、目標器の駆動であり、無意識の部分であるため、すべては無意識な働きがきっかけになっていると言えます。
    目標が単純で、十分学習済みの場合、効果器で対処可能であり、この場合も無意識に対処されてしまいます。
    自由意志など無いと言われても仕方ない状態です。

検索器が積極的に機能している時に意識が働きそうではありますが、結局その中の何が原因で意識が生じるのでしょうか。
一番知りたいことではあるものの、これが決定的な理由だというのは思いついていません。
いくつか候補はあります。

ひとつの候補は、偏差の明晰さが増す方向性が現れることです。

検索でさまざまな経路を活性化させる方向性に対し、あり得ない選択肢や評価が悪くなる選択肢が削られていきます。
集まってきている偏差としては、限られた経路になっていくと考えられ、回路を流れる偏差の明晰さが増す方向に進むと考えられます。

もうひとつの候補は、検索器が一時的に記憶するとき、経路を集約させる必要性があることです。

目標達成のための複数の手段と評価を、短期的に記録して比較する必要があるため、神経回路の経路を一時的に編集する必要があります。
この経路の編集では、検索器で循環している信号自体のエネルギーの流れと、神経細胞の接続性を変化させるエネルギーの流れが噛み合う形になっていると考えられます。
この循環するエネルギーは、神経細胞に内蔵された電磁エネルギー循環構造とは別であり、神経回路網のエネルギー循環構造と言えます。
そして神経回路網のエネルギー循環構造は化学反応を通じて経路の記録も構築すると考えられます。
また、神経回路網で循環している信号は、そこへ至るまでの検索で参照した時系列に沿った各種の記憶としての偏差が混入してきます。
その中には、無意識に駆動している部分や汎用器からの供給される偏差もあり、質感はないが位置と方向だけの偏差が大量にあると考えられます。
この中に自分自身の位置を表す偏差も混入すると考えられます。
こうした中で、記憶するために特定の絞り込んだ経路を形成する際、神経回路網のエネルギー循環構造において、記録回路に集約させるような状況が生じると考えられます。
このとき、一過性の電磁ポテンシャルはより狭い範囲に絞り込まれ、偏差を刻める種類や範囲といった自由度も狭められると考えられます。
この狭まる中で制約条件が生まれます。
偏差の内容を効果的に並べて収まり良くするために、偏差を圧縮して整列させるという要請です。
この要請を達成するために変分原理が働き、「質感に関わる偏差と、その質感を発した場所を特定する偏差(=方角と長さの)集合」において、方角と長さは最短となる位置(方角と長さ)に換算され、質感は、そこを占める最大確度の範囲を埋めるよう配置されると考えます。
そもそも偏差が集まる段階で、この要請が常に働くのかもしれませんが、少なくともその特定の経路に記憶として残すための必要十分な整理が求められています

今一つは、検索の検索に、時間的に遡る作用が働き得ることです。

検索器が検索する際、今の状態から先へと進める候補を探る一方で、目標からそれを達成するためのステップを遡るように、つまり神経細胞の記録としての経路も辿るように活動している可能性があります。
このとき、受容器からの流れを順行とするならば、この検索は逆行に相当すると考えられます。
この逆行性の信号が検索器からの作用で増えると、方角と長さの側面で時間的に逆行させる作用も増すのかもしれません。
受容器から神経回路網をめぐる間に、広がる方向性を持っていた方角と長さのそれが、この作用により時間的に遡るような作用を副次的に生み出し、偏差の集合も遡らされるのかもしれません。

最後の候補は、受容器での化学変化は主に光量子というマイナス電荷由来の事象であることに対し、神経細胞を流れる信号がプラス電荷のイオンが担う点です。

電荷を持った粒子は、ミクロな空間(または見えない次元の空間)で定常的に起こしているであろう何らかの運動を伴っていると考えられます。
陽子と電子は互いにくっつかないのは、この運動がくっつかせない理由を作っており、電荷が逆なので、何かが逆向きなのです。
こうした粒子の運動が、電磁ポテンシャルに特徴を持たせていると考えられ、化合物になれば電磁ポテンシャル循環構造も特徴づけると考えました。
受容器で取り込まれる偏差の元の事象は化学反応や電磁気であり、光量子由来の作用と考えられます。
つまりマイナス電荷の要素由来の電磁ポテンシャル上の偏差を生み出します。
これに対して神経細胞を流れる時の電磁作用は、プラス電荷のイオンが担う形になっており、プラス電荷由来の電磁ポテンシャルとなります。
この逆向きである電荷由来の電磁ポテンシャルということから、何かが逆向きになると考えられ、これが受容器や受容器以前の電磁作用へ、偏差の位置を推測させるような遡上の作用を生み出している可能性もあります。

これら、明晰さの向上、経路の集約、時間の遡り、作用する電荷が逆の全てが影響しているのか、どれかだけで良いのか、ここにはない他の条件なのか、わからないところではありますが、こうした作用を受け、以下のように偏差が整理されると考えています。

配置の手順を記すと、以下のようになるかと思います。
[1] 偏差の中で最も距離が短くなる対象が意識の中心の役割を担います
(これは「自分自身」を表す神経細胞群の位置の偏差が最小になると思われ、これが中心になると考えられます)
[2] 記憶の方角と長さを最短に換算し、中心から外に向かって配置します
(方角や長さに対し、周囲に配置される他の記憶と比べて最適となる形や大きさがここで決まります)
[3] ある程度変化する中では、②が逐次適応され、最も小さい調整サイクルで更新されます
[4] これらの位置と範囲に、対応する質感を塗りつぶします
この手順は瞬時に働きます。

視覚や聴覚で受容した記憶の場合、受容器に到達する前の距離もこれら偏差に含まれるようです。
距離に関する偏差は、電磁作用の根幹をなしているのでしょう

質感については、あくまで受容器で生成された偏差であり、受容器が取り得る物理変化に依存して質感も決まると考えられます。

[4]の塗りつぶしは、位置と距離はぼんやりとした範囲を表しています。
全ての偏差を配置したときに、近隣の関係性からどの範囲なら確定しているかから、決められていくのかもしれません。
物質はほとんどが隙間になっていると理論的には理解されていますが、意識される時は塗りつぶされて見えたり、ぼんやり広がっていたりすることからも、こうした仕組みになっているのでは無いかと考えます。
つまり、意識している時点でもあくまで可能性であり、確定はしていないが、不確定要素を最大限削った結果として認識される(だから塗りつぶされたように見えている)ということと考えています。

  • 補足
    錯覚として、停止しているはずの図形が動いているように意識できることがあります。
    図形や絵柄に隠された差の持たせ方が、動きを記憶した神経回路の経路に信号を流してしまい、結果動きを感じているのかもしれません。

最後に、今回説明してきた以下の視点と、前回説明した「磁気側が電気側を推測する」の説明と整合させます。

・神経細胞にも電磁エネルギー循環構造がある
・電磁エネルギー循環構造に刻まれる偏差はいずれも、量子未満の偏差であり光量子を使った観測では区別できない
・神経細胞を流れる信号は、一過性の電磁ポテンシャルであり、電磁エネルギー循環構造と相互作用する
・質感を表す偏差と経過分の位置の偏差が統合されて意識の内容が定まるが、その並べ方も電磁作用上最短の距離に換算されて配置される(但し1点に決まらず、最大限不確実な可能性を減らした範囲にきまる)と考えられる

前回と今回の話を整合させる

前回の内容を要点ごとにおさらいしつつ、今回の話題との関係を説明します。

意識が磁気側であるとする部分

(前回)
脳を物理的に観測するだけでは、意識の内容を再現できません。
AIを駆使した推定の研究が進んでいますが、いずれにせよ意識の内容は、直接観測できない何かのようです。
磁気は予てより見えない事象であり、意識と対応づけられる有力な候補と考えました。

(今回の考察)
小さい現象だから見えないという考え方もあります。
磁気側と言っていたところを電磁作用に改め、さらに光量子よりも小さいスケールに刻まれているとしています。

その磁気側から電気側を推測した結果が意識であるとする部分

(前回)
我々が意識としていることは、磁気側から電気側を推測している結果ではないかと前回提起しました。

(今回の考察)
磁気側という言い方はしておらず、電磁エネルギー循環構造や、電磁ポテンシャルという言い方をしています。
電磁を区別しない見方に改めていますので、磁気側から電気側を推測しているという言い方は適切ではありません。
脳が何らかの働きをした時の副産物として意識が生じているという解釈は変わっていないため、厳密には「脳の電磁作用が、外界を電気側の事象として推測している」という言い方に変わるものと思います。
ここで電気側としたのは、磁気は見えていないため認識から外れを得ないというだけで、物体が電磁作用から成っていることを否定するものではありません。
そして脳の電磁作用における推測は、方角と長さに対して行われており、光と同じ電磁作用における距離の捉え方と同じように扱われていると考える一方、意識の上でも1つの点に定まるのでは無く、確率のまま感じているとしています。
方角や長さについては最大限推測して絞っているものの確率のままで、その場所や範囲に感じている質感として確定する、という考え方です。

その推測では、イージーな推測とハードな推測が連動しているとする部分

(前回)
自分自身と自身を取り囲む環境を、正確に推測できることが、自分自身を正確に操作する上で必要になります。
その推測と推測のやり直しが、常に、脳と体で連動して行われていると考えられます。
そこで構成された物体としての推測の仕方がイージーな推測とするならば、このイージーな推測における神経細胞やそのネットワークの動きと、そこに生じる磁気の大きさが表裏一体である関係と併せ、磁気側でも推測に相当する何かが起こっていると考えられます。
そこから、意識される内容もまた、定まると考えました。

(今回の考察)
神経細胞の成り立ちを、電磁相互作用の観点から整理しました。
神経細胞を構成するにあたっては、光量子単位のエネルギー交換が物質(化合物、結晶、原子)の結合や分離で必要になっています。
これは電気側の立場に相当しますが、神経細胞に伝わる信号を見ると、この大きな粒度のエネルギーのやり取りまではしていないようでした。
また、神経細胞は経験を通じて神経細胞の繋がり方、つまり電気の流し方を変更していきます。
これは経験した内容を記録していると捉えることができます。
一方、意識される内容、つまり記憶は、磁気側を加えた、電磁作用の視点で考える必要があり、電気側よりも細かい偏差が、そこで表現されると仮定しました。
この偏差とは、化合物が化合物としてあり続けるエネルギー量を変えないが、それを構成する内容を変えることを、物理としてあり得そうな事象で説明したものなのですが、今はまだ概念的なものです。

(前回)
電気側(神経細胞)で推測が働くのに合わせ、電磁の観点でも推測が働くであろうと考えました。
そしてその推測のされ方が、電気側の推測と合わせて行われるといった感じでしたが、具体的ではありませんでした。

(今回の考察)
電磁側の推論は電磁ポテンシャルに溜まった偏差の集合(記憶の集合)の中の「位置(方角と長さ)」が変分原理=光が直進する原理に従って整理されるとしました。
この整理の仕方が磁気側(今は電磁側というべきだが)の推測の仕方ということに対応づきます。

その連動では、イージーな位置の問題とハードな位置の問題の解決が連動しているとする部分

(前回)
推測が効果的に行われる条件として、観測対象(自他問わず、質感によらず)の位置の推測が、少なくとも重要だろうと前回考察しました。

(今回の考察)
位置が特別な質感である点を継承しています。
この位置の質感がどの質感にも付随することから、特別な質感で、これは電磁作用における基本的属性ではないかと考えます。
また推測については、検索器の働きの一部として行われると位置付けました。
そこでは偏差に対して、明晰さの向上、経路の集約、時間の遡りなどが影響して、電磁ポテンシャル内の偏差の集合を効率的に配置するような要請が生じ、最も空間を占めるサイズが小さくなる=偏差の始まりの場所への回帰ように配置されるのではないかと考察しました。
そのため今回の議論では、推測という限られた場合にとらわれない、検索(推測が含まれる)の範囲に拡張して論じたことになります。

以上で、前回のと今回の説明の整合を終わります。

締めくくりに、記憶には極端な性質があることに触れて終わりにします。

神経細胞群の経路としての記録が、経験を通じて整えられていくことで、自分自身の体の理解や、環境の観測精度や、適応的な思考などが身につきます。
これは検索器から効果器への機能の変遷に対応します。
それと併せて、特定の形(色の差分の集まり)、特定の言葉(音の差分の集まり)などの記憶も、神経回路網の記録という形で整えられていきます。
これは分類器の中で、より抽象的な分類をするような階層構造を想定することで説明できそうです。
一方で、さまざまな経路を経て集まってくるような神経細胞群は、特定の記憶は持たず、論理的思考する神経回路の記録を担うようになります。
これは、分類器から汎用器への経路と、汎用器内の経路の話に対応します。

論理的思考では、所詮は有限の神経回路網の経路をなぞる活動でしか無いはずですが、それにも関わらず、有限を超えるような意識を起こす場合があります。
例えば、以下のような意識です。

・真っ直ぐで無限に続く直線(ある2点を通る直線を果てまで伸ばす)
・数字の個々の値を記憶できないにも関わらず無限に数字の桁がある状態を感じる(無理数があると理解する)

動いていないものを動いているのと錯覚するように、これも記憶の参照の仕方から生じた錯覚のうちの1つかもしれませんし、意識が働く時に行われるであろう変分原理が適用された結果そうなることがあるということかもしれませんが、有限の物理構造である神経細胞が、記憶したそれを組み合わせることで、無限に感じられる何かを得られるとは、不思議なことです。

何か似たようなことがないかと思い浮かべると、例えば、鏡が2枚あれば互いに合わせることで、無限の繰り返しを表現させることができます。
これと同じようなことを、特定の神経回路の記憶と、記号や形の記憶の組み合わせから、変分原理の性質も手伝って?実現できるのかもしれませんが、今回はここまでといたします。

余談

自分を意識することと自分とは何かについて

自分を感じる意識は、自分と自分以外を見分けるために、過去から構築された神経回路の記録と、それによってその時の今に確認した自分の何某かを意識することで成立する、自分に対する記録や記憶の総体でしょう。

ここでの記憶は、自分とそれ以外を無意識下で区別する、神経回路の記録の駆動により、呼び起こされていると考えます。
自分を記憶から意識するという意味では、体に関する記憶(視覚や通じて得られる形や動きの影響が大きく、平衡覚や第一次感覚野の影響は小さいと思われる)や、自らの声、内言による自らの説明などもあります。

神経回路の記録と記憶の構築は、その人がどのような環境で生まれ、育ってきたかに依存して人それぞれに仕上がりますし、生きている限り変わり続けます。
その人がどの記録や記憶を使って自分自身を感じているのか、定義しようとしているかという点においても、人それぞれ、その時々になってしまうでしょう。
自分の定義を全ての人で同じとすることの難しさが、ここにはあります。
(分人という考え方もありますし)

自分とは何かという問いへの答えは、あってないようなものです。
自分をどのように意識するかをどのような仕組みから実現しているかを説明できても、その仕組みを使ってその人が今まで生きてきた結果、自分をどのように意識するようになったかは、その人の勝手でしかありません。
その人はその人で見つけねばならず、他の人は他の人なりの方法で見つけるでしょう。
それでも、自分と他人で「自分」の定義を合わせたければ、常に会話し、お互いの経緯を事細かに確認し合う姿勢が求められます。

自由意志について

生まれを自ら選択できない時点でそもそも不自由確定であるため、自由意志を問うのはおかしな話かもしれません。
生後も、意思を持って行動してきてように見えて、多くの行動を無意識にこなしていたりします。
脳を見てきても、無意識に駆動する神経細胞の記録を介して意識は生じており、そこにも自由さを見出せません。

それは脳というものを観測してしまったが故に起こった不慮の事故ですが(脳を見なければ自由意志は確かに存在する!)、そうである以上、自由を求めて、自由を再定義していく必要を感じます。
我々はなんらか、自由であることを望みます。

この自由とはつまり、理不尽な生まれも含め、それまでの自分を否定したり忘れたりする意味や、今の自分よりも相対的に自由になるよう振る舞うことを「自由意志」と呼ぶのだろうと思うようになってきています。
絶対的に見たら不自由でしかないが、今の不自由から不自由さを減らす、相対的な自由であれば、常に求めることができます。
不自由を理解したからこそできる意味の自由を求めるのです。
変分原理がわかっていれば、あえてその変分原理から外れたことをすればいいのです。
(まだ見えていない部分に別の変分原理が糸を引いているのでしょうが、知らなければ自由は確かに存在します)

注意せねばならないのは、自由と幸福は別物ということです。
自由だからこその不幸や、不自由だからこその幸福というものが存在します。
(何を幸福に感じるかも、人が進化してきた過程の中で仕組まれたことですけれども)

以上 意識について 2024年版 下
2024年6月9日 ベータ版
2024年6月16日 初版

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