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おにぎりちゃん、あるいはクイズ・セシルの記憶

その電話が来たのは数ヶ月前のことで、電話の主は高校からの付き合いの今沢だった。
「なあ、頼むわ」
「どうした」
「クイズに興味ないか?」
「はあ?」
「おれが勤めてる老人ホームで、今、クイズ研究会っつーのをやってんのよ。でもおれたち職員が凄く忙しくて、研究会のことまで全然手が回らなくてさ。手伝ってくれ、頼む」
「まあ、断る理由はないよ」おれは言ってみた。
「サンキュー、助かるよ。とりあえず、近いうちにおれの勤めてる老人ホームに来れるか?」
「明後日ならいつでも行けるが」
「ああ、分かった。明後日、頼むわ」

そして約束の日、その老人ホームに向かうと、玄関で今沢が迎えてくれた。
「おー、佐々木!ありがとうな」
「いいってことよ。で、その、クイズ研究会、っつーのは何?」
「追々話す」
老人ホームを案内されながらの今沢の説明によると、クイズ研究会の正式名称は、クイズ研究会パンジー、といい、徳島のみで放送されている超、超、ローカルカルトクイズ番組「クイズ・セシル」で優勝を狙って毎日活動しているという。会員は三人。
「少ないな」
「みんな疎ましがってるんだよ、研究会を。まあ無理もないわな、あの有様じゃ」
「どういう感じなんだよ」
「とにかく、暴力的、狂気的」
暴力的。狂気的。少なくともいい予感はまったくしないが、付き合いの長い友達の頼みを断るのも悪い気がして、「とりあえず研究会の人たちに会わせてくれよ」と言ってみた。

「クイズ研究会 パンジー」と書かれた立て札のある小部屋に彼らはいた。
研究会のメンバー三人、岩西さん、小枝さん、山咲さん、いずれも90代半ばは、よく言えば個性的、正直に言えば完全にアウトローな老人たちで、一貫してピリピリした、剣呑にもほどがあるムードを漂わせていた。
岩西さんは金属バットを握りしめながら、スクッと立ち上がり、開口一番おれに「誰だ、殺すぞ、ヘタレ」と言ってきた。
小枝さんはひたすら頭を低く垂れて、額を床に擦り付けながら、低姿勢になって屈み、ウウウ、ウウウと、獣のように唸っている。
山咲さんは、「正解です!山咲さん、大正解ですっ!やったあ」と、か細く、甲高く連呼している。狂人の集まりであることは一瞬で分かった。
今沢がおれを紹介する。「皆さん、彼がパンジーを躍進させる新星、佐々木くんですよ。彼をよろしくお願いします」
怯えて手足がわずかに震えるのを隠しながら、なるべくニュートラルな声色を選び「佐々木と申します。よろしくお願いします」とだけ言っておいた。三人は、おれのほうを少しだけ向いて、すぐに自分の世界に戻った。

部屋を出ておれは問うた。「今沢、おれは研究会で何をすればいいんだ?教えてくれ」
「基本的には、おれが過去問を参考にして作ったクイズを彼らに出題して、練習させるだけだ」
「基本的には?」
「ああ。ただ三人とも狂ったやつらだから、間違いなくお前にも何かしらの不運や面倒事は起こる。今まで10人くらいの友達に頼んだが、みんな三日と経たない内にすぐ断って逃げ出したんだ。おれも人脈が豊かな方じゃない。もう佐々木しかいないんだ。頼む」
不安でしょうがなかった。明らかに関わるべき老人たちではないだろう。でも、断る勇気もなかった。
「やるよ。任せてくれ」自分のお人好しぶりが嫌でたまらない。

次の日から早速、優勝に向けての練習が本格的に始まった。
「クイズ・セシル」で出される問題は、とにかく難解、っていうか、意味不明だ。
例えば、「クリーニング屋さんでマシュマロを食べるシチュエーションを多くするための、効率的な方法を編み出した思想家の名前をフルネームでお答え下さい」という問題の答えは「ウェンディ・コリー・リリヤマ」。
こんなの不条理すぎて分かるわけがない。これは本当にクイズと言えるのか。何でこんな荒唐無稽な問題になっているのか、そこには理由がある。
そもそも「クイズ・セシル」は、セシルという架空の女の子キャラクターが睡眠時に見ている夢の中で開かれているクイズ大会、という設定の番組で、睡眠時の夢の中、というふわふわとした世界のクイズ大会であるからして、問題も意味不明で、架空チックで、不条理で、シュールなものになっている、ということらしい。「だって、夢の中とは得てして意味不明なものじゃないですか、人間、理路整然とした夢を見る方が難しいじゃありませんか、謎に満ち、透徹したアートを、クイズ番組というオープンなメディアを媒介に提示することが我々制作チームの使命なのです」と、番組プロデューサーの男がインタビューを受けて得意げに語っている動画を今沢に見せられた。知るか。
今沢が過去の番組で出された問題を研究して抽出したそういう不条理めいた問題を、職員としての仕事で忙しい今沢の代わりに、例の三人に淡々と出題して練習させるのがおれの責務となった。

「では次の問題です。炎をひたすらかき集め...」
「イタリアン・俺様!」小枝さんが即答する。
「不正解です。正解はカナディアン・俺様です。惜しいです」と告げると、岩西さんがバットを振りかざして、「小枝!てめえ間違えやがって!殺してやる!佐々木、お前もだ!トンチンカンな問題出すな!」と騒ぐ。岩西さんのバットは大体命中しないのが救いだが、必死で制止するだけで体力を相当使う羽目になる。助けてほしい。
「では次の問題です。愛する妻のために使い走りをし続け...」
「熊田二十面相!」山咲さんから正解が出た。「正解です」と教えると、山咲さんは「ぴゃああああああ。正解だああああああ」とでかい金切り声で叫んで椅子の上で飛び跳ねる。うるさいことこの上ない。不快。
「次です。金縛りに遭ったことのある人が作るてるてる坊主は、夜になるとまれに光り出すことが知られていますが、では金縛りに...」
「タイミング!」小枝さんが正解した。「正解です」と教えると彼は地べたにサッと正座して、老人とは思えない高速の動きで天を仰ぎ始めた。ウウウウウウ、と口からなにか音が漏れている。
よく分からない珍妙なクイズ、っていうかマジでこの文章、クイズにもなってない気がするのだが、そういうクイズを延々読まされ、同時に些細な刺激で攻撃してきたり、叫びを上げたり、奇妙な音を口から発して天を仰ぎ始めるような老人たちの相手をするのは、もうかなり辛いもので、それこそ変な夢を見ている気分になる。悪い車酔いが延々続いているような感じだ。ただ、この三人はさすがと言っていいのかなんなのか、まあクイズに関する才覚は確かなのかもしれない。問いを出せばガンガン正答が出てくる。一般のクイズ大会では全く役に立たないであろう類の才覚だが。

老人たちはとにかく暇だけはある。彼らは最長で6時間、クイズを解き続けたこともある。おれもバイトなり何なりがあるのでそれくらい長引くことは滅多にないのだが。
で、おにぎりちゃんは、おれがホームに通い始めた一日目からいた。彼女はまだ20歳の専門学校生で、クイズの応酬に疲れた三人におにぎりを出して休憩させるのが仕事だった。おにぎりちゃんはおれにもちゃんとおにぎりをくれる。具沢山で、普通に美味い。顔も普通に可愛い子だ。
岩西さん、小枝さん、山咲さんと極端なアウトローの三人もおにぎりちゃんには優しい。極悪非道な岩西さんもバットを置いて、「おにぎりちゃんは、いつも美味いおにぎりを作るねえ」などと笑顔で食べている。おれには「そんな問題出るわけないだろうが、この悪徳人間めが!帰れ!」とバットを振り回して八つ当たりするくせに。
おにぎりちゃんに、なんでここに来て、おにぎり作ってんの、と聞いてみても、色々あるんですよ、と答えを濁されてしまう。本名も分からない。謎ばかりである。

おれたちはただただ、「クイズ・セシル」で優勝するための練習に励んだ。おにぎりちゃんはひたすらおにぎりを作った。今沢は必死で番組の過去問を研究し、無数のクイズをおれに渡した。おれは岩西さんのバット攻撃を度々喰らい、ダメージを受けながらも問題を出して、出して、出しまくった。
いつだったか、なぜ、「クイズ・セシル」で勝ちたいと思うのですか、と三人に聞いてみたことがある。すると、いつもは「正解だあやったあ」と甲高くわめいてうるさいだけの山咲さんが、やけに明瞭に、静かに、答えた。
「おまえには関係ない」
すみません、と言って、会話は終わった。おれは何も考えず、今沢やおにぎりちゃんのためだ、神は常に乗り越えられる試練だけをお与えになるのだ、と思いながらクイズを出し続けた。

「機は熟した。そう思わんかね?」ある日、小枝さんが言った。
「ついに出るんですか?番組に」おれは尋ねた。
「ああ、三年前の雪辱を果たすのだ」
実は三年前にも三人は「クイズ・セシル」に参加しており、記録的な惨敗を喫したという過去は今沢から聞いていた。
岩西さんが言う。「そうしよう。今のおれたちなら」
「やれるわい」小枝さんが繋ぐ。
「優勝です!万歳!」山咲さんのうわ言。
即座に今沢に、三人が番組に出たいと言っていることを伝えた。今沢はすぐ、「分かった。番組に申し込む」と言い、翌日には出場申し込みのメールを番組宛に送っていた。

「クイズ・セシル」に出るためにはちゃんと予選があって、まずはそれを突破しなければならない。
予選は真夏日、東京のでかい国営のホールで行われ、全国からおよそ100の団体が集った。相当人気の番組なのだなあ、と実感する。出場者は大学生や中年の会社員がほとんどで、90代のパンジーは最高齢ということで、予選が始まる前から耳目を集めていた。
おれ、今沢、おにぎりちゃんはパンジーの面々の送迎、付き添いも兼ねながら客席で見ていたのだが、驚くべきことに、パンジーの三人は凄い勢いで予選を勝ち抜き、例の不条理で訳のわからない問題を難なく解いてみせた。
例えば、
出題者「絵画を描くために必要な鉛筆を、犬の声をした魔女が...」
岩西さん「影絵!」
出題者「たくさんの緑のアンテナがある道を通る時に...」
小枝さん「テープを巻き戻して野犬を呼ぶ!」
出題者「フルーツを食べなから泣き出して...」
山咲さん「強情であるということ!」という具合に。
予選を勝ち抜いたトップ3の団体だけが、「クイズ・セシル」本戦に出場できる。パンジーは2位を勝ち取り、番組史上最高齢の団体の出場決定に会場は沸いた。おれもよく分からないなりに高揚した。今沢とおにぎりちゃんは、もう跳び上がって喜んでいた。いい感じだ。

本戦を明日に控え、練習は追い込みだ。老人ホームのいつもの小部屋は熱気に溢れ、三人の闘争心はどこまでも膨張していた。こちらがいくらペースを上げても弛まず次々に正答を出し続ける、その正確さ、俊敏さ、勝利への貪欲さには驚くばかりだ。老いや弱さをまったく感じさせない。
と、不意に、おにぎりちゃんがやってきて、「ちょっと」と言う。誰もいない、老人ホームの屋外の裏庭まで彼女が連れ出す。
「どうしたの?」
「あの。佐々木さんって、いま付き合ってる人は、いるんですか」急な質問過ぎる。たじろぎながらも、なんとか平静を装い、答える。
「いないけど」
「わたし、佐々木さんと付き合って、ゆくゆくは、結婚、したくて」なんということか。おれはいつの間にかおにぎりちゃんに見初められていた、と?
「みんな、パンジーの三人と向き合おうとしなかった。誰もが三人を、狂人だとか、理解できないとか、傲慢だとか言って見捨てていったけど、佐々木さんは絶対に見捨てなかった。パンジーの三人は、人生の中でなにかを追求し、学び続けることの大切さをわたしに教えてくれた、美しい人たちです。彼らの情熱を信頼して、根気強くサポートし続けてる、佐々木さんのその信念も、美しいと思う。だから、佐々木さんが好き」
「...本当に?」おれは言った。おにぎりちゃんは深く頷いた。
「あの、この戦いが終わったら、佐々木さんと旅行にでも行きたい」
「...ニューヨークとか、行く?」おれは困惑していて、突飛な答えが出てしまった。こういう時に、いい感じの答えを取り繕えるほどおれは器用じゃない。あの異常な老人たちとの交流も、友達に頼まれてやっているだけのことでしかないし。でも、悪い気はもちろんしなくて。
「...外国かあ。行けるかな」おにぎりちゃんが嬉しそうに微笑む。
「...行こうよ」
「...はい」
そして、おれたちは何事も無かったかのように、またクイズの練習に戻った。

本戦は徳島で開かれ、徳島の局地的なローカルテレビで生中継された。おれたちは例によって早朝から電車を乗り継ぎ、徳島まで同行し、客席で固唾を呑みに呑みまくって見ていた。クイズの内容の意味は相変わらず1ミリも理解できないが、なんだかもうこの意味の分からなさにも慣れてしまった。それに、熾烈な戦いであることが一目瞭然で、目が離せない。
出題者「問題です。犬が食った...」
岩西さん「富裕層の涙!」
出題者「問題です。家鴨の...」
小枝さん「英会話!」
出題者「問題です。最近のオジギソウは...」
山咲さん「人間が可哀想だから!」
即答する速さと、正答する知識量を兼ね備え、少し質問を聞いただけでもう答えてしまうパンジー。パンジーと他の二組が果てしなく競り合い、拮抗し、勝負は延長戦となった。だが、パンジーの技量、そして胆力は違った。この日180問目のクイズにして、本当に本当の最終問題。最後の力を振り絞り、岩西さんが回答する。
「問題です。谷底から...」
「最高速度をコントロールできないため!」
叫び散らすように彼が素早く正答し、その瞬間、10点差で、パンジーは遂に雪辱の「クイズ・セシル」で優勝を成し遂げてしまった。大きな歓声が巻き起こる。司会者が「歴史的瞬間です!史上最高齢クイズ長者、パンジー!」と興奮気味に叫んだ。
と、同時に、パンジーの三人が床に、ドサッと鈍い音を立てて倒れた。空気は不穏に一転した。「大丈夫ですか!」「救急車を!」騒然となっていく会場。三人は迅速に担架で運ばれた。
「力を使い果たしたのか?」おれは思わず呟いた。
「うわああ、うわああ」今沢は取り乱している。
おにぎりちゃんはただ、黙っていた。彼女は唇を噛んで、目には涙が浮かんでいて、それを流すまいと堪えているのが分かった。何も言えなかった。

駆け付けた搬送先の病院のベッドに三人は眠っていた。医者によれば、命に別状はないと言う。
やがて、岩西さんが目を覚ました。
「お母さん。起きたよ。ご飯ちょうだい」
その声が、いつものしわがれた老人の声ではなく、甘ったるくて甲高い、子供の声に変容している。間もなく次に、小枝さんが目を覚ました。
「うわあ。兄ちゃん。蝉が鳴いてる。夏だよ」小枝さんの声も子供だ。最後に、山咲さんが目を覚ました。
「父ちゃん。遊びに行こうよ」山咲さんも子供の声になった。
「どうやら、なんらかの強烈な心的ショックによって、彼らの声帯等の肉体面、そして精神面に深刻な幼児退行が起こったと見られます。彼らが体感したこれまでの記憶は全て抹消されている、と考えるべきでしょう」
医者は告げた。おれたちは言葉を失った。それは、彼らはおれたちの存在も、クイズの知識も、優勝の記憶も、おにぎりちゃんが作るおにぎりの美味しさの記憶も、何もかもを失った、ということを意味する。
医者は言った。「しばらく安静にさせ、自由に過ごさせておきましょう。もしかしたら、自然に記憶が戻るかもしれない」

だが、三人は退院して老人ホームへ帰ってからもずっと子供の声で、子供のように振る舞い続けた。彼らはもう、クイズのことなどは口にせず、ただただ庭の蝶々を追いかけたり、暇を見つけては幸せそうに笑みを浮かべ、椅子にもたれて眠ったりしている。いまもずっと。
おにぎりちゃんは毎日夕刻になると老人ホームにやって来て、パンジーの面々におにぎりを握って、与えている。「三人はどうあっても三人だから。わたしはそれでいいんです」と、彼女が誰にともなく口にするのを聞いた。おれと旅行にでも行きたいな、と言ってくれた彼女は、あまり笑わなくなってしまった。おれたちに芽生えるはずの恋も、自然と立ち消えたままだ。
今沢はホームで黙々と働いている。ある時ふと、「なんらかの高みに辿り着いたら、人は抜け殻になってしまうんだろうか」と、おれに言った。返す言葉は見当たらなかった。
おれはというと、おにぎりちゃんや今沢にかける言葉も全然見つからなくて、パンジーの三人もおれのことを覚えてないのに、ここに来る必要あるんか、と思いつつ、暇を見つけてはホームに来てしまう。
パンジーの三人が逝くまで、おれは通うんだろうか、ここに。いつかおにぎりちゃんと、ニューヨークに行けるまでは通いたいと思ってはいるけれど。こうして、人生のやるべきことは次から次へと出てきて、どこかへ消えていく。その果ては考えなくていい、なにも考えずにいてもいい、そう信じ切れるようになりたい、と、おれは思った。

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