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怪談「夏が終わる」

「お米を、下さい。」
またこの声だ。うるさくて眠れない。
「お米を、下さい。」
芝居がかった、妙に低く、太い声で繰り返される嘆願。家の前の通りで言っているのだろうが、なぜか姿は見えない。
「お米を、下さい。」
眠れないので、耐え切れずイヤホンでラジオを聴き、耳を塞いで無理矢理眠りにつこうとする。やっと午前三時頃、眠れた。

朝がやって来て、仕事に出かけるため支度をする。今日も酷暑。どうしたって夏からは逃れられない。
家の前を通るとそこには、派手な誰かの嘔吐の跡があり、警察がざわざわと取り囲んでいる。
「いやあ、どうしましょうかねえ」
「お米を、下さい。って言われてもねえ」
「前に取り押さえようとしたら、奴さん、チェーンソーを持ってやがった。現場に向かった仲間はみんなやられて、いまも入院してる。撃つ隙も無かったと言っていたな」
「妖怪だよ、奴は」
「どうにかして捕まえなければ、いずれ民家を襲うだろう」警察が話し込んでいる。
当然恐ろしくもなるが、おれには生まれながらに変な諦念があり、こうして生活が脅かされている段になっても、あまりピンと来ないというか、まあ人間なんてみんなバカじゃん?と思ってしまうだけで、あまり気にすることもない。
それより今日の仕事が大変そうだ。取引先との交渉と書類の製作と、うちは少数精鋭の会社だから一人一人が色々なことを賄わないといけない。そういうことを思ううち、あの米をねだる妖怪じみた誰かのことはいつも忘れてしまう。

21時頃帰宅して、風呂を浴びるなどして帰宅から30分経つともうあいつがやってきた。この辺は夜は閑散としているから、ひとが襲われた、ということはまだ無いが、さて。
「お米を、下さい。」
この言い方が嫌だ。芝居がかっていて、ぎこちない。大げさな感じ。子供の学芸会の劇のような。「お米を、下さい。」の「、」の一拍溜める感じが凄くぎこちなくて、わざとらしく、下手な放送部員のような。経験とセンスに乏しい役者志望の若者のような。
「お米を、下さい。」
眠れやしない。またイヤホンでラジオを聴きながら寝よう。としたその時。
上の階の住人の何人かが外に降りていく。
「コシヒカリでいいかなあ」
「あげてみよう、一回あげたらもう来ないかも」
などと話している。おいおい、やめておけよ。触らぬ神に祟りなし、じゃないかい。
「お米を、下さい。」
その声がだんだん小さく、細くなる。住人たちと対面しているのか。
「これ、よかったら、あげます」
住人の浅野さんの声だ。浅野さんは40代くらいのおばさんで、おれと交流はあまりないが、面識はある、くらいの立ち位置の住民だ。
「あなたのためになるならと思って、わたしたち、」
浅野さんが話している。と、次の瞬間、
「ありがとうございます!」
複数人の朗々たる声。続いて、バリバリという、人間の皮を剥くようなグロテスクな音、そして不規則な手拍子。なにが始まるんだ。
恐る恐るカーテンを少し開けて様子を見計らう。いざとなったら通報せねば。しかし姿は全く見えない。一生懸命見ようと目を凝らしていると、わらわらと人影がこちらに向かってくる。
米を献上したであろう、うちのアパートの住人たちだ。住人たちがみな、それぞれランダムな手拍子をして、一列になって進んでいる。浅野さんもその中にいる。目がうつろで、みな一様に丸坊主になっている。おれの窓の前を通り過ぎる。誰も一瞥もくれない。見てはいけない物を見てしまった気分でカーテンをサッと閉じて、布団をかぶる。
と、
「誰ですか。そこで見ているのは」
何者かの声。「お米を、下さい。」の声とも違う、やけに柔和な声。中性的な声だ。男か女かも分からない。
「見ているくらいなら、加わればいいのではないですか」
そう声がして、窓際に何かが置かれる音がした。
その夜は怖くて寝付けず、朝になっても恐れをなしてカーテンが開けなかった。意を決して開け、窓を見やると、そこにあったのは一通の手紙だった。
手紙には有名な「夏の終りのハーモニー」の歌詞がタイプライターで打ったようなフォントのローマ字表記で、全文引用されていた。さらに封にUSBが同梱されており、恐ろしさと、それゆえの好奇心からそれをラジカセに繋いで鳴らすと、たくさんの子供たちの悲鳴と獰猛なチェーンソーの音が鳴る中で、「夏の終りのハーモニー」を昨夜の中性的な声のひとが歌っていた。曲が進んでいくにつれドサドサと(人間らしき)なにかが倒れる音に伴い、悲鳴が消えていき、最後には静寂が残った。
引っ越そう。そう思った。

しかし引っ越しも大変である。一朝一夕にできるものではない。それでも荷造りをひたすらやるなどしてなんとかしようとした。引っ越し準備をしている間も「お米を、下さい。」はやってきて毎晩米の献上を要求した。浅野さんたちは戻って来ない。とにかく早く引っ越さなければ。カーテンはもう何日も開けていない。
残ったわずかな住人たちも気持ちは同じようで、ひとり、またひとりと素早く引っ越して行った。おれはといえば荷物が多く、引っ越しセンターとの交渉にも手間取り、ついには結果的におれが最後の住人になってしまったことに気付いた時、おれはさすがに泣いてしまった。アパートは静か過ぎて、奴の声が外で反響するたび、毎晩毎晩恐怖に苛まれた。それでも這々の体でようやく全ての準備が終わり、明日ようやく住居を移せる、その段になった夜のことだ。
布団に入ると、アパートに足音がして、誰かが侵入してきた。複数人いる。奴らか。
「あいつが最後のひとりだよ」
こそこそ話しているのが聞こえる。鍵がガチャガチャと開く。
「こちらが彼の部屋です、終わったらまた連絡を」アパートの大家さんの声だ。なんで開けるんだ。開けないでくれよ。やつらはどうやって交渉したんだ。
3分間ほどの静寂があった。誰も入って来ない。ただ、玄関に誰かいることだけは、気配で分かる。おれは身体が硬直する、という経験を、いま初めて味わっている。
やがてゆっくりと、ひとりずつ入ってくる。そいつらは皆特殊メイクを顔に施し、みんな、まるで老人のような面構えでおれの前に立つ。ざっと15人はいる。青ざめる。勝てない。終わりだ。
と突如、どこからか大仰なオーケストレーションが流れ出す。「夏の終りのハーモニー」のイントロだ。天から降って来るようなサラウンドの音とともに、中性的な声を持ったあいつがズイッと前に躍り出る。
「僕が玉置浩二だ。君は井上陽水になれ。立て!」
立つしかない。
「足を30°に開け!」
言われるがままに開く。逆らえる雰囲気じゃない。やがて中性的な声が響く。


きょうの、ささやきと、きのうの、あらそうこえが、ふたりだけの、こいの、ハーモニー


やけに滑らかで美しい声。おまえも歌え。と視線で促される。歌うしかない。


ゆめも、あこがれも、どこか、ちがってるけど、それが、ぼくと、きみの、ハーモニー


カラオケには自信があるおれも、こんな状況では思い切り歌えない。15人ほどの不気味な老いぼれの特殊メイクをした人間たちの監視のもと、暗い部屋で、突然歌えと言われても無理だろう。それでも声を合わせる。


よぞらを、ただ、さまようだけ
だれよりも、あなたが、すきだから
すてきな、ゆめ、
あ、こ、がれを、
いつまでも、
ずっと、
わすれず、に、


「もっとジェントリーな声は出せないのか」誰かの野次が飛ぶ。
「出せねえよ!」つい大声が出る。


こんやの、おわかれに、

さいごの、ふたりのうたは、

なつの、よるを、かざる、ハーモニー


そこまで歌った瞬間、やつらがおれの手足を縄で縛り始めた。抵抗する。しかしやつらのほうが何十倍も強い力でおれを繋ぎ止める。
中性的な声が歌い続ける。その間おれはバリカンでバリバリと頭を剃られる。手付きが乱暴に過ぎる。痛くてしょうがない。


まなつの、ゆめ、あこがれを、
いつまでも、ずっと、わすれず、に、


歌が終わる。おれの髪は遂に一本も無くなった。なにかが完了したことだけが分かる。芝居がかったあの声が、「ブラァボー」とだけ言った。
おれは特殊メイクの15人に胴上げされる形で部屋から運び出され、緊縛されたまま、あの芝居がかった声に告げられた。
「急ごう。各国12都市ツアーが待っている。勇気ある君よ、最後まであのアパートに残った君だけが、スターになれるんだ。わかるだろう」わからない。
「スターになんかなりたくないです、帰して下さい」おれは言った。彼らは無視し、おれを煤けたでかいトラックの、狭苦しく、獣の臭いの充満する座席に荒っぽく押し込めると、「まずは東名阪」「続いて韓国はソウルへ」「次いでドイツはベルリンだ」「さあ、走らせろ」口々に言った。
「楽しい旅にしようね」ふと横を見ると、丸刈りの浅野さんが微笑んでいる。間近にいる彼女から、少し夏の匂いがした。


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