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夜毎の魚、太陽が兆すまで

もう何日こうしているんだろう。だいぶ長いこと、目の前にある壁以外の景色を見ていない。壁は黄ばみが多くて、汚らしい。足に纏わり付く毛布は冷え切っていて、いくつかあるのを全部被っても暖かくならない。枕は硬くなり、黒色に変色し始めている。布団の上でもぞもぞと身体を動かすたびに、ぐしゃり、ぐしゃり、とどこからか変な音がし始めている。
閉め切ったカーテンから陽光が差し込む。鬱陶しい。昨日も晴れていたし、一昨日も晴れていたし、その前の日も晴れていた。ああ、調子が悪い時にばかり街が晴れているのはなぜだ。それに加え、今日は子供たちの遊ぶ声も聞こえてくる。子供たちはおそらくこのアパートの付近で遊んでいるのだが、喧嘩ばかりしているようで、そんなことしたらダメだろ!とか、お母さんに言われたことは守ろうよ!とか、ずっと言っている。はあ、いまの子供たちはなんでこう他者に対して説教がましくなっているんだ、わたしが子供の頃はバカな子供がいっぱいいて、そいつらはニタニタと笑いながらくだらん下ネタを口から垂れ流して阿呆なおふざけばっかりしていたものだ。親の言うことをなんもかんも鵜呑みにするようなガキども、成熟し切っていないくせに懲罰的なガキども、思考力無きガキどもよ、全員地獄に落ちろ、と考えているうちに夕暮れのオレンジがカーテンから差し込む。やがて夜が訪れ、通りは静まり返り、自分の心臓の音、呼吸の音だけが暗い部屋に響く。そしてじっと目を閉じて、形だけでも眠ろうとする。しかし一向に寝付けないまま、また朝。その繰り返しで、もう多分何週間か過ぎている。なんなんだ。

数日前、会社の上司がこの部屋の前にやって来たのを思い出す。おい、みんな心配してるんだぞ、お前ひとりが勝手な行動をしてるせいでみんな迷惑しているんだ、早く出てこい、出てこないとぶん殴るぞ。あの上司はそう言ってドアを叩き続けた。やがて、上司に呼び出されたんであろう大家さんが不必要な親切でこの部屋の鍵を開けて、大家さんと上司数名が部屋に上がり込んでも、わたしは起きなかった。ずっと布団を被って、眠ったふりをしていた。狸寝入りか、ふざけやがって、今すぐ起きて出社し、おれたち全員に謝るんだ、謝るんだ、謝れこのバカタレ、と上司は叫んだ。そしてわたしの首元をひっ掴んで立たせようとした。しかしわたしの身体は脱力し切っていて、すぐに倒れてふにゃふにゃとなった。目がしょぼしょぼして、彼らの表情はよく分からなかった。それを数度繰り返し、上司たちは呆れたような口調で、もういい。お前はクビだ。たった今解雇だ。この部屋で腐り果てればいいさ。と口々に言って、大家さんと共に出て行った。それから数日経ってもわたしはまだ動けない。立ち上がろうとしても、ふにゃふにゃと身体が弱々しく倒れるだけだ。
おそらくわたしはいま仕事を失っており、栄養失調とか、脱水症状とかもそれなりに起こしているんだろう。それでも起き上がれる気配が自分の中にまったく無い。しかし心の中の声だけは日に日に饒舌になっていくのが不思議だ。自分、どうなるんだろう、明日になったらどんな風になってるんだろう、このまま起き上がらなくても充分安定した生活が保障されるとなったらどうなるんだろう。あー、そういえばあの時の飲み会のあいつの顔、面白かったなあ。あいつどうしてんだろうなあ。中学校の時の同級生、あの子名前忘れたけど、あの子の数学のテストの、あの解答、あれも面白かったなあ。またああいう面白いことがこれから起きたらな。こうして寝そべってるだけでも、そういう面白いことが目の前で起きてくれたらいいのにな。こんな状態で、親はなんて言うかな、考えたくもないな。
というような感じで、ずっと心の奥では色んなことを喋っているのだが、口は一切動いていない。口が開かない。声を発そうとしても、喉が震わない。表情筋も硬く張り詰めて全然動かない。なんなんだ。そうやってぼんやり、ふにゃふにゃとしているうちに、夕暮れのオレンジがカーテンの隙間からギラギラと差し込んでくる。光と色と温度の調合がこんなにうるさいなんて驚異的だ。奇跡的だ。本当に腹が立つ。無神経な太陽。なんなんだ。なんなんだ。

また夜だ。街はだんだん静まり返っていく。昔住んでいたアパートを取り留めもなく思い出す。あそこは近くに飲み屋街があって、夜になると酔っ払いが大勢集まっていて、まあうるさくてしょうがなかった。一度なんぞは酒瓶が家の中に投げ込まれて、窓ガラス一枚が大破したこともあった。その時聞こえてきた酔っ払いどもの声はこんな感じだった。再現してみよう。

壊してやれ!壊してやれ!やるぞおー!パリーン!やったぞお!ガラス一枚、割ったぞおお!おれは強い!アイ・アム・ストロング!ガハハハハ!いやあお前は強いなあ!あんなボロアパートのガラスなんて全部割っちまえ、どうせ大した奴なんざ住んでねえよハハハ。

その時もわたしは、いまと同じように、なんなんだ。と思った。なんで住んでるだけで、一介の酔っ払いにガラスを割られなきゃいけないのか釈然としなかった。おまけに大した奴なんざ住んでねえよ、などと抜かされる筋合いが、わたしにはどこを見渡しても無いわけで、釈然としないままガラス代を大家さんに請求させられ、耳を揃えて全てお支払いした後すぐにそのアパートは引っ越して、今は飲み屋街から離れた人通りの少ない、風呂なしトイレ共同1DKアパートに住まいを移した。会社からは遠くなったが、しょうがなかったと思う。それに解雇されたいまとなっては、住居があの会社から遠かろうが近かろうが気にすることもない。にしても、こんな風に身体が完全に動けなくなっているのはどういうわけか。腹の底では動けなくなった時からずっと、なんなんだ。なんなんだ。と繰り返しているのに、声にはならない。押し殺しているわけでもないのに声が出なくなっている。本当に、なんなんだ、と思う。

と、その時外から、パチパチ、パチパチと、焚き火が燃えるような音がしてきた。そしてなんか、うまそうな香りがする。これは、魚だ。魚の焼ける匂いだ。近くで魚を焼いているのか。アパートの前は公道だぞ。魚なんて焼くところないだろう。しかもいまは思い切り夜中だ。
「ふむ、上等な味だ」
しわがれた声。推定、80代男性。歩道で老人が魚を焼いているというシチュエーションしか考えられない。考えられないのですが。
わたしは気が付くと、床の上を這っていた。床を這って、窓の前まで行き、カーテンに手をかけていた。考えるより先に、ゆっくりとカーテンを開けている自分がいた。
カーテンを開け切ると、そこにいたのはやはり、ひとりのおじいさんだった。ひとりのおじいさんが歩道の隅に腰掛け、小さな焚き火台を用意して、魚を次々に焼いている。焼けた魚は紙皿に移して、箸で魚をほぐして貪り食っている。ここで重要なのは、おじいさんはシースルーの服、郷ひろみ「裸のビーナス」のシングル盤のジャケットを昔親戚のおばさんが見せてくれたことがあるが、あれとほぼ同じ色の、同じ柄の服、を着ており、足には妖しいピンクのストッキングを履いている、ということだ。それはわたしに一種の剣呑な空気を感じさせた。どう考えても異常な人間だ。
と、おじいさんがわたしの部屋に目をちらっと向けた。気付かれたか。
しかしおじいさんはすぐに目線を魚のほうに向け、ひたすら焼き続け、焼いた分食す動きに戻っていった。10匹くらいの魚を食べたあたりで、彼は焚き火台を片付け、丁寧に周りのゴミを掃除して、荷物を抱えて道の向こうに消えていった。程なくして少しずつ夜が明け始め、街の風景の向こう側がだんだん白み始めた。それを確認した瞬間、わたしは後ろにふらふらと倒れるようにして、眠りに落ちていた。

はっと目が覚めると、わたしは部屋のど真ん中に寝転がっている自分を確かめた。ずいぶん久しぶりにゆっくり、落ち着いた眠りに入っていたような。
そして気付く。そうだ、あの夜、わたしはおじいさんを見たのだ。若き郷ひろみと似たような服に、ピンクのストッキングを着用した変質的なおじいさんが、魚を焼いているのを、確かにこの目で見た。見たけど、あの異様な光景はもう夢だったような気もする。実際、あの日以来おじいさんはアパートの前に現れることは特になかった。夢でも見たんだろう。どうせそうに決まっている。そんなおじいさんがいれば、すぐに警察が捕まえに来るはずだ。
再び眠れない日々が続いていた。不意に起きたこの部屋のど真ん中から動けていなくて、わたしは天井ばかり見てしまっていた。意識は今日も饒舌に、過去の記憶やいまに対する不満、どこにぶつけたらいいのかも分からないような曖昧な怒りをぐだぐだと述べていた。なんでこうなってる。わたしのなにがいけなかった。どうして動けなくなっている。すべてが不明瞭だ。
そしてまた夕暮れがひとしきり降り注ぐ。カーテンを再び閉める気力すら起こらないから、わたしは毎日あの夕暮れのオレンジを、その眩しさと、鮮烈で生き生きとした色合いに苛立ちを感じながら浴び続けている。そして夜が来て街が静まれば少し落ち着くが、心はまだまだ焦燥感を生み出し続けているし、奇妙なことに、それが自分に降りかかっていることのように思えない。自分のこの状況にまったく現実味が無い。別の人の肉体を借りて、その感触を追体験しているような感じだ。自分の精神と自分の肉体の間に、一定の間隔が空いている感じがする。
それにしても最近、全然雨が降らない。日中は本当に日照りの時間ばかりだ。時々は曇ることもあるけど、雨という雨は結構ご無沙汰だな。そんなことを考えていると。

パチパチ。パチパチ。

焚き火の音だ。またあのおじいさんなのか。
気力を振り絞って、窓に顔を寄せると、やはり、あのおじいさんが魚を焼いている。シースルーの郷ひろみコスチュームにピンクのストッキング。今日も彼は魚を次々に焼いて食べている。いい匂いが漂ってくる。魚の焼ける匂いが、いい匂いだ、と思ってしまうわたしを菜食主義者の人間が見れば痛烈に糾弾するに違いないが、わたしは自分の食生活や常日頃のポリシーを疑ったことがまるでないから、いい匂いだなあ、と普通に思ってしまうんだよなあ。それは罪なことなのだろうか。とか考えていると、また、おじいさんと目が合った。
おじいさんはアパートの一階の窓から見ているわたしに目線を合わせ、そっと手招きのジェスチャーをした。こっちへ来なさい、と彼は言っている。わたしは自然に、彼に応えたい、と思った。しかし気力が。身体に力が。入らない。しかし彼が招くのなら、わたしだって、行かねば、と不思議にも強く思っていた。

這いながらなんとか玄関のドアをこじ開けて、階段をまた這って、アパートを抜け出たわたしは、匍匐前進の体勢で公道に出ていた。
おじいさんがわたしに気付く。アパートから這いながら現れた、奇妙な姿勢のわたしにまったく動じず、彼はゆっくりと手招きのジェスチャーを繰り返す。わたしは少しずつ彼のもとに這っていった。歩道の凸凹が腕にどんどん擦れて、痛い。なぜわたしの肉体はこんな、植物が腐ったみたいに衰えてしまったのだろう。わたしはまだ25だぞ。全然若いはずなのに。なぜ。なぜ。と思いながら、なんとか彼の目の前まで這った。
「食うか」
おじいさんは目の前のわたしに、一匹の、こんがりと焼けた魚を差し出した。
「これは、イワシだ」
わたしは振り絞るように、ありがとうございます、と言おうとしたが、やはり声はまったく出ず、変な空気漏れみたいな音しか発せなかった。それでもおじいさんには伝わったようで、「礼などいいのさ」と彼は小さく言った。
わたしはそのイワシを齧ってみた。
一瞬、はあ?と思った。身体中にイワシの旨味が伝わっていく。ただ網の上で焼かれたイワシが、なぜこんなにうまい。ずっと食事をしていなかったからか。それともおじいさんが魚焼きの手練れなのか。
「ずいぶん、痩せとるな」
おじいさんがわたしを見やり、言った。鏡を見ることすら出来ていないから分からないが、わたしはどうやら酷く痩せこけてしまっているらしい。それはそうだろう。だって数週間なにも食べていないし、眠れないまま壁や天井を眺めるだけの暮らしにシフトしてしまっているのだから。生きていられているのが不思議なくらいだ。しかし説明しようにも声が。声が出ない。
「好きなだけ、食べなさい」
わたしの前に次々と、様々な魚が差し出される。それをわたしは食べ続けた。彼は食料を焼き、わたしは一心に食べ続ける。ゆっくりとだが、着実に食べる。誰かとこんな歪なコミュニケーションを取ったのは初めてだ。
ひとしきりわたしが食べ終わると、おじいさんが言った。
「もうそろそろ帰らねば。朝が近い」
わたしは、「ありがとうございました」と言った。言った瞬間、ちゃんと声が出たことに驚き、「え?」と言ってしまった。
「大丈夫かい。部屋まで送ろう」おじいさんは言ってくれた。しかしわたしは、「大丈夫です」と断った。なんだか歩けそうな気がするのだ。
そしてわたしはおじいさんと別れ、おじいさんは街路の向こうへと消え、わたしは起き上がって、よろよろと、しかし二本の足で歩行し、アパートの自室へと辿り着くことに成功した。

わたしはそのまま朝を迎えた。もう身体がふにゃふにゃと倒れることはなかった。無論、気力は少ないし、足はまだふらついているが、明らかに最悪の状態からは脱せていると言える。そしてわたしは起き上がれなかった間に身体に纏わり付いた、たくさんの汗と汚れの不快さに、今更ながらに気が付いた。
わたしは銭湯に行くことにした。なけなしの小銭を握りしめて、風呂なしアパートゆえにいつも通っていた、最寄りの銭湯に向かった。この銭湯は朝から空いていることは知っていたが、朝に来たことはない。来るときはいつも夕方か夜だった。布団から動けなくなってからは無論一回も来ていない。
番台のおばあさんがわたしを見るなり、「まあ、ユミちゃん!久しぶりね。ずいぶんやつれてるじゃない、なにがあったの」と畳み掛けるように質問してきた。おばあさんは、わたしの顔と名前を覚えてくれていたようだ。かつては毎日通っていたからか。
わたしは、「い、いえ、なにもないです。身体を洗わせてください」と小さく、声を出した。おばあさんは、「入りなさい、入りなさい。なんなら、今日はタダでいいわよ」と言って、わたしを入浴させてくれた。
わたしは汗を流し、石鹸で身体を洗い、水を浴び続けた。30分くらい集中して入浴していたと思う。風呂場から上がった時、いつも感じている空気の感触がまったく違っていることに驚いた。ずっと風呂に入っていないまま、ある日突然入浴すると、こんな感じになるのか。まだ足はふらつくけど、きちんと立っていられるようになりつつある。ずっと着ていなかった、割としゃんとした服が家にあったので、それに着替えると、わたしは肉体が少しずつ蘇生しているような感触を得ることが出来た。
番台のおばあさんに「ありがとうございました。おかげでなんとかなりました」と言ってみた。声もしっかり出てきている。おばあさんは「よかったわ。もう今日は、ユミちゃんはタダよ。次から払ってくれればいいからね。また来なさいね」と言って、わたしを笑顔で送り出した。わたしはせっかくなので御好意に甘えて、「ありがとうございます」と言って、銭湯から出た。

アパートに戻った。もう仕事はない。つまり、やることがない。行く場所もない。
ふと、部屋の空気が淀み過ぎているのが気になって、窓を思い切って開けた。朝だから、学校に行く子供たちがなんのかんの言いながら通り過ぎていく。先生に言われたでしょ、怒られないようにしないとダメだろ、そっちこそテストの成績最悪だったじゃん、とかなんとか。つくづく最近の子供は怒りっぽいなあ、こないだも思ったが。先生とか、テストとか、そんなに大事か。学校で教わることなんか、全部大ウソなのに、なにをそんなに怒るかね。銭湯で得たさっぱりした身体と久々に着てみた比較的綺麗な服で、わたしは「バカ者どもめ」と呟いた。
目が冴えてしまって眠る気にもなれず、床の掃除を始めた。いつの間にかそこら中、ホコリだらけになっている。掃除機をかける。しつこい汚れは雑巾を取り出してきて磨く。一時間くらいで部屋は綺麗になった。そしてわたしは今度こそ心地良い疲労に倒れ伏して、色褪せたグチャグチャの布団で眠った。毛布は、まったく別の布のように暖かく感じられるようになっていた。

目覚めると、また夜だ。今夜もおじいさんは来るのだろうか。窓の外を見てみる。今日はいないようだ。もしや今から来るのか。わたしは少しの間待ってみた。すると、パチパチ、パチパチ、と、焚き火の音がし始めたので、わたしは窓から顔を出してみた。
おじいさんがいた。相変わらず、郷ひろみ「裸のビーナス」感のある衣類からピンクのストッキングを艶々と主張している。おじいさんはわたしに気付いて微笑み、わたしに手招きのジェスチャーをする。わたしは歩いて、おじいさんのもとへ行った。
おじいさんは、わたしを見るなり、「おや、ずいぶん血色がよくなっとる」と言った。過剰に驚きもせず、淡々とした微笑みと声色で。
「おじいさんが食べさせてくれたおかげです」
わたしは返した。「そうかい」とおじいさんは微笑んでいる。
それから、わたしとおじいさんは色々なことを話した。おじいさんによって焼かれていく魚を食べながら、わたしはおじいさんに色々質問していた。
おじいさんには、家族はいるんですか。と聞いてみた。するとおじいさんは、
「女房がいたんだが、ある日仕事から帰ったら彼女の荷物が全部無くなっていた。置き手紙もなく出ていきやがったんだよ、あいつは」と言う。
「それで、どうしたんですか」とわたしが尋ねてみると、
「どうもこうもしねえ。探したってしょうがないさ。人間なんて、好きに生きればいい」と言う。
お子さんや、お孫さんはいるんですか。という質問にはこう答えた。
「子供は一人いる。しかしあいつは子供を作ろうとしない。いつまでもその辺の女をひっ捕まえて遊んでやがる。もうあいつも50代になるくせに、まだプレイボーイを気取ってられると思っていやがる。まあ、好きに生きればいい。おれがとやかく言う話でもないさ」
住まいはどちらですか。という質問にはこうだ。
「住まいはない。公園で野宿をしてるよ。傍から見ればおれは、ホームレス、なんだろう。しかし、わたしはこれが一番良い暮らしだと思っている。誰にも文句は言わせんつもりさ。どうしようが、わたしのことでしかないのだから」
今、おいくつですか。
「自分でももう分からん。まだ10年くらいしか生きていない気もするし、もう120年くらい生きた気もする。どちらにせよ、もう分からんことだ」
お名前は。
「もう名前なんぞは捨ててしまった。ただの、すべてを剥ぎ取られた老いぼれになりたいんだ。おれのことは、おじいさん、とだけ呼んでくれればいいよ」
なぜこんなところで魚を焼いているんですか。
「なにか新しいことがしたくなったのさ。この辺は誰も通らないから、いいんじゃないかと思ってね。ひとりでも楽しいもんだが、実は、近くの住人の人たちとも交流できたら、誰か出て来てくれたらと、どこかで思っていた。そしたら君が出て来た。おれは嬉しいよ」
そのシースルーの郷ひろみみたいな服と、ピンクのストッキングは。
「郷ひろみなんて、よく知っとるなあ。世代でもないだろうに。この服は会社時代に親しくしていた同僚から譲り受けた。なぜおれにこんな服を渡したのかは知らん。あいつはある日突然、アフリカの山村に住まいを移して、それ以来連絡もない。
ピンクのストッキングは、嫁が唯一我が家に残していったものさ。忘れたのか、彼女にとって不要物だったのか。誰も着ないならおれが着てやろうかと思っただけだ。似合うも似合わないもどうでもいい。おれはどうでもいい格好しかしたくないのさ」
わたしも色々と聞かれた。仕事のことや、家族のことや、恋人のことなど、普遍的な身の上についての質問をされた。すべて正直に答えた。仕事はなにも分からないまま急に身体が動かなくなってクビになったし、家族はたまにしか会わないからお互いのこともあまりよく分からなくなっていて、恋人は生まれてからこのかた一度もいません、と。
おじいさんは思い出したように、香り立つサンマを齧りながら聞いた。
「名前はなんて言うんだい?」
わたしは答えた。「ユミって言います」
「ユミさんか」
そして、聞いてみた。
「あの。わたしが這いながら、あのアパートから出てきて、なんだこの女は?とか思いませんでしたか」
彼は簡潔に答えた。「思わんよ。おれはどういう物事にも驚くことがない。そういう気性なんだ。他人より心が醒めているのかもしれんね」
わたしは、急になにも言えなくなり、焚き火の炎を眺めていた。それからしばらく黙々と食べ続けて、わたしたちは、じゃあ、また、と言って別れた。おじいさんは焚き火の荷物を抱えておそらく公園へと、わたしは自室へと戻った。
前よりずっと軽々とした足取りで自室に戻って、魚美味しかったな、さあまた寝よう、と思った瞬間に、物凄い雨音が鳴り響き始めた。窓を眺めると、まるでなにか、世界が再編される過程のような、凄まじい豪雨が降っていた。数週間続いていた日照りの反動のように、雨は凄まじい勢いを保ち、長時間に渡り弛まずに降り続けた。朝が来ても雨は止まず、少しだけ街は明るくなったけど、速いスピードの雨粒と強烈な雨音に目に映る光景が撹乱されて、なにもよく見えない。
おじいさんは大丈夫だろうか。わたしはそれだけを考えていた。不安が駆け巡り、わたしのみぞおちの辺りを掻き乱していた。

それからは毎日、少しずつ少しずつ雨が降り、太陽は出なくなった。雨は小雨になったり、少し激しくなったり、また小雨になったり、一瞬止んでまた降ったりした。
わたしはおじいさんに対する不安を打ち消すため、それに暇なこともあり、漫画を描き始めた。絵の描き方や、構成の仕方などさっぱり分からないので、めちゃくちゃ簡単な漫画しか描けない。描くのはわたしとおじいさんのこれまでの物語と、想像で描く、これからの物語だ。いままでこんな体験をしている人間はそういないだろうから、なにかしら記録しておけば後世の人間が見つけて、なんだこの変な話は、と笑ってくれるかもしれない。たとえ発見されなくとも、自分の備忘録として、ずっと描いていくことも悪くない。
その夜、わたしとおじいさんが同じ家に住み始めて猫を飼い始める、という展開まで拙いながらも描いてみた、その辺りで外からまた、パチパチ、パチパチ、と焚き火の音がし始めた。あの激しい雨の日からはもう一週間ぐらい経っていて、街は依然として雲がたくさん出ているけど、雨は止んでいる。つくづく、時間が経つのが妙に速く感じる。こんなに暇で、なにもしていないのに。いや、なにもしていないからこそ速く感じるのか。
わたしはすぐおじいさんのもとへ行った。おじいさんは、相変わらずのシースルーの不審者じみた服、そしてこれまた不審者じみたピンクのストッキングで、わたしをにこやかに迎えてくれた。こんな珍奇な格好も、見慣れてしまえばナチュラルに思えて可笑しくもなる。
「お久しぶりです」
「おお、ユミさん。あれからどうだい」
「元気ですよ。おじいさんこそ、大丈夫でしたか。あのあと、激しい雨だったじゃないですか」
「それなりに広い街だ。雨をしのげるスポットはいくらでもある。野晒しの生活をするには、自分なりのシェルターをいくつか持っておくことが重要なのさ。おれはそういうシェルターを行き来して、この雨季をしのいだ。だからなにも問題はない」
「よかったです。今日のお魚はなんですか」
「今日はアジと、ホタテと、まあ、色々だ。不味いものはないと断言しよう」
「嬉しいな。食べましょうよ」
そして、わたしたちはまた魚を焼いて、食べて、語り合い、笑い合った。語れば語るほど楽しくなるから不思議だ。魚も全部美味で、わたしの五感は充足感に満たされていった。こんな心地良い充足感がいままであっただろうか。無い、かもしれない。どうだろうか。昔の記憶は、もうなんだかずっと向こうにあるように思える。

「最近はなにをしている?」
「仕事も無くなって、漫画ばっかり描いてます」
「ユミさん、絵が描けるのか」
「簡単な絵ですけど」
「おれなんて、絵も描けんし、歌も歌えん。羨ましいものだ」
「楽しいですよ」
「まあ、おれはここで魚を焼いて、ユミさんと食べられたら、それでいいわな」
「嬉しいです」
「おうよ。ん?見ている人が、誰かあそこに」
目を凝らしてみる。おじいさんが見つめているアパートの三階の、左から二番目の部屋。確かにカーテンの隙間から覗いている誰かがいる。眼鏡をかけて、小太りの、寝間着姿の、どちらかというと野暮ったい感じを醸している少年が、こちらをじっと見ているのを確かめることができた。おじいさんは彼と目線を合わせ、手招きのジェスチャーをする。
手招きを受けた少年は、割りかしすぐにアパートから降りてきてこちらにやって来た。よれた寝間着姿の、丸顔の少年は、少し目線を逸らしながら、「こんばんは」と言った。「こんばんは」とわたしも返した。
「食うか」とおじいさんが言い、少年に魚の一片を差し出した。
「…あ、いただきます…」と少年は言い、少し魚を齧って、「うん、美味しいです…」と呟いた。わたしたちはなんとなく、少し沈黙した。
沈黙から切り出したのはおじいさんだった。「きみは、なにか釈然としない顔じゃないか。どうしたんだい」確かに少年の眉間には酷くシワが寄っていて、どこか黒過ぎる、遠い目をしているように見えた。
「最近、受験勉強で疲れてて…」と少年は言った。
「名前はなんだい」おじいさんが尋ねる。
「ヒデマサと申します」
「疲れているなら、なぜここまで来たんだい。眠っていたほうが楽だろう」
「気になってたんです…あそこで、なにか焼いてる人たちがいるな...って」
「そうか。食べなさい。まだまだ魚はあるよ」
「ありがとうございます」
ヒデマサくんは魚を齧りながら、わたしたちとゆっくりと会話してくれた。彼はとにかく、難関大学への受験に成功しなければならないというプレッシャーを抱えていて苦しんでいることを、訥々と、何度も語った。まるで、ここでしか吐き出せないことであるかのように、何度も。
「勉強も、学校も、だんだん嫌いになってしまって。この先になにがあるのか分からないんです」
「なにも疑うことはない。きみを取り囲む世界に、スッと溶け込んでいけばいいんじゃないかい」おじいさんは言う。
「親や友達とはどう?」わたしは聞いてしまう。
「みんな親切です。でもそれは、ぼくが本当の思いを話していないから、だということも、分かっています。ぼくの中にある、本当の気持ちを言ったら、みんなぼくの周りから離れていくと思う」
「どんなことを考えているの?」わたしは尋ねてみる。
「...本当は、女の子たちといやらしく遊びたい。悪い街に出て、下品なことをしまくってやりたいんです。酒もタバコも、変なクスリもやってみたい。ヤク中になれたらいいのにって思う。
...なるべく、勉強をしていればいいと思うようにしていたけど、いまはそんなのはつまらないと、はっきり思っていて、ぼくは人ともっと卑しく触れ合いたい、っていうか、もっとめちゃくちゃになってもいいのかなあ、って」
「たまにここに来ればいいんだよ」わたしは言った。「わたしもいるし、おじいさんもいるよ。そういう下品な話も、悩み事も、いくらでも聞くよ」
「興味があるなら、酒も、タバコも、クスリも、やるだけやってみればいい。家なんか飛び出してしまえばいいさ。好きに生きる権利を誰でも持っている」おじいさんが不敵に微笑む。
「吐き気がするんです。親も、友達も、親戚たちも、ぼくがいまは普通に振る舞っているから親切に話しかけてくれるだけで、ぼくが酷いことを言いまくって、おかしなやつになったら、同じようには接してくれないだろうことを、ぼくは、なんとなく気付いていて、そんな薄っぺらいコミュニケーションじゃ、もう満足できないっていうか…もっと色んな自分を受け入れてほしいっていうか…
とにかく全部めちゃくちゃにしたい。一回、それをやらなきゃ、ダメな気がするんです」ヒデマサくんはそう言った。
「君はいまいくつだね」
「17です」
「その衝動に気付けた君は果報者ではないかい。普通は皆、そういった自己破壊的な衝動をうまく言葉で捉え切れずに、大人になってから、蓋をしていたその衝動に操られて、悩んでしまうんだよ」おじいさんはそっと呟いた。
「…また、来てもいいですか」ヒデマサくんが言う。
「いつでも」わたしは言った。
「また会おう、そろそろ朝が来る。おれも公園に帰らなければ」おじいさんが片付け始めた。
「…お魚、ごちそうさまでした。また」ヒデマサくんはぐねぐねと不器用な足取りで、走ってアパートへ消えていった。わたしたちも自然に帰った。

それからまた数日経ち、わたしはなにかバイトでも探そうかと、求人情報誌を眺めるようになった。貯金はまだ少しあるが、いずれは無くなってしまうだろう。でもまたあんな風に、わけも分からないままに動けなくなって、肉体がふにゃふにゃになってしまうのが怖くて、バイト先に応募したり、面接を受けたりというようなことはまだできずにいた。わたしは、なんとか一定のところまで回復したこの暮らしが後戻りになってしまうことを恐れていた。
いっそ、おじいさんのあとをついて行こうか。あのおじいさんと一緒になれたら、バイトなんかしなくて済むんだろうか、とか考えたりもした。人に頼りたがっているようじゃダメだとは理解しているつもりだが、やはり行動に踏み切れない部分があって、結局今日も少ない残金で生活をやりくりしている。宝くじ買ったら当たらないかなあ、たまに迷惑メールで、あなたは何とかかんとか賞に当選しましたお電話下さい、とか詐欺のやつがよく来るけど、あれ全部本当だったらいいのに、とかつまらないにもほどがあるようなことを考えていると、夜が来て、パチパチ、パチパチ、と焚き火の音がした。
わたしはすぐに降りていって、今日もおじいさんとふたり、歩道の隅で、網の上に魚を並べて、食べて、話をする。もはやこれは生活のルーティーンになった。お互いあまりなにも起こっていないだろうに、話す話題は尽きない。昔の思い出話をしても、最近考えている由無し事を話しても、なにを話しても笑いに変わり、面白くなってしまうから凄い。今日は星も綺麗に見えて、風も涼しくて素敵だ。
と、向こうから、誰かがやって来た。ヒデマサくんだ。そのうしろを誰かが追っている。
「ヒデマサ!あの人たちに近づくんじゃない!戻れ!」
「もうあんたたちの言うことなんか聞かないよ!やりたくないことはやりたくないんだよ!」
ヒデマサくんが駆けて来る。そのあとを追っているのは、おそらく彼の家族だ。ヒデマサくんの父親と、母親。
「あの、ヒデマサの父です」
「ヒデマサの母です。すみません、息子が…連れて帰りますので。もうあなたたちにはご迷惑をおかけしませんから」
「ご迷惑なんて、そんな」困惑しながら、わたしは言った。
「ふざけるなよ!ぼくを抑え付けるなよ。世界の本当のことが分かっている大人たちと、話すことの、なにが悪いんだよ」
「もう、いいんだ。もう、帰るんだ」ヒデマサくんの父親は、抵抗するヒデマサくんを力ずくで抱きかかえた。ヒデマサくんが父親の腕の中で、じたばたともがいている。彼らは暗がりへ消えていく。静かな夜の街路にヒデマサくんと、その両親の声が響く。わたしとおじいさんは、なにかを言う契機を掴み損ねて、ただ突っ立ってしまっていた。
「本当のことだけが見たいんだ!ウソはいらないんだ!勉強も、家庭も、虚し過ぎるよ!嫌いだ!大嫌いだ!」ヒデマサくんが叫ぶ。
「もう、いいんだ!もう、いいんだよ!」彼の父親の声。
「ヒデマサ!そんなことは言わないで!大丈夫なの!なにもかもそのままでいいのよ!」母親の声。
「抑圧するんじゃない!本当のことだけ見せろよ!本当のことだけを、本当のことだけを教えてほしいんだ!畜生!」
畜生、畜生、畜生。ヒデマサくんの叫びは辺り一面にこだまして、近隣の住民を起こしたようだ。ポツポツと、そこら中の部屋の明かりが点き始め、こちらを心配そうに見る顔がいくつかの窓に映り始めた。
おじいさんは、わたしを向いて、「これからは、場所を変えようか」と言った。
わたしは、「...どこに?」と尋ねた。おじいさんは、「よければ、ユミさんの部屋は、どうかな」と言った。即座に、「大丈夫ですよ」と返した。

それからまた、なにもしない数日が過ぎていった。どうしてわたしはこうもなにもしないんだろう。確実に貯金は減っている。仕事でもなんでも、やってみれば糧になるかもしれないのに。なるようになる、なんてことはあり得ないことぐらい、よく分かっているはずなのに。なんなんだ、わたしは。なんなんだ。
そんなことをひたすら考えていて、出処の分からない、いや、本当は分かっているような気もするけど、その出処とすら向き合いたくもないような倦怠感と、著しい悔しさに取り憑かれたわたしは、気が付いたら近くのコンビニで、工場で大量生産されたジュースみたいな、軽薄でしょっぱい味しかしなさそうな安い酒を大量に買い込みに向かっていた。もう街はとっぷり日が暮れてしまっていて、鈴虫が鳴き始めていた。そんな季節なのか。この前までバカみたいに御陽気な夏だった気がする。まったく、世界に流れるこの、時間、という奴は、速過ぎて、絶え間なさ過ぎて、有効に使える自信がない。変な渦の中に押し込められて、その渦の波に振り回されてばかりいるような。とにもかくにも、この悔しさはなんだ。唇を噛んでしまう。髪にぐしゃぐしゃとかき乱すように触れてしまう。足に余計な力が入る。自分の不必要にでかい足音ばかりが、この退屈で、滑稽な夜の空気に反響する。うるさくて仕方ないのに、足にはどんどん力が入って止まない。え、わたし、あんなにふにゃふにゃしていたのに、もうこんなに身体に力を込められるようになったのか、という静かな驚きも湧き上がるけど、ゴポゴポと音を立てるように迫り上がる怒りが全部掻き消した。
半ば捨て鉢な気持ちで酒を運び、アパートに帰り着くと、そこにはおじいさんがいた。手には鮮魚を抱えて、焚き火台も持っている。シースルーの衣装にピンクのストッキング。いつもの彼。変質的な、でもわたしにとっては最高に穏やかで、優しい、この佇まい。
「ユミさん」おじいさんは静かに言った。
「待っていたんだ」

おじいさんをアパートの自室まで案内し、早速酒の蓋を開けると、感情のネジは勢いよく外れていき、結果、その日のわたしたちは異様な盛り上がりの宴席を作り上げた。次々に缶ビールを開け、ハイペースに飲み干して、わたしとおじいさんは呑み続け、魚を焼き上がったそばから食い散らかし続けた。畜生、なんなんだ、わたしの世界は。わたしのこの、ひねくれた感情は、なんなんだ。本当に。
これから、どこへ向かえばいいんだよ!とわたしは窓を全開にして、外の暗がりに向けて叫んだ。そうじゃ!まったくじゃ!とおじいさんも応えた。近隣の住人が「うるせえぞ!いま何時だと思ってんだ!」と怒鳴り込んで来たが、おじいさんが、「おまえこそうるせえんだ、若造!貴様なんぞ、おれたちほどの苦労も、人生の渋味も知らんだろう!他所へ行け!」と、いままでに見せたことのない凄い気迫で叫び散らして追い払った。
わたしは酔っ払った勢いで、スマートフォンのスピーカーから、母親が好きだった小室哲哉の歌を適当に流して、訳のわからない踊りをして、ふたりは朝が来ても、まだ踊り続けていた。もはや誰も怒鳴り込みにも、殴り込みにも来なかった。踊りに疲れても口が止まらない。ひたすらに不満や、愚痴や、茫漠たる不安を垂れ流し合った。しけた1DKに、わたしたちふたりの中から溢れ出た熱が充満した。

なし崩しに眠りについたのは結局朝を越えた正午過ぎで、次の朝焼けが訪れるまで、長いことわたしたちふたりは眠っていた。
先に目が覚めたのはおじいさんだった。わたしを揺り起こして、「ユミさん、おれは帰るよ。また会おう」と言ったのが聞こえた。
わたしはまだ半分寝ぼけていたので、「あ、はい」みたいな、腑抜けた応答をしたと思う。それで、またわたしは寝てしまい、次に目が覚めたのはもう何月何日かも分からないような夕方で、日暮れのオレンジ色で部屋はもう満たされていた。少し前、わたしはこのオレンジ色がひどくうるさく感じられてならなかった。でもいまは、このオレンジが優しいとさえ思う。帰るべき故郷のような暖かさで太陽が沈んでいくのを、目で追いかけた。
わたしは緩やかに起き上がって、机や床に散乱した酒の缶や瓶を片付けていった。しかしそれらは一向に片付かない。それくらいたくさんの酒が積もっていた。それでもなんとか片付けて、捨て去って、綺麗にして、あの狂宴の残骸を完全に消していった。すべてを片付け終わる頃には、身体は疲れていたけど、意識は妙にはっきりしていた。

そして明くる日が来れば、わたしとおじいさんはまた部屋に集い、何事も無かったように、落ち着き払って魚を焼いて、他愛もない話を穏やかに交わしていた。開け放した窓からは涼風と秋虫の声が漂ってきて、程良く空気をほぐしてくれる。そうしていつものように食べながらしばらく歓談していると、誰かがドアを叩く。
おじいさんが「なんだい」とドアを開けた。そこには会社帰りと思しき背広姿のおっさんたちが立っていて、
「なあんか、いい匂いがしませんかあ?」
「居酒屋ですかねえ」
「行きましょう行きましょう」と、でかい声で言う。
誰だ、このおっさんたち。三人いて、こちらにはお構いなしにぞろぞろと部屋に入ってくる。窓を開け放していたから、漂っていた魚の匂いにつられてやって来たんだろうか。全員、もれなく泥酔していて、なにか尋ねるのも、正常な判断の要求も不可能そうに見える。
「おねえさん、生ビール、くんねえかな?」
おっさんのひとりがわたしにそう言う。当惑したが、追い払う度胸もない。とりあえずあの踊り狂った日の買い溜めの残りの缶ビールがあったので、「ど、どうぞ」と差し出してみる。
「お、たまにはこういう安酒もいいですねえ。アテはなんかあるかい?」
わたしが戸惑っていると、おじいさんがサッと、
「こういうものがございます」
と、持ち込んだいつもの鮮魚のひとつひとつを三人のおっさんに見せていった。
「お、これは?」
「ハマチです」
「これはなんです?」
「シャケでございます」
「全部持ってきてくれ、大将!」
「かしこまりました」おじいさんは鮮魚を手早く炙り始めた。炙られた鮮魚はおっさんたちに、いつもの紙皿で提供された。おっさんたちは一気呵成にむしゃぶり付き、
「...うまい、これはうまい」
「最高じゃねえか。...こりゃあすげえぞ」
「最近の居酒屋じゃ、まず食えねえ味だ」
と、急に静まって、実感が篭った相槌を神妙に打ち合った。そのままおっさんたちは結構な時間まで居座り続け、ふむふむ、これもうまい、こっちもうまい、と、魚を出されるだけ食い、やがて、「大将、お会計!」と言った。おじいさん、どうするんだろうか。第一ここは居酒屋じゃないし、そもそもわたしら、ただ食事してただけじゃないか、と思っていると、おじいさんは、
「一人600円ちょうど頂きます」
と言った。
「うひゃあ、めちゃくちゃに安いぞ」
「ごちそうさんです」
「こりゃあ儲けたなあ。最高の魚でしたよ」
おっさんたち三人は、げらげらと騒ぎながら帰っていった。「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」と、おじいさんは丁重に述べ、おっさんたちを見送った。
「600、かける3、イコール、1800円の儲けだ」おじいさんはこちらを振り向き、ニヤリと笑った。
「いいんですか、こんなことやっちゃって」わたしは問うた。
「金には困っているんじゃないのか。この儲けはユミさんにすべてあげるよ」
「いや、でも、これは」
「なにも気にすることはない。うまくいけば、ひとつ商売になるかもしれんぞ」

それからわたしたちは毎日魚を焼き、話し続けた。またおっさんたちが来ないかと、ラッキーなチャンスを狙って、この自室にふたりして集い続けた。そしてあの最初の来客から一週間が経った辺りで、本当にまた、あのおっさんたちがやってきた。今回も彼らは泥酔し切っており、もう何軒かハシゴしていることが窺えた。
「いやあ、また開いてるよ、この店」
「幻かと思ってたけど、まだやってるじゃないですかあ」
「大将!こないだの魚くださいよ!」
おじいさんは「かしこまりました」と寡黙な店主になり、わたしは事前に酒屋に買い出しに行って用意していた酒をおっさんたちに注ぎ、おじいさんは魚を提供した。おっさんたちはひたすらに、うまいうまい、と舌鼓を打った。会計時はこの前と同じく、600円ずつ頂戴した。公的な許可もなく、不用意にこんな居酒屋ごっこをやってしまっていいのかという逡巡はあったが、確かに微々たるものでも金は入ってしまう。そして客は誰も不満は言わない。むしろうまいうまいと喜んでいる。そうなると、もうこれがライフラインでは?と自然に思ってしまった。
おっさんたちが来るペースは日に日に速くなっていった。一週間に一回が5日に一回、そんでもって3日に一回になる頃には、確かにそれなりの金にはなっていた。わたしは、こんなのもう、渡りに船だなあ、こんなうまい話あるんだなあ、と思っていた。いつかおじいさんに、魚はどこで買っているんですか、と聞いたことがある。「普通のスーパーで買っているよ」と教えてくれた。普通のスーパーで買った魚を炙って、おっさんたちに一律600円食べ放題で提供して、それで日々をやりくりするこの暮らしは、わたしがまったく想定していなかった未来であった。これでいいのか、いや、これでいいのだ。これでいいのである。他に金を稼ぐ方法など、結局のところどこにも見当たらないのが現状じゃないか。それならば。
わたしは、乏しい積極性を発露して、上機嫌に酌み交わすおっさんたちの話し相手になった。
「いやあ、ユミさん、上司は本当、毎回アホでさ」
「ユミさん、このお店始めて何年になるんですか?」
「ユミさんが嫁さんだったらよかったよ。うちの女房がどんだけ悪辣か、話したるわ」
というような話を、わたしは努めて的確に相槌を打ち、聞き上手になってみようと思いながら、吸収していた。おっさんたちは自分たちの同僚や友達も頻繁に連れてきてくれて、皆、魚がうまい、酒も粋だ、なによりこの安さは快挙、と嬉しがってくれて、この1DKはいつしか、夜になるたび完全な居酒屋と化していた。不思議と苦情は来ない。もうあの部屋にはなにを言っても無駄だと、周りも思っているのかもしれない。

「ユミさんも、一杯、飲んでくれます?」
ある日、新顔の初老の男性が、真剣な顔をして、静かに言った。
「いいですよ」わたしは聞いた。「なにかあったんですか」
「実はさ、おれの同僚が、急に会社に来なくなっちまって。上司が様子見に行ったら、抜け殻みたいになって、声をかけても、叩いても、揺すっても、なにも言わないで、寝てるんだって。あいつは真面目で、話す言葉も快活で、仕事も巧くて、どうにもかっこいい奴だったのに、ある日突然、なんかのスイッチが切れたみたいにダメになっちまった。ユミさん、これは、どういうことなんだと思いますか」
わたしは気が付くと口にしていた。「実は、わたしも」
それからわたしは、あの壁や天井だけを見つめていた日々のことを話した。どれだけ普通に暮らしていても、スイッチが切れてしまう時は突然やって来る、ということ。そうなると、子供の声や、夕暮れや、そういう些細な、何気ない日常の事柄がひどくうるさく感じられてしまうこと。そういう時には、意識だけがひどく饒舌になっていくこと。そういう時の、壁や天井の淀んだ色合いについて。あの、なんなんだ、としか言えない気分。あの感覚を正直に伝えた。少し喋りすぎているかも、と思ったけれど、浮かぶ言葉は堰き止められなかった。
初老の彼は言った。「そうなんですな。よく分かった。ユミさんは、どうやってそこから立ち上がったんですか」
わたしは答える。
「…うまく言えないです。ただ、生きていたら、暮らしていたら、いつの間にか、って感じで」
「そうですか。生きていれば、なにかにはなるんでしょうな。とりあえず生きていれば、暮らしていれば、ね、うん。なるほどな。ありがとう。ごちそうさんでした」
わたしは、なんとか笑顔を作って、「ありがとうございました。またお話、聞かせてください」と言った。本当は、いつ落涙してもおかしくないような心だった。なぜそんな悲しい気持ちになったのか分からない。以前の塞ぎ込んだ毎日を思い出したからだろうか。そういう分かりやすい論理でもない気もする。
誰かとずっと話していて、賑々しい部屋の中にいるのに、なんだか急に寂しくなって、胸がキリキリと痛んでいた。

来客は皆帰っていった。部屋にはわたしとおじいさんのふたりだけが残り、辺りには料理と酒の残骸が散らばり、窓の外は白み始めていた。
わたしは、不意に口から声をこぼしていた。
「この毎日、いつまで続くかな」
おじいさんが、穏やかな声色で、どこか遠くを見つめるような顔をして言った。
「続けようと思えば、いくらでも、さ。なにが変わろうと、変わるまいと。あんたになら、分かるだろう」
わたしは、今度こそ、耐えかねていた涙をこぼして、おじいさんに抱き付いた。彼のシースルーの服が、思い切り抱き付いた弾みに強くよれてしまった。胸が酷くキリキリとする。
「おお、どうしたんだい、よければ、また、踊るかい?歌を、なにか…」
「大丈夫です、大丈夫ですから」おじいさんの声を聞いて、わたしは少しだけ微笑した。そして、また自分の顔がぐしゃぐしゃになってくる感触を悟って、声を上げて泣いた。
おじいさんは、そっとわたしの背中を抱いてくれた。その手はわたしには柔らかすぎて、わたしの感情の微細な部分はみるみる溶け落ちていって、泣きたい、という思いだけが残った。涙はなかなか収まらなくて、わたしは為す術なく、いつまでも泣いていた。おじいさんの柔らかな腕の中で。やがて太陽が昇り、光が窓から注ぎ、街が音を立てて動き始めても、いつまでも。

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