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笑うしかない

ここ最近のテーマとして、とにかく地味に生きる、というのがある。感情にも生活にも他者にもドラマ性や整合性を求めず、平坦に生きようとしている。振り返ってみると自分の人生は頑固で、起伏が多過ぎた。小さなことから大きなことまで、すべてに正直に揺さぶられているのが謙虚な姿勢であると思っていた。だがそんなふうに生きていたら身が持たなくなってきた。過剰にシリアスに落ち込んだり、反動で何もかもばかばかしく間抜けに思えてしまっていたり、感情の振れ幅が不安定になってきている。昔はもっと分かりやすく混乱していたのだが、自分の感情はここに来てより複雑化している。混乱する自分を妙に解析し切っている、俯瞰的な自分がいて、それに何か腹が立つ。自分、なんかうまくやってんなあ、と思う。もっとフラットに、何気なく生きることが出来たらと思い、最近は「地味」というのをひとつキーワードにして、日常を送るようにしている。

しかし、生き方にまつわる大体のことは行動に移す段階でなにかと無理が生じる。地味に生きよう、と言った瞬間に地味になって穏やかに生きられるわけではない。世界は絶え間なく変動し、おれの価値観を揺さぶる。昨日の正解は今日の間違い。逆も然りである。そして、なにも無い生活なんつーのは不可能だ。物を断捨離したりスケジュールを減らしたりすれば物理的な「多さ」は減る。しかし心はまた別の問題だ。欲望がある。何者かになりたいという欲望、何かを成したい、より多くの充実感が欲しいという欲望が。あれも欲しいしこれも手に入れたい。なにかを減らせば減らすほどに、削ぎ落とそうとするほどにその欲望が増幅しているように感じる。
でもまあ、自分の欲望のほとんどはその都度満たせる類の欲望だからまだいい。サブスクで音楽を聴き漁り、本を読み、映画を観て、時には曲を作り、困ったら睡眠。それで大体の欲は満ちる。自己完結にまずまず成功していると言えよう。だが想像してしまう。これがもし、より残酷な、他人に被害を与えるような欲望であったら。権力を手に入れたい、誰かを殺したい、誰かを凌辱したい、世界を粛清したい、なにもかも壊したい、というような。
暴力や権力への欲望の存在は人間が抱える永遠の謎だ。でも結局はミッシェル・ガン・エレファントの「なぐりたいからなぐるんだろう 殺したいから殺すんだろう」という歌詞の通りだと思う。明確な理由づけなどなく、ある日ふっと衝動が降りてくるのだと思う。誰だって宗教的にもなるし政治的にもなるし人殺しにもなるし鬱にもなるのだ。人間はそういう生き物なのだ。
だから、自分だけは真実を知っていて、なおかつそれを発信できている、とたやすく納得してしまうのが一番怖いと思う。いまや真実なんて、なにかを説明する根拠として不確か過ぎる。うまい嘘でもついてくれたほうがまだ笑えるから良い。そう、笑えることが大事だ。ユーモア。と言ってしまえば陳腐で曖昧だが、結局自分を笑かすことを自分から根気強く出来るかどうかだろう。どんな状況においても、まず自分に自分でおかしみを与えること。それが出来るのが自立している、という状態なのだろうと思う。そうやっておかしみを持って、自立していこうとする心があれば、誰かの「あいつを殺せ」「何者かからすべてを奪え」という残酷な思想を跳ね返せるのではないか。
面白いことがないから誰かをいじめてしまう。面白いことが見当たらないから誰かを糾弾することにハマってしまう。日常に驚嘆を見つけて腹抱えて笑っていられたら、誰かの示す「真実」に惑わされることもなくなるのではないか。それは現実逃避ではなく希望的な意志だと言いたい。そう、おかしく生きられるのなら、おれは虚脱することも厭わない。どこまでも力を抜き、笑いを見つけることがレジスタンスになる時代が、いま到来している。と思う。

さてどうやって力を抜き、笑いを見つけるか。また困ったことに自分は不必要に真面目ぶるような性格で、堅物で偏屈な、常に真顔を作っている奴で、つまりそもそも笑いというものが精神に内在していない。無いものは努力で埋めるしかないと思い、日常的に突拍子もなく奇声を上げてみたり、毎週「ゴッドタン」を観たりして、面白い人間になろうとしているが、まだまだ笑いの神様はおれのもとには現れていない。気が付くとこの世を呪ったり明日を過剰に憂慮している自分がいる。物心ついた時からの鬱の蓄積で(たとえば、小4の時には明確に「死にたい」と言っていた記憶がある。いまはそんなことは思わない。一秒でも長く生きたいと望んでいる)深刻ぶって生きる癖が付いてしまっている。間違いなくこれは悪い癖だ。大体、面白くなろう、力を抜いていこうとしている時点で、もう面白くないし、力も入りまくっている。ジレンマだ。
笑えない時に無理に笑うほうが不健康で不自然なのかもしれないが、そんなことを言っていたら本当に楽しくなくなる。楽しくないより、楽しいほうが良い。おれは自分も他人も罰さない人間でいたい。
みな同じ人間である、ということは誰もが等しく不完全で、未完成だ。やってはいけないことをやってしまうし思考をうまく表せないことだってしょっちゅうある。政治家だろうと庶民だろうと犯罪者だろうと、皆どうしようもなく不完全なのだ。それなのに完璧を望みあっても、ただ疲れて不快になるだけじゃないか!何年かかけて辿り着いたのはこういう考えだった。悪くない解答だと思っている。実現させるには胆力が要るだろう。まあとにかく、こういう解答を自分の論理で得られたことを祝したい。学生の頃を思い出す。自分の言葉を持てず、状況に流され、すべてに反論したい気持ちを抱えながらも、誰にも反論できなかったあの頃。それに比べりゃよくやっている。やりたいことがあるのがいい。自分の思いがあるのがいい。おれは運が良い。音楽に恋をし、たくさんの歌を知っている。罪の意識や尽きない不安が枕の裏側から染み出しつづけているとしても、おれが恵まれた星の住人だということは確定している。
欲しがるな。夢見るな。世界をコケにせず、誠実に自分を形取っていけばいいし、そして明くる日が来ればテレビを見てゲラゲラと笑えばいい。恐れる必要はないのだ。世界はいつも正直にやってくれているだろう?嘘があり、加えて輝きがある。その入り組んだ業を引き受けていけばいい。よりライトに。より苦しみを解いて。頭でっかちになるのもよくないけれど、自分のスペースの中で、自分に合った論理を形作ることは大事だ。

そんなことをひたすら考えながらに聴いた宇多田ヒカルの新曲は相変わらず良く、それは「Time」と名付けられた曲で、このひとはいつも、どこでもない場所に立って音楽を作っているなーと思った。ポップスだが、カラフルではない。淡いグレーを保っている。それこそ物心ついた時からずっと宇多田ヒカルは聴いているが、歌を聴いているというより、まったく掴めない気配に触れているような感触が毎回ある。ニコやトレイシー・ソーンの歌もそう。そういう歌はどれだけドロドロとしてグロテスクでも、誠実だ。良いと思った。5月の所感。

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