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降臨

「なんとかなったわけ?」真夜がおれに言う。
「ああ、なんとかなった、と思うけど」淡々さを装い、おれは返答する。
これからおれたちは愛杉市へ向かう。

「なんも問題ないのね、私たち」真夜は繰り返しそう言う。
「なにか心配事でもあんのか」
「怒らないでよ。今度こそうまくいくなんてことは、別に確定されてるわけじゃないし」
「でもやるしかねえだろ。生活のためさ」
会話は淡々と進む。車窓の景色も淡々と。
愛杉市というのは最近になり新しく出来た街で、おれたちの住む地元街の隣に出来た、県が今年に入り推奨するようになった「実験政策」と言われる一連の政治的活動の一環として出来た市だ。他の実験政策としては、キャベツだけを売るキャベツ専門店を興し県が後援する、永久に歯が傷まないようになる薬を一滴10万円で人々に提供するプロジェクトの進行、県中にダダイズム作品を展示しアートカルチャーの活性化を図るなど、そんなことをするくらいなら貧困層の援助をするべきではないか、と思わせるような事柄ばかりだ。実際我が街の知事は、去る4月、「あなた方の仕事は何だと思っているのか」という記者の追求に答える形で、「皆さんは誤解している。政治は道楽なのです。すべてが嘘であり、喜劇であり、エンターテインメントとしての成立を図るのが私たちの仕事なのです」と発言した。当然この発言は批判を集め、彼は後日「自棄になっていた」と愚かな釈明をした。
たかだかこんな狭苦しく前途も何もない、ほとんどスラム化した地方都市に、さらに市を作ってどうしたいのか、おまけに喜劇だとかエンターテインメントだとか、偉い奴らの考えることはいつだってさっぱり分からないが、とにもかくにもこれがおれたちの、目下最後のビジネスチャンスになることは理解していた。

この夏、愛杉市は「会い過ぎくらいがちょうどいい!」というキャッチコピーを掲げ、二週間に及ぶ「男女交際促進イベント」を開催するとアナウンスした。なんもない海辺に無理矢理に作ったような不自然にデカい海水浴場を舞台に開かれる、開催を3ヶ月後に控えたそのイベントの名は「Free Love Rhymes」で、フリー・ラブ・ライムス、と読む。
フリー・ラブ・ライムスを開くにあたり、料理を提供する者、会場設営を行える者、宿泊施設を提供できる者が公募されることが決まった。募集要項に併記された「ギャラは弾みます」という一文をおれたちは信じるしかなかった。現在、全国の平均的な最低賃金が500円まで下がるという不況の最中にいるこの国で生きるには、もはや手段は選べない。真夜もおれも40代で、これからは親の介護もあるのだ。どの街へ逃げても同じと悟ったおれたちは、このイベントに賭けることにした。

「わたしたち、料理が上手くてよかった」
「客は来なかったけどな。まあ、あんな閑散たる田舎で料理屋なんてな」
「いろんなものを作ろう、お客さんのリクエストにも答えたいな」
「20代の頃に捨てた夢の残骸で勝負するわけさ、おれたちは。敗者の美、なんてクソ喰らえだ。おれたちは勝つ」
「田舎でこそなにかが始められるって、当時は思ってたね。楽観してた」
「愛杉市を、このしけた街におけるひとつのムーブメントにしてやるのさ。なんでもポジティブに使えるだけの胆力を、おれらは人生経験によって身に付けてる。今ならやれる」
やがて景色が変わってきた。モノクロ。殺風景。石ばかりがゴロゴロと転がる。植物も枯れ木や、腐った花ばかりだ。ガリガリの野良犬が何匹も歩道をうろついている。ここが愛杉市。おれたちの新たなユートピア。

「ようこそ来てくれました」
フリー・ラブ・ライムスの仕掛け人であるシゲキチ氏はおれたちを穏やかに迎え入れてくれた。ここはフリー・ラブ・ライムスのための会議場、という名目の、半壊した木造アパートの一室である。何から何までボロボロだ。
「まったく募集がなくてね。皆怪しんでいるんだろう。知事の発言も含め。ありゃやらかしたな」
シゲキチ氏はボン・イヴェールのようにたくわえた髭が印象的な、60代の老人だった。語り口は朴訥としており、とりあえず悪人のオーラはない。
「わたしたちが最初の応募だったわけですか」
「そうなんです。本当にあなた方が来てくれて良かった。プロジェクト自体、頓挫するところだったよ」
おれは早くも痺れを切らして尋ねた。
「不躾かもしれませんが、対価のほどは」
「ひとり10万ずつ出す。合わせれば20万だ。加えて3ヶ月分の米と魚も出そう。その代わり、ハードに働いてもらうことにはなるだろうが」
「ありがとうございます。一向に構いません」
「こちらこそだよ。宿泊施設は既に公募により用意されている。旧知の友人のツテが動いてくれた。住み込みで働いてもらおう。生活は保証する。そう、二週間だけでも夢を見ようじゃないか、頼むよ」
「よろしくお願いします」
「真夜さんと言ったね。得意料理はなにかね」
「塩ラーメンと、出し巻き卵なら、誰にも負けないです」
「最高だ。その雑多さがいい」
うかつにもおれは少しわくわくしていた。こんな世界じゃ、もう真夜以外は信じないと、どこかで決めていたのだが。

その日からおれたちふたりは3ヶ月後に向けて働きに働いた。会場の設営も人が集まらないというのでやらされ、おれたちはゴミとクズだらけのビーチを、知恵を絞り上げて、クールな、まるで東京の最もトレンディーなクラブの如き空間に仕上げようと努力した。ミラーボールと裸電球を駆使し、夜に映えるような演出を試みると、シゲキチ氏が「ベリー・グッド」と親指を立てた。恐ろしいことにフリー・ラブ・ライムスのスタッフはおれたちふたりにシゲキチ氏、そして宿泊施設を管理する「旧知の友人のツテ」ことジンニと名乗る、年齢不詳の、これまた髭面の男だけだった。ジンニは寡黙な人で、必要以上のことは喋らない。彼はビーチの近隣の廃墟と化した民家を改装してフリースペースを作り、そこに人々を寝泊りさせようと図っていた。その家々の清掃と設営もおれたちが半分ぐらいはやったと思う。民家は地方都市のくたびれたマンションくらいには見えるようになり、壁や床の目立った綻びをおれたちは厳しく電飾とインテリアで隠した。
もちろん自分たちの料理の仕込みにも勤しんだ。おれたちは珍しい料理が作れるわけではない。ならば庶民的な料理を最高の味で提供するまで。真夜は塩ラーメンと出し巻き卵を重点的に作り、おれは鶏の唐揚げを揚げたり滋養のある鶏と野菜のスープを作ったり、とにかく鶏の力に頼って仕込んだ。なぜなら鶏肉は旨いからだ。試作と思索の末におれたちが、なんとかやれるのではないか、という自信を得られたのは、寡黙なジンニがおれたちの塩ラーメンを試食してふとこぼした、「このラーメンは、良い、大変に」という言葉だったことを記しておく。

絶え間ない、疲労のかさむ準備の日々を経て、とうとうその宴が始まる日が来た。二週間の夏の熱帯夜。こんな誰も知らない、ざっくりとしたビーチに誰が来るのかという不安はあれど、何事も渇望しなければ始まらない。おれたちはやる。おれたちはやる。口の中で繰り返し呟いてみる。
フリー・ラブ・ライムスは8月の、気が遠くなるように暑い真夏日の正午に、スピーカーからウェルドン・アーバインの「Sinbad」を派手に再生し、ビーチを解放した。そしてやって来たのは。

「年齢層、高くね?」
おれは思わずこぼしてしまった。何しろやってくるのが皆、ざっくり言ってじいさんと、ばあさんばかりだったからだ。豹柄のシャツにこれまた豹柄のスカートを来合わせた、つまり全身豹柄のばあさんが、夏だというのに重ね着しまくって、口からは尽きない独り言を漏らし続けるじいさんに、「あなたはどこからきたんですかあ、ねえ」と話しかける。まるで相撲取りの如き肥満体型のじいさんが誰ともつるまず地べたに寝そべり、持参のポータブルラジオから鳴る古めかしい演歌に耳を傾けている。とてもヒップなパーティーの幕開けとは言い難かった。だが、おれたちが塩ラーメンを、出し巻き卵を、鶏野菜スープを屋台に並べると老人たちは殺到した。老人たちの誰もが唸りを上げ一心に料理を掻き込んでいくさまは、少し恐怖を感じるほどに強烈な「飢え」を感じさせた。そうなのだ、年齢や性別など関係なく、おれたちはみな飢えている。この国に生まれ、生活を繰り返すおれたちは、厳然として貪欲な飢餓感に満ちたストレンジャーでしかいられない。ならばおれたちのやることはひとつ。ここに集いしストレンジャーたちの腹を満たすためにおれたちは働くべきなのだ。
「旨いのう、旨いのう」と老いた顔たちが笑う。まるでいつか観た、「アイアンマン」の監督が撮った、料理家がフードトラックで旅をするあの映画のような光景だった。このままUSAの大地を駆け抜けてみたい、と思いながら、おれは手を休めず料理を作り続けた。真夜の顔も輝く。彼女はこんな綺麗な顔で笑うのだ、ということをおれはどこかで忘れていたのだ。おれも笑った。
仕事もなく暇な老人たちは毎夜朝まで、シゲキチ氏選曲のディスコ・クラシックでミラーボールのもと踊った。シゲキチ氏自身も踊り狂いばあさんたちをナンパしている。踊り疲れた老人たちをジンニが宿へエスコートする。おれたちは料理を必要に応じて作る。それは爽快な愉楽だった。全ては完璧に進んでいた。

5日目になると、宿から出ない老人がちらほら現れ始めた。そんな日もあるか、とおれたちは笑っていたが、しかし宿を取り締まるジンニの報告がおれたちに緊迫を与えた。
「宗教勧誘が始まっています」
おれたちはすぐに宿へ向かった。
そこでは円を描く形になって、老人たちが声を揃えてなにかを唱和していた。円の真ん中に座っているやけに身綺麗なじいさんが、やって来たおれたちを見やると、「おやおや、みなさん、まあどうぞ座って。はい、この紙をお読みになって」と言い、なにかが書かれた紙を手渡して来た。以下に内容をそのまま引用する。


スタンリー・トリッピーをお呼び立てしよう。この宴に必要な人物。たくさんの子守唄が手向けられる中、打ち上げ花火、線香花火、ねずみ花火が交互に光る。夢に見た強烈な色のケミカルをシェアリングする。どうして僕はこの星に生まれこの街にしがみ付き愛を探すのか。ホコリまみれのプラケースに収められた一枚のCDR。世界を変えるために作られたワークソングがそこにある。走馬灯を無限に生み出す芸術家たちよ、孤独を無作為に暴発させる狂人たちよ、スタンリー・トリッピーの言葉を聞く時だ。この最悪のトライブを分散させる時が来た。ここには戦前が在り、鮮明なる宣言は、崩壊を招くだけの戯言だ。ミスター・スタンリー・トリッピー、あなたの言葉で語る時は今なのです。ミスター・スタンリー・トリッピー、さあこの砕けた世紀末に新たなビートをお刻み願います。対決的な姿勢を崩さないあのステイト。感覚はねじ曲がるばかり。発信しよう。発信しよう。発信発信発信発信発信発信発信発信発信発信発信発信発信発信発信発信発信発信発信発信発信発信


「これはどういう集まりで?」シゲキチ氏が尋ねる。
「この病んだ世界を救うための会合です。わたしはケンイチ。スタンリー・トリッピー・ユナイトの会員番号ナンバーワンになります」
「ケンイチさん、宗教勧誘は控えて下さい。このパーティーはそういった場所ではありません。人々が出会うための、」
「宗教団体ではありませんよ。この混迷の時代に、わたしたちは集まるべくして集まったのです。我々は、ひとつのユニティーです」
「具体的にどういったことをおやりになるのでしょうか」おれは興味半分で聞いてみた。
「ふむ。簡単に申し上げるならば、我々の最終目標は、国家の転覆です」
「国家の転覆?」
「いまこの日本国は、隅から隅まで腐敗し、荒み切っている。働いても満足な対価は支払われず、貧困の中、人々はあらゆるレイヤー上での対立構造に閉じ込められている。それを解放するのがわたしたちスタンリー・トリッピー・ユナイトです。わたしたちは新たな国家をインディペンデントな目線で形成し、貧する人々の暮らしを解き放ち、負荷を抹消する。扶助の精神を基礎に、自立を試み、最終的に、国家を奪還する」
「まったくリアリティのないお話ですね。そんな目論見が上手く行くとでもお思いですか」真夜が言う。
「そうです、おれたちを騙したのはいつだって、社会の変革だとか、よりよい暮らしだとか、甘い言葉で誘うやつらだった。あの地元にいれば分かるぜ」おれもついつい言う。
「速やかに出て行って下さい。このパーティーを政治的な会合の拠点にしてもらいたくない。ここは愛の国だ」シゲキチ氏も言葉を重ねた。しかし周りの老人は既にケンイチの言葉を信じ切っていて、
「なにを言っている。この国は変わらなければならないだろう」
「これは、良い出会いです」
「わたしたちは進化するのよ」
と口々に叫ぶ。啓蒙にいったいどんな手を使ったのか知らないが、状況がまずいということだけは分かる。
「警察を呼びましょう」真夜が言った。
「愛杉市は実験的都市です。警察はいない」ケンイチが言う。
「はあ?」
「警察という存在を撤廃することも、政府の、実験、という名の政策の中に数日前から入っているようで。衆人環視的な社会からの脱却、とやらを狙っているそうです」ジンニが教えてくれた。
「なんなんだ、この国は、この街は?」口からこぼすおれを見やり、
「政治は道楽。喜劇。そしてエンターテインメント。やつらの言葉です。それが全てを証明している。政治家も、民間人も、誰もが自暴自棄になり、自己破壊に明け暮れる。現代の病理です。不満があるならばあなた方も、このユナイトに入りませんか?ここには、あなた方が提唱する愛も、自由も、軒並み揃っている」ケンイチが述べる。
「無理矢理にでも帰してやる」シゲキチ氏がケンイチに掴みかかる。ケンイチがそれをいなし、洗練された柔術のような素早い身のこなしでシゲキチ氏を放り投げた。シゲキチ氏は強く壁に叩きつけられた。
「わたしを倒せるとでも?」不敵に笑うケンイチがそこにいた。おれも真夜も喧嘩などしたことがない。ジンニも完全に萎縮している。
悔しくも、おれたちはひとまずビーチへ戻ることにした。

わけもわからずビーチへ戻ると、わずかな老人たちが誰かを取り囲んでいる。囲まれていたのは、初めて見る顔の若い女の子だった。彼女がおれたちに気付く。そして言う。
「ここ、出会いがあるって本当ですか?」
おれは先程のことも含め、困惑しきっていてなにも言えなかったが、真夜が返してくれた。
「ここは危険だよ。今すぐ帰ったほうが」
「あたしミズナっていって、21なんですけど、家の周りに誰もいないんです。他の街にツテもないし、毎日仕事で忙しすぎて、今日くらい遊びたい」
「宗教家のじいさんが来てしまったんだ。今すぐ帰りなさい。出会いは無い」ジンニが警告する。取り囲む老人たちが言う。
「彼女を、帰さんで下さいよ」
「彼女は楽しい子だ」
「ミズナさんともっと話したいんじゃ」
「もうこのパーティーは終わりです」真夜が言った。「宗教や政治が絡んでる。誰も純粋じゃない」
「そんな、そんなこと言わなくていいと思います。遠くからわざわざ来たのに」ミズナは少し泣きそうだ。老人たちも悲しげに顔をしかめる。なんだか申し訳なくなり、おれは言ってみた。
「分かった、少し話しましょう。ミズナさんの話を聞かせてください」

そうしておれたちはビーチで話し始めた。おれと真夜は同じ町工場のバイト先で出会い、20代の時に意気投合して小料理屋を始めて、思い切り失敗して、またバイトを転々として、稼ぎのためにフリー・ラブ・ライムスに加わったことや、好きな食べ物、今まで起こった親とのいざこざについて話した。
ジンニはこの街に生まれて、少しだけ裕福だった少年時代のことと、アル中になって金を失って、うまくホテル業界に拾われたはいいが、いまも貧困期に患った鬱病が治っておらず、就寝時にいくつかの強い精神薬を服用して正気を保っていることを、ゆっくりと話した。
ミズナは世界への不満をひたすらに言い続けた。給料が安い。若者が全然いない。政治家はバカ丸出し、恋人はいないし、音楽も映画も本も古臭くておもしろくないし、親は勝手に失踪してるし、それに、それに。
老人たちはただただおれたちの話を聞いてくれていた。みんな、優しい目をしていた。
不意にジンニが叫んだ。「踊るぞ!ダンスタイムだ!」
と同時に彼の手によってアース・ウィンド&ファイアーの、あの有名な9月を回想する歌がスピーカーから流れ出し、それからおれたちは狂ったように踊り、叫び、泣き、わめき、嘔吐し、身体に充満した幾多の毒を放出するように踊った。老人たちも無茶苦茶にはじけたダンスをしていて、実に痛快だ。スタンリー・トリッピーがどうしたって?政治が、現代がなんだって?おれたちは楽しむ。動き続ける。明日に向かうんだ。

気付けば夜更けになっていた。ミズナも真夜も踊り疲れて眠っている。ジンニは自分も疲れながらも、同じく踊り疲れたくたくたの老人たちを送っている。「宗教関係のやつらも眠りました」と先程、ジンニから連絡あり。ひとまず安心だ。
と油断した瞬間、突然にすべての照明が割れ、明かりが全て消えた。真っ暗闇が訪れ、なにも見えない。
「スタンリー・トリッピーです!皆様、スタンリー・トリッピーです!」この声はシゲキチ氏だ。目を凝らす。向こうからシゲキチ氏が駆けてくるのがぼんやり見える。しかしその姿は日中とはまったく違う。紫と黄緑の三角形がいくつもあしらわれた奇妙なガウンを見に纏い、顔は思い切り黒塗りになっている。
「シゲキチさん!」真夜が叫ぶ。向き直った彼が実に大仰な口調で言う。
「わたしはスタンリー・トリッピーです。あなた方にも分かるはずだ。わたしのことは、いまや世界の誰もが理解してくれています」その声色まで妙に野太く変化している。やつらに完全に洗脳されてしまったことが窺えた。そこにケンイチが物陰から姿を表す。

「光を!」彼が叫んだ瞬間、海が赤黒くグロテスクな色味に光り出した。強い光によって照らされる砂浜が、不吉な色に変容していく。
「歌を!」ケンイチが叫ぶ。静かに現れたのは、白い服を着た聖歌隊だ。その顔をよく見れば、彼らは宿に戻っていた老人たちだった。彼らは一斉に、下手クソで乱暴な「アメージング・グレイス」を歌い始めた。真夜はジンニを呼びに行った。ミズナはただ座り込んで呆然としている。
間もなくシゲキチ氏、いや、スタンリー・トリッピーが雄叫びを上げ、海に向かい走っていく。彼は一枚一枚服を脱ぎ捨て、最後には裸になり、海にドボンと沈んだ。瞬間、極彩色の花火がおれたちの頭上でドカンと打ち上がり、「降臨」という二文字が花火によって浮かび上がった。
永遠にも思える戸惑いの時間の中、「アメージング・グレイス」が繰り返し歌われ続けた。あまりに下手クソで、喉声の、リズムも合わさっていないような酷い合唱に気がおかしくなりそうになる。やがて静かにスタンリー・トリッピーが海から這いながら戻ってきた。海藻が体にまとわりついて、手には何匹かの魚を捕らえている。強張り動けなくなっているミズナの背後に、ケンイチとスタンリー・トリッピーが歩み寄り、彼女の両肩に手をかける。
「女帝誕生です!」
地響きのような歓声とともにミズナはふたりに抱かれた。おれはもはやなにをどうしていいかわからなかった。真夜とジンニが戻ってきたときには、ミズナはもう彼らのものだった。ジンニが「申し訳ない、ぼくも疲れて眠ってしまって」と弁明した。しかし、もはやパーティーはスタンリー・トリッピー・ユナイトの意志によって動かされている。おれたちに発言権は無い。いくら叫んでも、誰もこっちを見ちゃいない。
「国家転覆!」
「国家転覆!」
ミズナが髪を振り乱して叫んでいる。スタンリー・トリッピーもケンイチも叫ぶ。どこからか持ってきたビールの栓を抜き、ミズナがグイッと飲む。みんなが叫んでいる。ビールをかけ合いながら、抱き合う。あまりに爛れた、どこまでも剣呑な熱狂。
「逃げよう」おれは真夜とジンニに言った。靴の脱げそうな勢いで走って三人で車に乗り込み、荷物もほっぽり出して、全速力でエンジンをふかしてその場を後にした。とにかく自分の街まで帰り着かねばならないと思った。彼らを救うことができなかった悔しさや悲しさも、正直どうでもよくて、正気が残っているおれたちまで生きて帰れなくなったら、なにもかも終わりだと感じていた。

その夜は帰路の途中でたまたま見つかったネットカフェになんとか三人滑り込み、次の日の朝、一本の動画が話題になっていた。
「スタンリー・トリッピー・ユナイトの革命前夜」と題されたその動画は既に世界中に拡散されており、そこにはビーチの照明が破壊された瞬間から、ミズナが洗脳され彼らの仲間になる流れまでが、異様に克明な画質で記録されていた。動画の中にはおれたちが戸惑って動けなくなっている様子も確認できたが、アングル的にはカメラの隅に追いやられており、まったくフォーカスされない。まるでモブのように扱われている。同時に彼らの「声明文」(ケンイチに紙で手渡された例の文章だ)、団員ひとりひとりのプロフィールがSNSに掲載され、こちらも凄いスピードで拡散された。ネットの速報によると、彼らはあの宿に未だ立てこもっている。やってくるマスコミや国家関係者を、ケンイチがあの手捌きで次々になぎ倒すニュース映像が拡散され続けている。シゲキチ氏、いや、スタンリー・トリッピーとミズナは、まるで祖父と孫のように親しげに肩を並べながら、なにかの絶頂を垣間見ているような恍惚の表情を浮かべ、「世界中の貧困を終わらせます」「罪のない国民をコントロールしないでください」「すごく楽しい国を作ります」「みなさんも、愛杉市へおいで下さい」と繰り返し、視聴者に向かって言った。

そして明くる日が来るとおれたちはまた生活のためにバイトを転々としたが、相変わらず少ない収入に親の介護のシビアさも相まって、結局は貧しく行き詰まった。電気もガスも満足に点けられない生活はあまりに荒廃したもので、しんど過ぎて逆に現実感が無いほどだった。耐え切れない、なぜこんな運命なの、と真夜は毎日泣いた。おれたちは意を決した。それぞれの両親も連れて愛杉市に移住し、スタンリー・トリッピー・ユナイトのもとで生活させてもらおうと。

一度は抵抗し逃げておきながら、ユナイトに慈悲を乞うおれたちを、彼らは優しく丁重に迎え入れた。はじめは違和感や忸怩たる思いがあったが、実際、日本では当たり前の貧困が横溢する荒れた生活より、自給自足を徹底し、住宅も共用で家賃も払わなくてよく、気晴らしに踊りたくなったらビーチでいつまででも送れるスタンリー・トリッピー・ユナイトのもとでの生活のほうが明るく、ひとつの嘆きもなく、楽しいのである。
街や貨幣の概念から解放されたおれたち三人は毎晩飲み明かし、過去を忘れ、笑った。ケンイチはその戦闘力の高さから強さの象徴としてマッチョ気質の若者の崇拝を浴び、ミズナ女帝は国の頂上に立つ美麗なるクイーンとして人々の羨望を集め、スタンリー・トリッピーはもはや年老いたシゲキチ氏であったことが嘘のように、インターネット越しのアジテーションを繰り返す、見事なまでの、若々しく陽気なる、いち国家のボスになった。
世界全体でルームシェアをするように生きよう。とオンラインによる「朝の儀式」でミズナ女帝がおれたちに告げる。毎朝のことである。彼らは巧みな啓蒙によって国内有数の技術を集め、自力で開発した動画配信サイトによって強固な情報発信のためのシステムを築いていた。スタンリー・トリッピー・ユナイトは貧困層、リベラル派を中心とした信者を日本中に持った。どんな境遇からでも人間は独立でき、インディペンデントでありたいという意志に国家は介在できない、ということが教祖スタンリー・トリッピーの思想であり、それに賛同する人々は意外にも多かったのである。誰もが飢えたストレンジャーで、どこかで潔白なる救いを求めていたのだと、おれはふたたび認識した。もはや腑に落ちるばかりだった。
そしてかの声明文を、いまや日本中のほとんどの人々が画面に映る女帝とともに高らかに音読し、「朝の儀式」が終わると、おれは明日の食糧を担う田畑を耕すため、着替えて家を出るのだった。ほら、真夜とジンニが呼んでいる。行かねば。

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