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思ってたってできないときが、あるんだ

先日、10年来の仕事の関係者と会って、そのあと25年来の友人と会った。

前者のひとたちも、後者の友人も、今の私の暮らしぶりを聴いて、いろんな反応をしてくれたのだが、なんだかもやもやしたのである。

まずは、一次会。
小さなシンポジウムが終わり、東京駅近辺の雑踏の中、私の小さなスーツケースがやっと通るほどの階段を3階まで登り、ひしめき合って座ったころにはくたくたで、みんな、生ビールが恋しくてしょうがないという体だ。

彼らは、私の暮らしぶりをFacebookでしか知らない。私のFacebookは、身内も見ているし、言論統制がかかっているから、キレイなことしか書かない。

子育て中の面白い話や、観光名所に行ったこと、この地方の美味しいもの。家業にいそしみ、地域に溶け込もうとする、良き妻よき母親よき伴侶よき嫁に見えるように、書いている。
そう、そう見えるように、書いているのだ。

だから、ビールが来るまでの間に「かおりさん、Facebook見たら、新生活楽しんでるみたいだけどどうなの」と聞かれた瞬間、私は反射的に叫んでしまったのだ。
「あれは、そーとーむーきー!!」

一同が大爆笑して、それが乾杯の音頭みたいになってしまった。
そこから先は、もう、私のケアをみんなでやってくれた。
話を聴き、肯定し、慰め、励まし、解決案を考え、同情したり、泣いてくれた人もいた。

今までの私の仕事ぶりを知っている人からしたら、やはり今の暮らしは衝撃なのだろう。
留守番することが仕事で、自由に出かけることができなくて、外向けの仕事ができなくて、息抜きもできない。門限は16:30で、自分のスケジュールで動けない。外泊も旅行も好きにさせてはもらえない。
何より、自分の意志や意見が通らず、自律的に生きられてない。

空き時間やごろっと寝っ転がれる時間がないわけじゃない。
けれど、そういう日は「留守番をしている」という日なのであって、制限の中でそうしているに過ぎない。
先日は、とうとう帯状疱疹が出現してしまったんだよ、なんて話をすると、彼らは一応にしかめっ面をして、同情してくれるわけだ。

そして、こう言ってくれる。
「よし、かおりさんに仕事を発注するから、仕事で出ておいでよ。泊まれるようにするから」
「もったいない。今までの知見を活かす仕事をすべきなのに!」

ありがたいよね。涙ちょちょぎれる。

でも、同時に私の脳はこんな風に働くのだ。
・・・夫や義実家に説明して説得する労力がめんどうかも・・・
だったらもう、このままでいいよ・・・いやな顔されたくないもん・・・

ああ、この思考回路がもう、私に染み付いている。
きっと多くの人が、ほんとうに多くの人が、この思考回路になっているのではないだろうか。特に女性に。

私の仕事の業界は、割と女性のリーダーが多くて、バリバリやっている人ばかり。去年までは私もそこに名を連ねていたから、そういう思考回路になることは不幸だと思っていたし、ジェンダー問題だよなぁとも思っていたし、そんな昭和な価値観には堂々として立ち向かっていいんだよとも思っていた。

だけど、たった今の私は、いたくナチュラルにそう思ってしまうのだ。

あからさまに反対や禁止とまでは言われない。けれども、なんだか嫌な顔や不愉快な反応をされることで、決して快く思われないということがわかる。そのことが、どれほど自分の心を抉るか。
そしてじわじわと染みついていくのだろう。
このひとたちの顔色を窺って、気に入られることしかしてはならないし、あらゆることに許可をもらわねば生きられないのなら、衝突は避けるべし、と

けれど、自分の話を聴いてもらえて、言いたいことが言えて、気遣われるということがどれほど大事かを知っている仲間たちだから、本当に救われたと思った。私のことを確かに評価してくれる仲間が、ここにはいるのだ。

そのことが、大きな希望になる。たとえみんなと同じ道は歩めなくても、私は私の持ち場でできることをやろうと、そんな風にも思えた一次会だったのだ。


さて、次の日の友人とのランチだ。
この友人には、昨日あった話をした。こんな風に言われて同情されちゃったし、傾聴された感じだったんだよ、と。
彼女は、まったく別のことを言った。
「同情する意味が分からないな」「かおりが自分で選んだ道なんでしょ」「でもさ、学力や能力を活かさないのがもったいないなんて、それも間違ってるよね。主婦だって立派な能力だしね」「忖度して生きるのが楽ならそれでいいじゃん、そういう生き方もあるもん」「本人の納得なんてある意味、思い込みだしね」「全部受け止めて、修行だと思えば」

お、おう・・・

彼女はシングルマザーでもあり、色んな苦労をした人ではある。
自分で起業して頑張ってきた人だから、そういう強者の論理を持っている。

でも、なんだか聴いてもらえないんだなぁと思ったのだ。
彼女が言っていることはひとつの正論ではあるけれど、相手に対して自分の結論を言い放つのは、決して配慮ではないしケアでもない。
何より、私の仲間の思いやりを否定するのは、正直気分のいいものではなかった


なんだか、たった一日で、まったく正反対とも感じるほどの会話をしたので、私はいたく疲れてしまった。

もちろん、友人との会話が何もかも全部が嫌だったというわけではない。あれこれ語って、恋バナの続きや彼女の仕事の話も聴いて、本当にいい仕事してるんだねって思うから、これからも心から応援しようと思う。

でもなぁ。
なんていうのかな。
すべての人が「自分で選んだ道なんだから、辛いことがあっても自分の思考回路を変えてプラスに受け止められる」わけじゃない。
しかもそれは、人から言われてできることでは全くないのだ。

もちろん、そうできる能力のある稀有な人が、世に羽ばたたき、活躍しているのだとは思う。
だけど、そんな人ばっかりで世の中出来てないからね。
私はどちらかというと、強い論理を持ち続けることができなかった人間だ。それを目指した時代もあったのだけれど、でも私は、「ポジティブであれと言われても、どうしてもできないときだって、あるよね」というスタンスでいたいと思うのだ。


そういうときに、そっと隣にいて話を聴くだけのひとになりたいなぁって、そんなことを思ったのだった。


















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