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講演会「台湾客家と日本―20世紀前半を中心に」 | 大人の学び

2024年9月7日(土)、国立民族学博物館 第552回友の会講演会「台湾客家と日本―20世紀前半を中心に」+企画展示見学会に行ってきました。

みんぱく創設50周年記念企画展
「客家と日本―華僑華人がつむぐ、もうひとつの東アジア関係史」
の関連企画で、
初日に行われた座談会↓に続いて行われました。

先日の座談会は、企画展の展示に協力された方々(source communityというらしいです)を招いて直接お話を伺う、というものでした。

今回の講演会は、企画展を企画された研究者による、主に「1895年から1945年の期間の台湾客家と日本の関係史」についてのお話でした。

自分が高校生の頃の日本史の勉強の中では詳しく教わらなかった、そして、その後も触れることのなかった内容で、とても良い勉強になりました。

その「勉強になった」と感じた部分を共有したいと思います。


◾️講師の東京都立大学准教授 河合 洋尚さんの専門は、都市人類学と景観人類学

景観人類学という学問名は初めて聞きました。河合先生によると、これは文化人類学への批判から生まれてきた立場です。

…では、なぜ 1990 年代になって景観人類学という名前が出現したかというと、その理論的な背景には、文化を書くこと をめぐる社会・文化人類学内部での反省があった。社会・文化人類学者は、異文化を書くとき、意識的あるいは無意識的に自社会にはない風変りな要素をとりあげる傾向にあり、それがエキゾチックでノスタルジックな異世界を生産してきたことが批判されたのである。

河合洋尚「景観人類学:認知とマテリアリティのはざま」民博通信 No. 143
https://www.minpaku.ac.jp/sites/default/files/research/activity/publication/periodical/tsushin/pdf/tsushin143-09.pdf

「異世界の生産」にならないために、ある文化を描くにあたって、その地域の景観に対してそこに暮らす人々が持つ認識と関係する外部の人間が持つ認識の立場によるズレや政治力学、そして景観の物質的側面との関係に着目します。

みんぱくは、民族学博「物」館ではあるが、「物」の背後にある文脈やストーリーに目を向けるべきだというメッセージをここ数回の講演会で受け取ってきたように思っています。

人間の作ったある「物」が、なぜそのような形で存在する(または存在した)のか、どういう意味を持つものであるのかを理解することは、今の自分(または他者)の生活を、客観的・批判的に理解することを可能にすると思うからです。

この景観人類学も、同じ方向を志向する考え方だと思いました。


◾️1895年から1945年の期間の台湾と日本の関係とは?

1945年は、終戦により日本による台湾の植民地支配が終了した年というのは分かりました。しかし、説明を聞くまで1895年が何の区切りになる年なのかピンとは来ていませんでした。

1894年に始まった日清戦争の翌年、日本が勝利し、講和条約である「下関条約」により、台湾が日本に割譲された年でした。

(このほか、清国が朝鮮の独立を承認する、遼東半島・澎湖列島を日本に割譲する、賠償金2億両を支払う、欧州諸国と同様の通商航海条約を日本と締結することが講和の条件とされた。ただし、遼東半島は三国干渉により清に還付された。)

このことは、習った覚えがあるのですが、日本に割譲されることになった台湾がどうなったのかについては、ほとんど何も知りませんでした。


・1895年:乙未(いつび)戦争

日本による接収に抵抗するゲリラ戦が民衆により展開され、双方共に1万名を超える死者が出たようです。

戦いの様子は、映画「一九八五」で描かれています。

また、この戦いは、台湾の多様な民族が結集して国を守ろうとした、誇りある戦いであるとされ、現在も記念の式典が行われています。


・20世紀前半:平定後の日本による統治

日本の統治時代についても初めて知ることがいくつもありました。

① 地名を日本語に変更する、学校で「国語」として日本語を教育する、「国語の家」↓を認定し優遇するなど、皇民化政策が進められた。

90歳以上の年代の方であれば日本語が話せる台湾人が多いというのは知っていましたが、このような仕組みがあったからでした。

「国語家庭」とは、台湾人が日本語を学び使用することを奨励するために、各級の地方政府が設けた制度である。家族がみな日本語を話すのであれば、各級地方自治体が設けた国語家庭審議会に申請することができ、審査を通れば「国語家庭」になれ、証書、褒章、「国語家庭」の門標がもらえた。「国語家庭」は栄誉とみられるとともに、多くの優遇措置が与えられた。たとえば「国語家庭」の児童は、比較的程度の高い「小学校」に入ることができ、優先的に中等学校に入学することもできた。公的機関も優先的に「国語家庭」の家族を採用するようになっていた。各種営業免許申請も「国語家庭」の許可は容易であった。1942年(昭和17年)4月には、全台湾で9,604戸の「国語家庭」があり、総人数は77,679人であり、当時の台湾の総人口の1.3パーセントにあたった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/皇民化#「国語家庭」

また、医学教育など高等教育を受けるために子弟を日本に留学させる客家も多かった。

② 日本により、鉄道・道路・灌漑施設などのインフラが整えられ、産業が近代化され、景観が大きく変わった。

 1) 日本人技師により灌漑施設が整備され、コメ・サトウキビの栽培が進んだ。

 2) 茶の生産・輸出、樟脳生産のためのクスノキの伐採が進んだ。
 客家の居住地域と茶・樟脳生産地がかなり重なっている。
 日本によりアメリカ産のタバコが導入され、客家地域で盛んに生産された。
 →近代化された産業と客家の結びつきが強い。

③ 官営の日本人移民村が次々と建設された。先駆けとなる花蓮の吉野村の周囲には客家が住んでいて、小作農として吉野村で働く人もいた。吉野村では、戦後日本へ引き上げる際に親交のあった客家に土地を任せ、現在は客家の居住地になっている。

割譲後すぐの時期は、日本軍への抵抗の中心に客家の人々がいたようですが、平定後は、日本が導入した産業の担い手となったり、戦後は信頼関係を元に日本人村を引き継いだりしたようです。


これまで「台湾の人は日本に対して友好的」と無邪気に考えがちでした。

しかし、今回、2国の歴史を知り、また、日本在住の客家の方々の思いを直接伺い、関係が良くなかった時期のことも理解した上でこそ、きちんとお話ができるのだと思いました。

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