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生きにくさの正体

生きにくい。

正体を探ってみると、いくつか見えてくるものがあった。何も解決策は示さないし、示せない。でも、それが見えるだけでも、何か違ってくる気がする。

①まず、給料が安い。のに助けてくれる社会制度と空気感がない。

一生懸命働いているのに、給料が安い。ひと昔、いや二昔前と額が変わっていない。そればかりか、社会保険料に税金の負担は以前に増しているので、実質目減りしている。

なんといってもクイズ番組の賞金が何十年も100万円のままなのだ。インフレが一向に進んでいない証拠だ。

我々が生きるのは資本主義社会だから、資本家が金を貯め込んで労働者に還元しないのは、理屈のうえでは納得できる。しかし、貴様ら資本家を食わせているのはこのわれらプロレタリアートであるのは紛れもない事実だ。対立を煽りたいわけではないが、必要十分以上の金を稼いでいる資本家様らには、もっと金を下々に循環させることを考えていただいても、罰は当たらんと思う。

政治家の皆様にしても、特に与党のお偉方、数十年先まで急激に増え続けるご老人のため、暴走大統領(敢えて国名は挙げない)のご機嫌取りのため、社会保障費に防衛費に出費が痛いのはわかる。わかるのだけれども、その対策がなぜ消費増税であるのか?なぜ誰も読まなくなった新聞の軽減税率で未来を担う赤ん坊のおむつが増税なのか?なぜ所得税率の累進課税強化ではないのか?なぜフリーランスに対するインボイス制度なのか?なぜ、カジノ法案なのか?なぜオリンピックなのか?なぜ万博なのか?

どれも個別の政策として、明白におかしいと非難できるものではない。例えば消費税については、確かに逆進性が酷いけれど、増税による税収増分の使い道を本当に正しくすれば、逆進は緩和でき、福祉の向上につながる。たとえばオリンピックは、ほぼ自動的に日本の国際的なプレゼンスを高め、観光の発展を後押しするのは間違いない。

しかし、なぜ他にやることがあるのに、しないのか。

女性の育休取得義務化、有給休暇完全消化の義務化、高等教育までの無償化、など。近い将来の日本を確実に良くすることができ、かつ長期的な費用対効果が圧倒的にハイパフォーマンスな政策が、他にいくらでもある。

なぜ、目先の増収だけしか見ないのか。

②将来への不安が拭えない。

年金が足りない。AIが登場していつクビになるかも知れない。結婚はしたいけど相手がいない。定年過ぎて新しい家を探そうにも大屋が高齢者を拒否する。実家を相続するとべらぼうな相続税で飛んでいく。

挙げればキリがないけれど、10年先を見通せないこの恐ろしさ。

なんでこんなに不安にならなければならないのだろう。

どうせいま年金の心配をしている人が老いる頃には、平均寿命は90歳に掛かって、健康寿命も80歳くらいにはなっているだろう。その頃には大屋も高齢者は孤独死するから貸したくないなんて言ってられなくなるし、どんな大都会でも人手は足りてないから老いぼれの手も借りたいと言ってもらえる。2019年の年金制度が想定している65歳以降働かない人生など、その頃の未来には天然記念物と化している。
心配しなくても、働かざるを得ない。

AIがなぜ怖いか。知らないからだ。同じことは各産業革命の時期に等しく起こっていた。最近だとPCの登場に人々はおびえたが、結局大して職は奪われなかった。奪われた単純作業の時間は、他の仕事を生み出したからだ。AIにしても同じことだ。あらゆる職業が奪われるかのようなネガティブ商法が流行るが、AIは人工知能であって人間ではない。我々は自分でもよく考えないままに、名もなき仕事を数多くこなしている。

例えば行政職の公務員は、窓口に立っているだけではない。いくつもの課や企業との折衝をしている。そんなことはいくら知能が発達しようと、感情がなければできない。

例えば弁護士は、クライアントに法的アドバイスをするだけではない。顧客が抱える人間的な背景や明文化し得ない機微を事細かに咀嚼しながら、相対している。感情がなければできない仕事だ。

自動車は無人化してドライバーが要らなくなる?そんなことがあったとしても、少なくとも半世紀は先だろう。なぜか。

まず完全に全ての車を無人化するためには、現在の道路交通法を完全に崩壊させなければならない。意思あるドライバーが責任を持って運転することを前提とした交通社会であるから、技術が進歩して完全自動運転が実用化したところで、その時点では周りにはウジャウジャと、下手な運転の人間ドライバーが動かす車がうごめいているわけだ。

それら車が全て嫌々運転するドライバーによるものなら話は早い。車は運転してはならず、全て自動運転AIによるものとする、という法律を簡単に通せる。が、話はそう単純ではない。好き好んで下手な運転をするドライバーは私を含めたくさんいるし、世の中にはオートバイという更に危険で不可解な動きをするクルマもいる。やっかいなことにオートバイを動かす人間は大半が趣味人だ。

そんな奴らが、全自動車完全自動運転化法案をうんと受け入れるはずがない。

それに、完全自動運転車がもし万が一、億が一事故を起こしたとして、責任の所在をどうするか。これを明確に答えられる人間はまだどこにもいないだろう。答えを出せるのが、どれだけ早く見積もっても半世紀以上は先になると思うのだ。第一、今新しく発売されている不完全自動運転車だって、物好きが20年以上乗り続けるかもしれない。それだけで、最低20年は自動運転社会はやってこない。

2019年の時点でまだ完全自動運転が普及段階に入っていないというだけで、この技術の普遍化は遠い未来だということが、すぐにわかる。

結婚?頑張れ

③物を言えない空気。あるよな

きっと十年前なら、「馬鹿だな、あいつら。ハハハ」で終わっていた話が、終わらなくなっている。

「馬鹿だな、あいつら」(ハハハ)と思いながらツイッターに書くと、

みんなも同じようにツイートする。

するとどうなる。あたかも、何万もの人間が幼いおふざけを本気で攻撃しているように見えるではないか。

十年前、ケータイでメールを打っていた頃。そんなつもりじゃないのに、、と、意図が上手く伝わらなかった経験は誰しもあるだろう。

最近の炎上騒ぎのほとんどは、たぶんこれで言い表せる。

誰も、おふざけをする少年を本気でぶちのめそうだなんて思っていないはずだ。ちょっと、お灸を据えてやらにゃならんな、このガキには。くらいだろう。でも、SNSには文字情報しか残らない。わざわざ全員が自分の肉声をアップするなら話は別だが。大体が文字で非難するに留まる。だが、文字による非難や批判は、本人が実際に思っている感情を何倍も増幅させた表現として伝わってしまうという特徴がある。

たった1万人でも、1万人が『「軽く」イラっとした』という感情を文字に乗せると、強大な憎悪が渦巻いているように見える。そう。芥川賞作家でもない私たちが放つ電子文字には、感情はうまく乗ってくれない。

④何かをしなければならない空気。私自身が、いま感じている。

別に誰かに何かをしろと言われるわけではない。

だけど、SNSを見れば誰かが立派なところで立派な仕事をしている写真があったり、夢に向かって頑張っている姿がある。休みの日にダラダラするだけの自分は、「ああ、なんて呑気でなんて面白みのない人生なんだ」と思わざるを得ない。

もはや、そういう焦燥感を持つように何かに仕向けられているかのようだ。

ふと気づいた。

そう、我々は何かに、何かを成さなければならないと、思うように仕向けられている・・・・・!!

夢を追うことはそんなに偉いか?

休みの日に何もせずダラダラすることは、そんなに怠惰か?

そもそも、なんでそんな疑問を持たなきゃならんのだ?

よく考えてみよう。その昔。我々が明日を生きることだけに必死だった時代。その頃、個人のやりたいことなんてあったんだろうか。実際のところはどうだか知らんが、あったにしたってできるはずがない。生きるだけで一日は終わるのだから。

多少世界が良くなって、それぞれがそれぞれの仕事を持ち、分業社会になったとき。そのとき、やりたいことはできただろうか。無理だ。自分の周りにあるものは限られているし、生きているうちに足を運べる土地や会える人間も、現代とは比にならない制限がある。

さあ、生きているうちに何度でも世界一周ができて、何万人とでも繋がれる現代。

やりたいことはできるか?

確かにできそうだ。やろうと思えばいくらでも方法はあるし、それを実現する現実的な手段も、先進国の端くれ日本になら、そこそこある。

でも、それを実行する義務はいつ発生した?

そんな義務、発生しちゃいない。使える手段があるからって、使わなければならないわけではない。むしろ、やりたいことを追求する、ということは、現代においてもリスクが大きい。リスクの大きいことを選ぶ必然性はない。

テレビ、雑誌、本、インターネット、井戸端会議、

いろんなところで成功者「らしき」人のキラキラ輝くエピソードに溢れている。自分もそれを掴まないといけないのかな。そう、思わせてくる。だって、そういう語り口が多いんだもの。

「私もかつては辛い経験をしました。しかし、諦めず踏ん張ったからこそ今がある。諦めなければ夢は掴めるんです」

という、やればできる型の夢ビジネスは、星の数より多い。

そうしてくれた方が、夢を応援するという蓑をかぶって仕事ができるからだ。それは卑しいことではない。正しいビジネスの在り方だ。実際、それに乗って夢を成功させる者もいるのだ。

乗らない、という選択肢も、賢明なのではないのか?

夢を追わない、という人生は果たして愚かか?

確かに、歴史書に名を刻むのは、夢追い人たちだ。誰もやらなかったことを、絶対にあきらめることなくやり遂げ、人類史に多大な功績を残す。

それは確かにすごいことだ。

しかし、どんな成功者の時代でも、その大枠を形作っていたのは我々のような凡人だ。その方に付くことを選ぶ、それの何がいけないんだろうか。

いたるところで目にする、身近な人のキラキラした人生。

それは、本来私とは一切関係ないものなのに。

Inter-netの繋がって絡み合って交錯する網目に乗っかっていると、なぜだか微妙に自分と同じ世界のことのように見えてしまい、本来なら自分も頑張ってそこに達しなければならないのに、という意味不明な劣等感が沸いてくる。

Internetは自分と他者の世界を繋げてくれる貴重なツールだが、繋げなくていいところまで繋げてしまう。

私が見ている世界と、私の目に映る他者が見ている世界は全く違う。

そんな当たり前の前提が、微妙に崩れてしまう。この社会。

心と人生が繋がっていたムラ社会から、

何も繋がらなくなった孤独社会。

そこに差し込んだインターネットという光。

彼は、心も人生もうすーく繋げてくれた。

うすーく。

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