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「話し言葉」の「書き言葉」に対する優位

どうも現代思想ではパロール(話し言葉)がラング(書き言葉)に優位するという議論があるらしい。そうだろうラング(書き言葉)は一度発せられるとテクストとなって転々流通して、著者の意図と違う誤読をされてしまうことも多いので直観にも一致する。

テクストが駄目だとするとどうすれば「真理」は言明できるのか?その答えはソクラテスとプラトンにある気がする。

ソクラテスは現代の議論を認識していたのかどうか知らんが自分ではテクストを残さなかった。しかし、弟子のプラトンには「対話篇」として残させているのだ。

「対話篇」ならパロール(話し言葉)とラング(書き言葉)の中間形態として機能する。会話として発せられるテクストの読解がより鮮明な文脈の元で解釈され、述べたい「真実」の部分が明確に残るのではないか?

この「対話篇」という形式はツイッターという形式に似ている気もする。面白い時代だ。

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