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アリクイは獏になれない 〜残業病発症抑止機構案件記録〜

 深夜一時だった。
 一時。愉快な響きだ。なんだか踊りだしたくなる。
 だだっぴろいオフィスの中、ほとんどの照明は消されていて、自分の上のエリアだけが点いていた。スポットライトというにはあまりにお粗末で照らす範囲も広いが、あかるい、というだけでいくらでも楽しくなれる気がしてくる。
 オフィスの中には自分のほかに男女が一人ずついた。
 女はパチャパチャと溺れて死にかけているような音を立てながらキーボードを打ち込み続けていて、たまにバックスペースを異様に連打する。男はぼーっと宙を見上げて、もう三十分以上動かなかった。そうしていても仕事は終わらない。でもぼーっとしている。
 分かる。分かるぞ。
 イチジの愉しさに目覚めた自分には男の停止がよく分かった。何故なら残業は素晴らしいからだ。声を掛けようとしたが、
「……」
 うまくいかなかった。しゃべり方がよく分からない。そういえば肩も首も固まってしまっていた。今はどうでもいい。頭の中では演説が始まっている。
 残業!
 残業は素晴らしい!
 一秒一秒、自分の価値を高めてくれる! 心臓の一拍一拍が追加料金だ!
 残業代は上限が決まっている? どれだけ残業してももらえる金額は同じ? いや、そもそも残業代なんてつかない? しかし! 残業した自分だけは自分は価値を分かっている! 残業しない人間は最低の価値しかない! 残業すればするほど人間の価値は上がっていくのだ!
「そこの君、残業はどのくらいかね。はい! もうどのくらいか覚えてないであります! 素晴らしい! 君の価値は計り切れないほど高まっているということだ! ありがとうございます! ありがとうございます!」
 気が付けば声が出るようになっていた。これも残業のおかげだ。
 フロアの二人はそろってこちらを見ていた。彼らもまた、永き残業の旅路で己を高めている同士である。自分が一足先に上の段階に進んだので、羨望しているのだろう。その証拠に、男は目を輝かせてこちらを見ていた。女は息を呑み固まっていたが、どこかへ電話をかけはじめた。きっと新たな神の誕生を周りに知らせているのだ。
 そう。自分は神になった!
 残業により生まれし残業神だ。自分は全ての人間に残業の道を示し、この国を価値ある人間だけにする使命がある。いつの間にかオフィスを埋め尽くす群衆が見えはじめた。人民だ。彼らは救いを求めている。
 ならば神は説こう。残業あれ、と。
 一時。愉快な響きだ。うまく口が動かない。魔法の言葉だ。早く唱えなければ。イチジ。
「イヒヒ」
 神が言うと、残業の徒である男も言った。
「イヒヒ」
「イヒヒ」
「イヒヒ」
 深夜一時だった。愉快な夜だった。


   +++


 多乃井商事の女性社員から通報があったのが一時四十分。
 巡査が駆け付けたのが一時五十五分。
 残業病の発症が確認され、我々アリクイに連絡がはいったのが二時ジャスト。
 緊急招集で叩き起こされた燈子が、大急ぎで支度をして二時四十五分に現場に急行したら、普通は褒めるのもではないだろうか。
「遅すぎる」
 部長の一言目はこうだった。確かに現場からは燈子の家が一番近い。が、燈子にだって人間らしい睡眠サイクルというものがある。夜中の二時に連絡がくる方が絶対におかしい。
「お前が遅いせいでだいぶ盗られたぞ」
「盗られた?」
「このヤマ、お犬様たちと合同だ」
 くい、と顎で示された出入り口から、私服警官らしい厳つい顔の男たちがどやどやと出てくるところだった。
「まさか、ついに残業捜査が警察の管轄に」
「なるわけないだろバカ」
 テレビドラマでよく見るような、イエローテープや捜査員たちの姿はない。が、どこかから誰か、複数の人間が話しているらしい声だけは聞こえてくる。部長の後ろ、ビルとビルの隙間から、赤い点滅が漏れていた。パトカーは裏側に駐車中のようだ。
「なんで警察が……?」
 できれば残業病対策はもう警察様方にすべてお任せしたいと燈子は常々思っているくらいなのだが、そうは問屋がおろさないらしい。いったい何問屋か知らないが仕入れの努力が足らないのではないか。職務怠慢だ。桶屋を見習え。
 心の中でぶつくさ文句を言う間にも、鑑識を呼ぶ怒鳴り声がした。
 鑑識? なぜ?
「人死にだよ」
 部長は顔色一つ変えずに言った。
「飛び降りだ」

 残業病、というのは、ここ五年の間に発見され、急速に広まりつつある精神疾患だ。
 日本固有の風土病でもあり、病名がつく前から多くの人間が犠牲になってきた。残業が社会問題になり、罰則の対象になった今でも罹患者は増え続けている。
 最近でこそ治療薬や症状を抑える薬が開発されはじめたが、それもまだ一般には普及していない。一部の人間が治験を行っている段階だ。
 残業のしすぎで脳の休息機能が壊れ、やがて働きすぎた脳が現実を処理できなくなっていく。止まらない妄想、消えない幻覚、自分は選ばれた存在だという強固な選民思想、あるいは神との同化などなど、症状は様々だ。共通しているのは、発症者のすべてが残業は素晴らしい行いであり全ての人間は残業すべきだ、という考え方になること。残業していない自分には価値がない、始業時間になったが自分は昨日家に帰っていないから通常勤務を残業扱いにしてほしい、残業してこそ働いたと言える。そういった無茶苦茶な思考回路も多くみられる。
 国は総力をあげて残業病患者を一人でも減らす「残業ゼロ計画」を打ち立てた。だが現実には、残業しないでやっていける会社は日本にはほぼ存在しない。残業病が日本の風土病と言われているのは、長い歴史の中で、残業は素晴らしい、という考え方が人々に染みついているからだ。酒の席では残業自慢が多く語られ、寝ずに働いたことを誰もが誇る。結果、「残業ゼロ計画」はエイプリルフールの嘘よりくだらない笑い話になってしまった。
 そこで発足されたのが、

「残業病発症抑止機構です」

 現場になった5階フロアの前で陣取っていた警察官に声をかける。二人一組で門番のように立っていた警察官は、片眉をあげて目配せし合った。妙に腹の立つ、洋画のような仕草に思えた。
「入室の許可を」
 さらに言葉を重ねると、また警察官二人は目配せしあってから、手だけでドアを示した。もしも口を開いていたら「好きにすれば?」とでも言っていただろう。
 フロアの大部分が一つの大きな部屋になっていて、ワーキングデスクが向かい合わせになった列が十は並んでいる。入り口から遠い方のお誕生日席に、それぞれ管理職席らしいデスクも一つずつ置かれていた。息苦しそうな職場だ。
 部長は他の仕事があるとかなんとかで、燈子だけが現場を調べにくることになった。人死にがあった方の“現場”はここではないらしい。
 腰まである高さの窓が、一枚だけ開いている。
 夜明けからも夜更けからも遠い、微妙な夜の風がカーテンを揺らしていた。
「患者の席は……ここか」
 燈子にとっての現場は、人死にのあった場所ではない。残業病が発症した場所だ。今回は警察がいるので、と部長から渡された白手袋を嵌める。
 デスクの引き出しを開け、ファイル類を確認していく。患者は整理整頓があまり得意なタイプではなかったようだ。使用されている引き出しは上の二つだけで、一番下の大きな引き出しには裏紙やもう使っていないであろう書類が詰め込まれ、半分ほどしか開かなかった。
「……この性格なら」
 ディスプレイに付箋で張り付けているタイプが一番多いのだが、ない。それならば、と、座席正面の薄い引き出しを開けると――あった。A4の用紙に印刷されたIDとパスワードだ。たぶん入社時に渡されたものを、なくさないようにそのまま保管していたのだろう。すぐさまパソコンを立ち上げ、それらを入力する。
 最後に送信されたメールが〇時五三分。『最近使った書類』の一番新しい更新日時は、同じく〇時の五十一分だった。この会社の定終業時は十七時三十分。実に七時間以上の残業だ。
 それらの証拠データをデジタルカメラで撮影し、スクリーンショットとしても印刷する。最後に送信されたメールも印刷。会社用のプリンタで会社が不利になる証拠をガーガー印刷してしまい、申し訳ない限りだ。こちらも仕事なので許してほしい。
 窓の外からはわいわいと人の話す声が聞こえてくる。どうやら外が警察たちの“現場”らしい。ということは、自然と何があったのか予想がついてしまう。
「……やだやだ」
 残業病発症者の中には、一定数、自殺を計るものがいる。症状が表立ってあらわれていない、潜伏状態があるのだ。一組のチームが度重なる残業で発症直前まで追い込まれていたとする。
 症状が表に出ていないだけで、まだ全員必死で耐えている。みんな我慢している。頭がおかしくなりそうなのに、じっと耐えて働いている。
 そんな中で一人発症者が出てしまうと、あとは芋づる式だ。ほぼ全員が連鎖発症する。だがほんの少し理性が勝ってしまった、あるいは、少しだけ出遅れた、そんな人は、先に発症する同僚たちを見て猛烈な恐怖に襲われる。
 あんな風になりたくない。でも仕事を辞めることもできない。どうしたらいいのか。死ぬしかない。
 潜伏発症であろうと脳は限界だ。思考回路は短絡的になり、極端で、妄想を伴う。どうやって仕事をやめるか、ではなく、仕事をやめることは絶対にできない、を前提に考えるので、仕事から逃れたい一心で死を選んでしまうのだ。
 あるいは、単純に発症の手前で突然死を選んでしまう人間もいる。生に縋り付くタイプは発症し、なりふり構わないタイプは死を選ぶといってもいいかもしれない。
 本当はハードディスクごと持って帰ってまるごと証拠品扱いしてしまいたいのだが、警察がいるのでは無理そうだ。前に警察と仕事をしたときも、普段なら証拠品として持ち帰れるものがほとんどダメだった。何が警察にとっての証拠になるか分からないから、だそうだが、こっちだって何が証拠になるか分からないのだからお互い様だと思うのだが。まぁこちらは国からの委託事業であちらは国家権力なので、致し方ないこととする。
 二時間ほどパソコンの中身を確認し、机を漁り、証拠品を見つけては写真を撮って元の場所に戻すのを繰り返した。いつの間にか警察官がひとり、そばに立ってこちらを監視しはじめたが無視した。こちらは何も悪いことはしていない。
 最後に、開けっ放しの窓をちらりと見やった。まだパトランプの赤い光が壁に反射している。やはり警察の現場は、あの窓の下らしい。
「安心しな。そう時間はかからんさ」
 見張りの警察官が、何を心配したのかそんなことを言った。
「まぁ、自殺だろうよ」
「そうですか」
 特に興味はないです、と分かりやすく表現した相槌を打って、資料をまとめる。もう遺品に用はない。部屋を出る際にもう一度、窓を振り返って考える。
 ——まぁ、他殺だろうな。


  +++


 『以上をもって、多乃井商事の勤務内容は残業病を発症させるに十分な環境であり、早急に改善案の提出を求めるものとする。』……。
 キーボードを打ち、息をするより早くコントロールキーとSキーを押す。
 ファイルを閉じると、ため息と悲鳴の間みたいな長い声が漏れた。大きく伸び。バキボキと首肩腰から音が鳴る。石膏像の方が柔らかいのではないかと思うくらい全身が固まっている。
「終わったか」
 低い声が頭上から降ってきて、伸びをしたまま目を開ける。
 目の下に隈さえなければ百点満点のイケメン——いや、百二十点が目の下の隈で減点されて百点になったような顔で、部長がこちらを見下ろしていた。
「終わりました」
 いつ見ても残念なぐらい窶れているイケメンだ。仕事は正直めちゃくちゃしんどいけれど、この、顔だけは百点な上司のために毎日死んじゃうちょっと手前までがんばって働いてしまう。
「警察の方は終わってないみたいだぞ」
「へえ。真面目に仕事するんですね」
 きっと証拠不十分だろうが自殺で片付けると思っていたが、想像以上に真面目らしい。
「捜査続行の理由はなんだったんでしょう?」
「入出記録だと」
「あぁ」
 入出記録に関しては燈子も確認した。オフィスのドアは社員カードによって出入りがすべて記録されている。社員カードがオフィスのドアをくぐると入室、もう一度くぐると退室。残業ゼロ計画が出されてから多くの会社で取り入れられたシステムだ。ただ一番安いシステムだとカードがなくても入退室自体は可能なので、一度オフィスの外に出て、社員カードを外してもう一度入室すれば問題なく残業できてしまう。多乃井商事のオフィスは、一番安いシステムが使われていた。
「一時の入室ですかね、やっぱり」
「あぁ」
 入出記録に目立った問題はなく、99%の社員が始業時前に入室して、定時にほぼ退室している。残業病の温床となっている会社ではよくあるデータだ。全員が一度社員カードとともに部屋を出て、社員カードを外に置いて再入室し、夜中まで残業する。
 残りの1%が、飛び降りた社員——芹崎、だった。
 最後の記録は入室。それも深夜の一時。
 十七時三十分に退室記録が残っているのは分かる。その時間に退社したことにして、戻ってきて残業をしていた。証拠はないが間違いないだろう。
 では何故わざわざ入室記録を残したのか?
 飛び降り自殺するならそのまま飛び降りればいい。一度オフィスの外に出て、社員カードを取り、再入室する必要がどこにある。
 残業病の自殺は特殊だ。さきほどまで電話で「では明日の会議よろしくお願いいたします」と言っていた人間が、突然発症して自殺することもある。推理ものやサスペンスなどでは、自殺を考えている人間は未来の約束をしたり明日の準備をしたりしない、というのが常識だが、残業病の患者は突然死ぬ。びっくりするほど脈絡なく死ぬ。明日の約束も明日の準備もするし、辞表は用意していない。当たり前に明日も生きるつもりで死ぬ。死の直前の行動のほとんどは常人には理解不能だ。
 もしかしたら飛び降りた社員も、残業が終わってオフィスから出て、明日の出勤記録のために社員カードを手にとった瞬間、発症して飛び降りたのかもしれない。
 その可能性は十分にある。でも、
「——こんにちわぁ」
 妙に明るい、空気から完全に浮いたような声だった。
 突然のことに反射的に声の方を見る。
 グレーのスーツに短く切られた黒髪、細い黒縁のメガネ。
 『いたって真面目な印象を受けるアイテムを使って一番胡散臭いキャラクター作っちゃお選手権』で文句なしの優勝をとれそうな男が立っていた。
「夜分遅くにすいませぇん。捜査のご協力をお願いしたく参りましたぁ」
 ぱかりと警察手帳を開いて見せながら言う。胡散臭さプラス百。どんどん加点を重ねもはや他の追随を許さない。何故かドアの外から一歩もこちらに入ってこないで、大声で呼びかけてくるのも輪をかけて胡散臭い。
 ちら、と隣の部長に目配せする。部長は、隈の濃すぎる顔を最高に歪めて、わざと大きめに舌打ちした。
「……どうぞ」
「どうもぉ」
 ツカツカとこちらに歩み寄ってくるザ・ウサンクサイ・ポリスは、私達のそばで足を止めると再び警察手帳を掲げた。部長ほどではないがほんのりと顔がいいのがまた人の癇に障る。
「七指(ななし)、と申します」
 流石に普通に会話出来る範囲で間延びした喋り方はしないらしい。よかった。ずっと語尾が伸び気味だったり、妙に節のついた喋り方をされ続けたら寝不足にかこつけてキレ散らかしていたかもしれない。
「単刀直入に伺います。誰が殺したとお考えでしょう?」
「……」
 ちら、と隣の部長を横目で窺う。「私は一言も喋りませんよ」の合図だ。睨み返される前についと視線をそらして黙る。
 警察はきっと、トリックが絞りきれないのだ。
 殺しだとは思っている。けれど、確証が持てる証拠がひとつも上がってこない。
 たとえば、一時の入室記録がわざとつけられたもので、本人は一時より先に殺されていただとか、可能性だけ考えればいくらでも思いつくだろう。本当に自殺した線も全然薄くはない。
 最後に送信されたメールが〇時五十一分。
 再入室が一時ちょうど。
 その情報から少し想像をふくらませる。
 〇時五十一分に送られた最後のメールをもって、残業は終了していた。だからオフィスから出て社員証カードを回収した。あとは帰宅する予定だった。
 なのに、再入室した。
 忘れ物をしたなどの理由であれば、社員カードはオフィスの外に置いていくはずだ。残業病が発生するような会社は、記録の管理を徹底する。社員にも厳しく躾けているものだ。
 オフィス内でなんらかのトラブルが起こったから、社員カードを離すのも忘れて舞い戻ってしまった。
 例えば、どんなことがあれば帰り際に戻るだろう。深夜の薄暗いオフィス、自分を抜いて、残っているのはあと二人。この二人のどちらかが、病気の発作を起こしたりしたらどうか。思わず社員カードを置くのも忘れて戻ってしまうのではないか。
 フロアに残っている先輩が、残業病に罹かって突然叫び始めたり、大声で高笑いし始めたり、残業は素晴らしいなどとわめき始めたり。
 そういうことがあったのではないか、と、燈子は思っている。
 では殺したのは誰か。
 部長は眉間を揉み、深い溜め息をついてから答えた。
「芹崎さんを殺したのは……残業病に罹患している社員全員、だろうな」


   +++


 イヒヒ。
 という声が自分の喉から漏れた瞬間、湧き上がったのは猛烈な恐怖だった。
 嫌だ。こんな生活はごめんだ。ついに頭が狂ってしまった。自分が狂ってしまっているのが分かる。もうずっと前から分かっている。入社してすぐの社員研修から、何かがおかしかった。何がおかしかったのか。今なら分かる。何もかもが、だ。
 先輩はいい人だった。でも今、狂ったように喚き散らして高笑いを続けている。人間はこんな風になっちゃいけない。あれはもう人間じゃない。自分の喉からは時折、我慢しきれないように「イヒヒ」という声が漏れる。怖くてたまらない。
 演説じみた喚き声が耳から脳みそをガンガン揺らす。「残業は素晴らしい」。「残業しない人間に価値はない」。「残業こそが正しい人の道だ」。そんなわけがない。もしあれが人間の正しい姿だというのなら、俺は人間をやめたい。あんな風になりたくない。
 これってあれだ。国が散々ニュースで言っている、残業病ってやつだ。間違いない。病気なのだ。治療しなければならない。
 あともう五分、たったの五分早く仕事を終えていれば、おそらく間に合ったのだ。先輩が狂う瞬間を目撃することもなく、家に帰ることが出来たはずだった。なんでよりにもよって、オフィスから出て社員カードを手にとった瞬間だったのだ。五分遅く先輩が狂ってくれたらよかったのに。
 そう思う一方、頭のどこかでは自分もそう思いはじめている。先輩は何も狂ったわけじゃない。あれは正しい人間の姿だ。残業は素晴らしい。残業すれば認められる。残業さえしていれば安心だ。嫌だ。そんなのは嘘だ。人間には人間らしい生き方が他にあるはずだ。ないのか? もう分からない。だれか助けてくれ。
 だれか。
 呆けていた思考が現実に引き戻された。今日残業していたのは三人いたのだ。
 自分と、先輩と、女性が一人。
 森川さんだか森園さんだか、あまり喋ったことのない女性社員だ。
 先輩の演説は聞いているだけで気が狂いそうになる。自分でもこんなにキツいのだから、女性にはなおさら堪えるだろう。残業で疲れ切った脳には辛すぎるし麻薬的な魅力もある。ここにいてはまずい。せめて彼女だけでも害のないところに逃がさなければ。
 出来ることなら自分も逃げてしまいたい。でも先輩には世話になった。ここで見捨ててしまいたくない。声をかけて元に戻ってくれるのなら元に戻ってほしい。一発殴って正気に戻ってくれるならそうする。あとでトラブルになっても甘んじて受けよう。
「もしもし、原課長ですか? 森です。お忙しいところすいません。戸野さんのことで」
 森さんは、誰かに電話をかけているところだった。戸野先輩のことを報告しているらしい。悠長に電話をかけていないで、早く逃げたほうがいい。せめて電話中でも退室を促そう。そう思って彼女に近づく。が、
「戸野さん、条件達成されました。管理職クラスへ昇格手続きをとってください」
「……は?」
「あ、皆さま参られますか。ではそのように」
 電話を切った彼女はデスクの引き出しから小さなアタッシュケースを取り出した。蓋を開けると中にはスポンジのようなウレタンのような緩衝材が詰め込まれており、真ん中にぽつんと、薄黄色の液体が詰まったガラスの筒が入っている。彼女はとてもガラスを扱っているとは思えない少し雑な手付きでそれを取り出すと、戸先先輩に向かって真っ直ぐに歩み寄った。
 躊躇わず振りかぶり、
 横から拳で首を殴る。
 彼女の拳には先程のガラス管が握られており、それが戸野先輩の首筋に当たったようだった。二人は束の間硬直して、やがて戸野先輩が膝から崩れ落ちる。
「せ、先輩……!」
 状況に全く付いていけないが、それでもなんとか二人のもとに駆け寄ることは出来た。そうしなければよかった。森さんは空になったガラス管を無表情に見つめ、戸野先輩はむくりと何事もなかったかのように起き上がる。
 ちょうどそのとき、まばらについていたオフィスの明かりが全灯した。
「お疲れ様だねみんな」
「お疲れ様です、社長」
 森さんが頭を下げ、戸野先輩も遅れて頭を下げる。自分は、動けなかった。その場には社長もいたが、普段このオフィスで働いているほとんどの人間がいたのだ。みんなまだスーツ姿で、中にはどこかに電話をかけている人すらいる。
 この人達は一体何故ここにいる?
 いや、今までどこにいたのだ?
「おめでとう戸野君。君は選ばれし人間だ。残業により精神を研ぎ澄まし、残業に耐えうる強靭な肉体を得ている。これからも我が社のために頑張ってくれたまえ」
 社長が言うと、ざわめきのような囁きのような、静かな歓声があがった。誰もが無音で拍手をした。あまりにも不気味な光景だった。
 戸野先輩は残業病になったのだ。さっきまで発作で喚き散らしていた。国に報告して治療させるべきだし、我が社は業務形態を改めるべきなのに、自分だけがおかしいみたいに世界が正常に進んでいく。おかしい。おかしい。
「お、おかしい」
 気づけば、口に出してしまっていた。
 オフィス中の全員が、一斉にこちらを向く。
「残業病だぞあれは。残業のしすぎで気が狂ったんだ。病気になったら休むだろ。気が狂ったら治すだろ。それが昇進の条件だなんて」
 狂っている。そう言おうとするより先に、社長が言った。
「そうか。君は“理解らない”のか」
 他の皆も口々に続ける。
「戸野くんと一緒にいれば連鎖で“理解る”かと思ったのだが」「こればかりは素質の問題だから仕方がないか」「お疲れさま芹崎くん。ゆっくり休むといい」「我々が力ないばかりに導けず、すまなかったね」「お疲れ芹崎君」「お疲れ様」「おつかれさまでした」
 口々に言いながら、皆が手を伸ばす。あちらこちらから手が伸びてくる。手。手。手。誰かがベルトの隙間に手を入れた。誰かは腕を、誰かはネクタイの根本を、誰かは足を、誰かは下に潜り込んできて全身で体を持ち上げてきた。そのまま自分の体は浮いて、暴れて抵抗することもできず窓のそばまで運ばれていく。頭の中ではこれはまずいと分かっていた。全身で恐怖も感じていた。ただ、お疲れ様。お疲れ様。その言葉のあまりにも甘い響きに全身が痺れてしまって、動けなくなっていた。ゆっくり休みなさい。今までよく頑張ったね。お疲れ様。お疲れ様。
 窓を開けたのは戸野先輩だった。
「悪かったな。連れて行ってやれなくて」
 新入社員研修で、よく来たな、と言ってくれたときと同じ、優しい顔だった。


   +++


 七指さんは胡散臭い笑顔で「ご協力感謝します」と帰っていった。ほんのわずかな時間だったし、喋っていたのはほとんど部長だったのに、なんだかどっと疲れた気がする。家に帰って寝たい。この間ベッドで寝たのが事件発生時だから、もう丸三日はちゃんと寝ていない。
「警察は部長の推理を信じてくれるんでしょうか」
「お前、真上から覗いたか?」
 燈子の質問に全く関係ない質問で返しつつ、部長は頭を掻いた。
「何をですか?」
「飛び降り現場だよ。飛び降りたとされる窓から覗いたのかって話」
「……覗いてないですけど」
 覗きたくもない。そこは芹崎が死んだ場所だ。そんな場所をわざわざ見ようとするほどまでは気が狂っていないつもりでいる。
「警察も気付いてるとは思うがな。見えないんだよ。ビルの六階から一階ってな。窓から身ぃ乗り出して覗き込めば見えるさ。だが、開いてる窓を閉めるためだけに身ぃ乗り出して地面を確認するか? 一体なんのために?」
 部長に言われ、自分のマンションのベランダを思い浮かべる。燈子が住んでいるのは八階なので全く同じではないだろうが、確かに、ベランダから見えるのはマンションの一階部分ではなく、前の通りだ。真下を見た記憶がないということは、見ようとしない限り見えない場所なのだろう。
「ま、証拠は確かに何一つないがな。一時に死んだとされる被害者に対して、通報が一時四十分なのは怪しすぎるだろう。通報した女を徹底的に叩いて、ボロを出させるしかないな」
 疲れ切った頭で部長はばさばさと後頭を掻く。
「あー……」
 その手付きがどんどんと激しくなっていく。あー。あー。と唸り声も大きくなる。
「ああぁぁぁ! もっと探偵ごっこみたいに喋ればよかった! 最悪だ! 俺様が協力してやったのに礼一つで済ませて帰りやがったし! 俺を! 誰だと思ってるんだ! 全能の! 神だぞ!」
「部長はい薬」
 ポケットに常備している錠剤を一つ取り出して、部長の口に放り込む。ついでに自分も飲んでおいた。いけないいけない。忙しいと薬を飲む間も忘れしまう。
 残業病の患者は日々増え続けている。
 最近でこそ治療薬や症状を抑える薬が開発されはじめたが、それもまだ一般には普及していない。一部の人間が治験を行っている段階だ。例えば燈子たちのような専門家が、治験として協力している。
 残業でボロボロになっていく人たちを働きアリに例え、そのアリを飯の種にしている我々を、人は「アリクイ」と呼ぶ。
 休む間はないのだ。

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