辞表を出す。 机の上の辞表を、常務がじっと見つめる。 何度もシュミレーションしていた通り、言うぞ。辞めます。言う。言ってやる。自分に言い聞かせて口を開こうとしたとき、常務がこちらを見上げる。 ただ見上げる。右眉だけがあがる。口角は下がる。言おうとしていたすべての言葉は、喉仏に引っかかって出てこない。 何も言わない俺に、常務も何も言わず、そのまま辞表を摘まむと隣にいたヤギに食わせる。ヤギは唇で食むように辞表をくわえると何も考えていなさそうな顔でむしゃむしゃむしゃむしゃ
すべては一つの嘘から始まる。 小さな嘘をそれらしくするためにまた小さな嘘をついて、嘘が重なって、いつしかそれがとんでもない量になっていく。自分がついた嘘をきちんと覚えて管理しておくなんてのは、人間のちっぽけな脳ではとても無理な話なのだ。 だから私は、ほんの少しの嘘に大量の本当を混ぜておく。 「同級生で? 剣道部の主将で部長で? 帰り道が同じだったから? テスト期間とかに一緒に帰るようになって? 吹奏楽部の練習で遅くなったりしたらたまたま帰りがけに彼氏が待っててくれたりし
このあいだの土曜日は、一人で有馬温泉まで飛んでいった。 空から見下ろすと、明らかに温泉の周りだけ景色が作られている。通り沿いにずらずらと並ぶ土産物屋、行き交う人びと。映画のセットを空から眺めているような光景は何度経験しても楽しい。 上から見下ろすことを、鳥瞰、という。インコの背からその風景を見下ろしながら、まさにそうだなと思った。 逆に温泉へと続く道以外は普通の住宅地とほぼ変わりない。現実と非現実の境界線、というよりは、温泉街だけが、現実世界の中に引かれた非現実という
深夜一時だった。 一時。愉快な響きだ。なんだか踊りだしたくなる。 だだっぴろいオフィスの中、ほとんどの照明は消されていて、自分の上のエリアだけが点いていた。スポットライトというにはあまりにお粗末で照らす範囲も広いが、あかるい、というだけでいくらでも楽しくなれる気がしてくる。 オフィスの中には自分のほかに男女が一人ずついた。 女はパチャパチャと溺れて死にかけているような音を立てながらキーボードを打ち込み続けていて、たまにバックスペースを異様に連打する。男はぼーっと宙を