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水面の下を高く飛ぶ


 このあいだの土曜日は、一人で有馬温泉まで飛んでいった。
 空から見下ろすと、明らかに温泉の周りだけ景色が作られている。通り沿いにずらずらと並ぶ土産物屋、行き交う人びと。映画のセットを空から眺めているような光景は何度経験しても楽しい。
 上から見下ろすことを、鳥瞰、という。インコの背からその風景を見下ろしながら、まさにそうだなと思った。
 逆に温泉へと続く道以外は普通の住宅地とほぼ変わりない。現実と非現実の境界線、というよりは、温泉街だけが、現実世界の中に引かれた非現実という一本の線のように感じた。
 温泉に入ろうかと思ったのだけれど、空は冷える。せっかく温まっても家に帰る頃には冷え切っているだろうし、どうせなら帰ってから近所の銭湯にいった方がいいだろうということで、温泉街とは少し離れた駐鳥場に降り立った。駐鳥には自信がある。
 絶え間なく通る自動運転二輪車たちの横を歩き、大通りから少し外れた。こういうところにある小ぢんまりとした店に入るのが好きなのだ。思わぬ当たり店に出会えると嬉しいし、そうじゃなかったとしても大抵美味しい。少し歩いたところに『うどん、そば、どんぶり 四ツわ』と書かれた店があったので迷わず入った。前を通っただけでもお腹が鳴ってしまいそうなほどの出汁の香りが広がっていた。
 「らっしゃい」と不愛想に僕を出迎えた店主のほかには、おかみさんが一人いるだけの小さな店だった。テレビではお笑いの舞台がやっていて、三つある四人掛けテーブルはそれぞれ、常連客らしい男たちが一つずつ占拠していた。僕はカウンターの席につき、「肉入りカレーどんぶり」と注文する。ヘルメットは椅子の背に掛けておいた。
「お兄ちゃん、なんかに乗るのかい」
 常連客のうち一人がヘルメットに気付いて、声をかけてきた。
「インコです」
「インコ!? その成りで!」
 確かに、僕の服装はどちらかというとタカやワシに乗る人間に近い。全身防寒だしヘルメットもフルフェイスだ。もっと可飛高度が低いインコ乗りにしては物々しい。それでもいいのだ。寒いのは苦手だから。
「見かけだけとりつくろいやがって、腰抜けかい!」
 おかみさんが裏から「ちょっと高島さん。やめてくださいよ」と常連客をたしなめたが、客は聞く様子もなかった。そちらを向くと、暑いのかアツくなってしまっているのか、顔には汗をかきふうふうと肩で息をしている。しきりにズボンの太ももを引っ張っては離す動作を繰り返していた。
「あぁ、」
 とその動きで気付く。
「あなた、タクシー乗りだったんですね」
 言い当てられた客は驚いたのか、一度言葉を失うと机を殴りつけながら立ち上がった。水を入れたコップがひっくり返って、落ちて、カンカラカンカンカン、とプラスチック独特の音をたてて転がっていく。
「やめねえか、ヨシちゃん」
 とうとう店主が奥から顔を出し、低い声で言った。ヨシちゃんとやらはそれですっかり縮んでしまい、椅子に座り込む。わははは、とテレビの中でサクラが大笑いするのが店に響いた。店主はそのまま奥に引っ込むと、今度はカウンター越しにどんぶりをぬっと差し出し、また奥に戻っていった。
 出汁とカレーと肉の香りがふわりと香る。誰かに絡まれたのなんてこれで吹っ飛ぶくらい胸が高鳴った。黙って手を合わせ、れんげで一匙すくう。
「兄ちゃん、運ちゃんの知り合いがいたのか」
 隣の席が動いて、ヨシちゃんとは違う客が隣に座った。失礼ながら食べる方が優先度が高いので、口に入れたまま頷く。豚肉のあぶらとやわらかくなった長葱の甘みが口の中にじゅわんと広がった。たっぷり味わって、呑みこんでから返事をする。
「ひい爺ちゃんが」
 ひい爺ちゃんが、さきほどのタカさんとまったく同じ動きをしていた。個人タクシーなら話は別だが、企業所属のタクシー運転手はスラックスを履かないといけない。スラックスは熱がこもる。張り付いて気持ち悪いから、スラックスの太ももを引っ張って気持ち悪さを誤魔化すのだ。
「そうかい」
「しかしなんだってまたインコなんだ。タカだのフクロウだの、もっといいのがいっぱいあるだろう」
 もう一人、別の客も後ろから話に入ってくる。僕は黙々と食べていたが、二人は僕を交えたつもりで会話をつづけた。
「インコってのは、女でも乗れるような鳥なんだろう」
「タカはいいらしいぞ。インコより高く飛べる。夜目も効くらしいし」
「簡単なのはダメだ。俺らの時代だってオートマは恥ずかしかったんだぜ」
「ミッションでやっと一人前、車乗りを名乗るなら、やっぱ中型は持ってないとな」
「そうか、金貯めてる最中なのか。いつかタカに乗り換えるんだろ。そういうときはいいよな、人生にハリがある」
 僕は曖昧に返事をしたりしなかったりしながら食事を食べると、会計をした。レジで僕の出した千円札のお釣りを数えながら、
「やめときな。乗物乗りだなんて、いまどきもう駄目だよ」
 と店主の男が言った。
 のれんに書かれた「四ツわ」は、四つ輪のことだったのだろう。

 インコの操縦は、実は人が思っているほど簡単ではない。
 そりゃタカだとフクロウだのに比べたらよっぽど簡単ではあるが、そもそも乗用鳥の操縦自体が難しいのだから、他と比べて簡単だとか、軽々しく言ってほしくはないというのが、乗る側の意見だ。
 ほかの何事もそうではあるのだけれど、アレは簡単だとかコレは大したことがないとかそういうことを言うのは大抵やらない人間で、自分はさもできるような顔をして物事をこき下ろすのだからたまったものではない。ではやってみろというと、そんなことを言わないのが礼儀だだの、初心者の自分に出来るわけがないという。練習すれば簡単にできるようになる、自分は練習をしていないから出来ないだけだ、なんて言いながら、決して練習はしないのだ。
 話がそれたがインコである。
 インコというのは乗用鳥の中でもオウム類より小型で昼間用のものを指す。
 オウムより小型で、とはいうものの、昔イタリアから輸入されていたような超小型オウムよりは大きい。今のインコは一般的に日本人向けに改良され続けたモデルであるので、色は美しく、体が小さい者でも乗りやすい。ギリギリ二人乗りまでならなんとか出来る。一種免許で乗れるスズメに比べて普通二種免許がいるが、長時間飛べて乗り心地もかなりいい。ただし、寒さに弱いので冬場はメンテナンスが必要だ。
「あのさ。その話、長い?」
 つらつらと話す僕の向かいで、ルリはつまらなさそうに頬杖をついていた。酒に強くないので一杯のカルアミルクをちびちびちびちびとやっているが、氷もほとんどとけてしまっている。なんだか、牛乳を入れた後のコップに水を入れたみたいな色になっていた。
「いや、なんで?」
「つまんなかったから。他の話ないのかなって」
 本当に心底つまらなさそうにルリが言うので、少しだけむっとした。
 いつも通りだったはずだ。よく行く店に行き、よく飲む酒を頼んで、同じ料理を食べ、いつも通り話をしていた。ルリの話だってつまらなかった。もう半年も同じことの繰り返しだ。新しい派遣先にいるパートのおばさんが、何かにつけルリに文句をつけてくるという話だった。僕が何か改善策を出したりアドバイスをしたところで「そんなこと出来るわけないじゃん」とかなんだとか言って、半年も同じ愚痴をこぼしている。
 僕は最近インコでいったスカイポタリングの話をしていた。
 一人で有馬温泉まで飛んで行った。温泉にも入ろうかとおもったけれども、やめておいた。そんな話。
 同じことばかり話していてつまらないと思われたくなかったから、いつもと同じ話はしないようにしていたつもりだった。
「別にいいじゃん。お爺さんたちに何言われたって。鳥なんて乗ってる人ほとんどいないんだからさ」
「でもさ。簡単じゃないんだよ。それを簡単だなんて言われるとさ。なんか腹たつっていうかさ」
 バイオリンは音を出すのに技術がいるが、ピアノは鍵盤を推せば音が出る。だからピアノは簡単だ、なんて言われたらピアノ弾きは怒るだろう。僕が言っているのもそういうことなのだ。何かより比べて簡単、だなんて基準で話をされては、僕の努力や勉強はどうなるのだ、と言いたくもなる。
「絶対鳥も国の管理に任せた方がいいんだよ。事故ったら落ちてくるからすごい迷惑だし」
「風があるからさ。車より難しいんだよ」
「それも何万回もきいたけど、それをなんとかするのが科学の力ってやつなんじゃないの」
 ルリは乗り物類は一切乗れないタイプだから、こちらの言い分にも理解がない。
 そもそも人間が運転するというのが信用できないのだ。
「大空を翔るロマンがあるんだよ。自動運転では味わえないもんがさ」
「あのさ」
 ルリは頬杖に頬をめり込ませて顔の形を変えながら、こちらを見た。
「私結婚したいから、別れてほしいんだけど」
 睨むでもなく、冷たいわけでもなく、あえて言うなら心底どうでもいいものを見る目だった。


+++


 結婚したいの。あたし。
 だから安全に生きてくれる人がいいわけ。
 死ぬかもしれないようなことを、しかも仕事じゃなくて趣味でするような人はまじでごめんなの。
 国が管理してる自動運転の車に乗ってさ、自動運転のバイクに乗ってさ。そうやって安全に、自分も誰かも殺す心配がない生活を愛してくれる人がいいわけよ。
 自分でハンドル握って、空なんか飛んで、しかもそれがハヤブサとかならかっこいいけど、言ってインコなわけじゃん。
 休みの日に彼氏なにしてるのって聞かれて、毎週インコ乗りに行ってるなんて言うの恥ずかしいのよ。
 分かる? 分かんないかな。
 私もう三十になるの。あんたは三十一でも男だからなんとかなるかもしれないけどさ。私はもう「この人と結婚は出来ないんだよな」って相手と恋人同士やってられる時間はなくなっちゃったの。
 とにかくあたしは結婚したいのよ。この人と結婚したいな、この人だったら結婚できるなって人と恋人でありたいわけ。
 だから別れてほしいの。

 まくしたてるルリの言葉は、少し酔っているように聞こえた。
 いや酔っていたのは僕の耳だったのかもしれない。彼女の言葉と、僕の耳と、どっちが滑っていたのかよく分からない。右から左へとつるつるすり抜けていった別れ話を理解するころには、彼女は一万円札に変わっていた。
 脳味噌の真ん中では理解したものの、端々では全然よく分かっていなかった。終わったのかすら分からないでいた。結局僕はスマホに入った連絡先を、消すべきなのかどうなのか。考えている間にメッセージを受信したスマホが震えて『ルリ、がトークから退室しました』と表示される。本人からのメッセージですらない。アプリが優しく、会話履歴を全削除されたよ、と遠回りに教えてくれただけだった。
 一万円札を会計で支払うとなんとお釣りがきて、雑に渡された千円札と小銭がやけに嫌味に感じた。今までは百円単位の端数くらいしか出してもらったことはなかったのに、彼女の出してきた金で、余りまで受け取っている自分は別の生き物みたいだった。
 とぼとぼと家に帰る。
 歩いていたくないな。
 嫌なことがあるといつも、自分の足で歩くのが嫌になる。
 今、手を軽くあげるだけで、車道を通っている自動運転車が止まってくれるだろう。側道を走っている自動運転二輪車も止まるはずだ。止まっている時間もすべて国に送信されて、後の車がどのくらい詰まるか、交通にどれだけ影響がでるかリアルタイムで計算される。もう六十年ほど前から、この国はずっとそうだ。国がすべての車を管理し、自家用車が禁止され、運転手、という存在はこの国から消え去った。飛行機も、車も、バイクも、電車も、すべて数秒単位で管理されている。乗り込み規定時間以内に乗り込めない人間は、要注意人物として国に報告されてしまう。僕らの世代は子供のころから「電車、バイクには六秒以内、車には二十秒以内、飛行機には五分以内に乗り込むこと」と教えられて生きてきた。
 自由な時間は徒歩の時間だけだ。
 自分で歩くときだけは、自分のペースで、好きなところに行ける。帰りたくないときには家に帰らないこともできる。
 ちゃりちゃりと、腰元で鍵が音を立てる。インコの鍵と、家の鍵と、ルリの部屋の鍵。妙に耳に障る音だった。
 後ろから嫌なものが追いかけてくるような気がした。波だ。波のように嫌なものが押し寄せてくる。頭の奥、どこか遠いところでルリが別れ話を何度も繰り返す。結婚。別れて。あたしもう三十なの。あぁ、歩きたくない。歩きたくない。走って逃げだしてしまいたい。何も考えたくない。どんどん早足になっていく。ルリの声がうわんうわんと反響して、どんどん大きくなってくる。追い立てられる。でも他人から見れば何に追われているわけでもなく、急いでいるのならすぐそばを走っている車に飛び乗ればいいこの状態で、走るだなんて不自然だ。誰かに見られでもしたら、おかしい人だと思われる。もう人間は走る必要のない生き物になった。でも、走って、喚いて、後ろから追いかけてくる、何か嫌なものを追い払ってしまいたかった。
 一人暮らしなので帰りたくなければ帰る必要なんてない。それでも気付けば自分の家の前に辿り着いてしまうから人間は不思議だ。
 アパートの駐鳥場では、カバーをかけられた鳥たちが街灯に照らされ、ぼんやり浮かび上がっていた。夜の美術館みたいな異様な雰囲気だ。カバー越しなのに、たくさんの目にじっと見つめられているような気がする。
 インコは寒さに弱い。カバーをかけずに放置したりするとすぐにエンジンがやられてしまう。カバーをそっと外すと、水色の塗装がところどころ剥げた、しかし美しい機体が姿を現した。強化アルミで作られたボディと、軽量カーボンで一枚一枚作り上げられた翼が街灯の光を複雑に反射させて、きらきら輝いている。
 ルリは、インコによく似た人だった。
 いつでも姿勢がすっと伸びていて、歩くたびに風を感じさせる。冬には着ぶくれして服とマフラーでもこもこになっているのも、可愛くて、好きだった。人に懐くようでいて馴れ合いすぎないところもあった。僕がインコに乗るのだというと、すごいと目を輝かせて話を聞いてくれた。そういえばあの頃は見栄ばかり張っていて、いつかはフクロウやタカに乗り換えるのが夢なのだと大法螺を吹いていた気がする。もともと僕はインコにしか興味がなくて、タカの乗り心地が乱暴なところも、フクロウのインテリぶった操作感も、ワシの見た目にこだわりすぎたところも好きじゃなかった。

 結婚したいのよ。あたし。

 僕もだ。僕も結婚したかった。ルリと。
 本当はもう一台別のインコが欲しかった。乗り換えではなく、今のインコとは別に。けれども、一生このインコと、ルリと添い遂げる覚悟もしていた。子供が生まれたら、一度だけでいい、嫌がられてもいい、インコに乗せてやって、大空を飛びたかった。
 まぁ全部かなわなくなったわけだけど。
 理解は満ち潮のようにじわじわと迫ってきていた。
 別れ話の波はひたひたと踵に追いつき、爪先まで呑みこんで、寄せては引いて、引いたあとはより深く僕を呑みこもうとしている。
 夜の中にインコが光る。
 ああ。いやだ。いやだな。
 頭の中でまだルリが頬杖をついたまま居座っている。口がぱくぱくと動く。動くのとは別のタイミングで、声が聞こえてくる。何度も何度も脳味噌の中で反響する。時折、わははは、とテレビの中でサクラが笑う音や、プラスチックのコップが床を跳ね回る、カンカラカンカンカン、という音も響いた。考えたくなくても、人の頭は考えないことは出来ない。
 もう膝までかかっている理解の波から逃れたくて、インコの背に飛び乗った。
 ボディの首元に引っかけてあったヘルメットを素早くかぶる。
 インコというのは乗用鳥の中でもオウム類より小型で昼間用のものを指す。夜目は効かない。人間のかわりに障害物を察知して自動で避ける機能が優れていない。
 それでも首の後ろにある鍵穴にキーを差し込み、右に回した。
 ぶるりとボディが震えて、小型動物みたいな早い鼓動がドツドツと股に響く。足をかけ、四つん這いになるように右手と左手をボディの中に突っ込むと、内部のハンドルを掴んで大きく引く。どるる、と唸り声をあげて、インコの翼が広がり、すぐさま飛び立った。

 夜の中をインコで飛ぶのは、はじめてのことだった。
 すべてが闇に包まれている。ライトは目の位置で光ってはいるものの、やはり雨天昼用までしか対応していないので薄暗い。
 昼間のインコは何よりも美しく飛ぶ。人間にも障害物がよく見える。大抵の人間は自動運転車や自動運転二輪車を使い、鳥の指定高度は飛行機のそれよりもはるか低くまでしか許されていない。そもそも流通台数が少ない。ぶつかる危険性はほぼないのだ。
 夜間飛行は、想像したよりもずっとおそろしかった。
 タカやワシ、ハヤブサなどの中型鳥類は別の免許がいる。夜間飛行訓練を二十時間以上受けなければならない。僕の持っている普通鳥類二種免許では、夜間飛行訓練は三時間しかない。
 今にもそこから、大型の夜鳥が飛び出してくるかもしれない。見えないけれども明かりの消えたビルがあるかもしれない。「死ぬかもしれないことをさ、しかも仕事でもなく、趣味でやってるような人はごめんなわけ」。死ぬかもしれない。確かに。夜の中をインコで飛ぶと、それが間近に感じられた。このまばたきの一瞬に、僕は自分からコンクリートの塊に時速四十キロで突っ込んで死ぬかもしれない。
 目の前にパッと光が差した。背筋が寒くなっときには、びゅんと目の前を黒い影が横切り、去っていった。中型の鳥だろう。今ぶつかっていたら、僕は間違いなく吹っ飛ばされて落ちていた。ヘルメットに内臓されたAIが示す高度は二〇〇メートル。落ちればまぁ、死ぬ。
 ハンドルを引くとインコはさらに上昇した。二二〇メートル。五〇階建てのマンションよりもはるかに高い。耳の傍で風が鳴り響いているのに、妙に静かだった。半月でも満月でも三日月でもない、中途半端に膨れた月が、それでも静かに光っている。右を見ても、左を見ても、インコの翼が月明かりを反射して、全体がぼんやり光を放っているように見える。自分が飛んでいるのか、ただ浮かんでいるのか分からなくなるほど静かな空だった。
 ぼふ、と枕を叩くような音がして、また影がすぐそばを横切った。タカだ。インコの二倍は大きい機体が、翼を広げて平行飛行に入る。黒い翼は艶めいて光っていた。僕のインコが淡く光っているのに対して、タカのボディは光を切り裂くように飛ぶ。
「よう。失恋かい」
 ヘルメットの中に直接声が響いてきた。リンク通信の範囲内らしい。
「なぜ?」
「インコ乗りが夜に飛ぶとき、高く飛ぶときは、失恋したときだ」
「あなたに関係ないでしょ」
「あるさ。この高度は小型の範囲外だろ。それにこのクソ寒いなかでエンストを起こされても困る。落ちたのがインコでも、非難されるのは鳥類全般だ」
「……降りますよ」
「まぁそう言うな。ゆっくりしていけよ。空は人間に許された唯一思考の場所だ」
「……」
 言うなりタカは一度大きく羽ばたいて、高度を下げた。僕らの下に張り付くように、ぴったりと寄り添って飛ぶ。そうやって飛ばれるとやはり一回り以上大きいのが分かり、インコの影が雲にプリントされているようにも感じた。それきりタカはこちらに話しかけてくることもなく、静かに僕らの下で飛んだ。
 音はない。
 静かだ。
 さっきまで頭の中でうわんうわんと鳴り響いていたルリの声も、気付けば静かになっていた。落ち着いて、ぼそぼそと、言いにくそうに僕に打ち明けてくれていた。
——ねぇ、いつまでインコに乗るの
 ルリが問いかけてきたことがあった。僕は答えた。六十五ぐらいかな。高齢者マークなんて貼られちゃ、インコもかっこ悪いし。……確か、そんな風な答えだったと思う。そのときルリがなんと返事をしたのか、相槌を打ってくれたのかすら、思い出せなかった。きっと他にも思い出すことのできないやりとりが僕らの間でたくさん交わされて、その結果が、今夜だった。
 ルリを大切にしていなかったわけではない。インコの方が大切だったわけでもない。インコには六十五まで乗り続けるつもりだったが、ルリとは死ぬまで添い遂げるつもりだった。二つのどちらか、ではなくて、一人と一つだったから、比べようもないことだった。
——あなたの夢見がちなところ、嫌いじゃなかったんだけどね
 一万円札に変わる前、ルリが言った。ルリの最後の言葉だった。夢見がちだったのだろうか、僕の脳味噌は。僕の大切は、ルリには届かなかったんだろうか。下でインコが大きく一度羽ばたいた。羽ばたきに煽られて、僕とインコはほんの僅かだけ浮いて、元の高さに戻った。
 ルリの話がつまらなくても構わなかった。これからもずっとこういう風に、会話を続けてお互いの変化がないことを確認し続けて生きていくのだろうと思っていた。
「ねえ」
 リンク通信を繋いで下のタカに話しかける。
「恋人とタカとどっちが大事ですか」
「やめろやめろ。俺はそういうのは柄じゃねえんだ」
 雑音と共にタカは応えた。
「僕は彼女を大事に出来なかったのかもしれない」
「やめろって」
「何故でしょう。確かにインコは手間暇かけて整備してたのに」
 そうだ。お金も時間も手間も暇も、何もかも僕はインコに費やしていた。休みの朝からインコの整備をして、空を飛んだ。どこにでも好きなところに行った。人の少ない日に休みがあるほうが飛びやすいから、平日休みの仕事にした。彼女は土日休みの仕事だった。僕だって土日に休みをとることだってできた。実際、勤め始めたころは、毎週土日のどちらかに休みをとって彼女と出かけていた気がする。
「鳥に乗るなら飛んでなんとかしろ」
 俺のきらいなものナンバーワンは、説教すること、ナンバーツーは説教されることだ。そういうと、タカはまた大きく一度羽ばたいた。
 五分ほどもそうしてから、ハンドルを押し込み、下へ向かう。タカは自然と交差するように高いところへ飛んでいった。別れの挨拶ひとつなく、たぶんきっと、もう会わない。
 再び慎重な運転が必要になる頃には、上りのときに聞こえなかった様々な音が聞こえるようになっていた。もう寝なさいと子供を叱る母親の声だとか、風呂場から聞こえてくる鼻歌だとか、火の用心、火の用心。カンカンと棒を打ちならず音さえ、遠くから聞こえた。
 ルリの声はもう聞こえなくなっていた。
 ゆっくりと駐鳥場に降り立つ。駐鳥だけは誰よりうまい自信があった。僕にしがみついて寝てしまったルリが起きないくらいにはうまかった。思考の水面は既にインコの頭よりもずっと高い位置まであがってきていた。その中に滑り込むようにインコの背から下りる。けれども溺れることはなく、足はしっかりとアスファルトを踏んで、立つことができた。
 自分のアパートの駐鳥場ではない。ここは、ルリのマンションだ。
 エンジンキーを抜き、キーケースからルリの部屋の鍵だけを外す。鍵を触った感触がずいぶんと新鮮で、随分と使っていなかったなぁ、と実感した。このままオートロックの鍵を開けて中に入ることもできるのだ。206号室。でもこの鍵はもう僕のものではなくなってしまった。オートロックの内側は夜間照明に変わっていて薄暗い。
 と、ロビーの奥にあるエレベーターが開いて、中から前髪をピンであげ、財布だけ持った女性が一人出てきた。その人はぎょ、とした顔で足を止める。こちらをじっと見つめている。
 それがルリだと気づくのにかなり時間がかかった。すっぴんの彼女を見るのはいつぶりだろう。ルリはすぐに表情を引き締めると、睨むように僕を見た。きゅっと引き結ばれた唇も、硬直したように動かない立ち姿も、なんだかすべての答えのようだった。
 僕はオートロックの左奥にある通路から集合ポストに行き、206号室のポストに鍵を投げ込んだ。すぐにきりきりとダイヤルロックを回す音がする。まだ覚えている。右に二回2、左に一回4。目を閉じていると、勢いよく戸の閉まる音がした。
 ふー……、とわざと長く息をつく。そうしてオートロックまで戻ったときには、もうエレベーターの扉は閉まっていた。コンビニに買い物にでも行くんじゃなかったのかな。邪魔してしまったな。悪いことをした。
 自分のアパートに帰ったら、ルリの私物を処分しよう。けれども、一つもないような気もした。発つ鳥あとを濁さず、という。彼女はインコに似た人だった。
 三本から二本になったキーケースはずいぶん軽い気がした。駐鳥場に戻り、インコの背にまたがると軽くなった鍵を挿し込む。

 水色の翼が広がり、飛びたつ瞬間。
 あぁ、彼女は駐鳥場のある部屋を選んで住んでいてくれたのだな、と今更気づいた。


(※文学フリマ京都発行『お脳の煮こごり』収録作品)

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