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ことばを知るほどに語れることが多くなる時期があって

姪の入学祝いにカメラを買った。お父さんのスマホを借りて写真を撮っているのを見ていたので、『彼女だけのもの』をあげたいなと思いカメラにした。衝撃に強くて防水、子供でも使いやすい大きさだけどちゃんとカメラしてるやつがいいなと考えた結果、NikonのCOOLPIX W150をプレゼントした。

あげた瞬間、「ねんがんのカメラだ!」「お友だちに『カメラ貰ったよ』って今すぐ言いたい気分だよ〜」と言っていて、あげた冥利に尽きたのだった。6歳にもなると、嬉しさを『誰かに自慢したい』との角度で語ることができるようになるのだな〜、かわいいね。

ことばを知るほどに語れることが多くなる時期があって、その楽しさを満喫したのちに、少し寂しさを知るのかなと思った。

ことばはとても便利なので、例えば「おいしい」と言えばあなたにもきっと「おいしみ」は伝わり、全てを分かり合えた気がする。ただし、苦み走っているとか、まろやかな脂身の感触とか、噛み締めると少しだけ押し返してからサクッと切れる歯応えみたいな体感が全て伝わっているわけではなくて、あなたとぼくの「おいしい」は完全には同じではなかった、みたいな寂しさ。

でも、「もしかしたら」と少しの希望を持って、語れることばをどうにか使って、こんなテキストを書いているのかもしれないのだけれど。

Netflixで『40歳の解釈: ラダの場合』(原題:《The Forty-Year-Old Version》)を見た。

ニューヨークに暮らすラダは劇作家。もうすぐ40歳になる黒人女性だ。業界誌が選出する将来有望な『30歳未満の30人』に選ばれたこともあるが、今は新作の発表もできず、高校で演劇を教えている。劇場オーナーやプロデューサーの示す納得のできない条件に対する苛立ちや表現したい自分と暮らしを守らねばならないジレンマをラップにしてみたところ、小さな手応えを感じ行動を始めてなんやかんやとする話。

たぶん歳をとるってことは、「語れることが増えること」なんだと思った。ただし「自分が語れることば」を見つけるには覚悟と行動が必要で、多くの人は現実に流されて、チャンスを手放してしまうのかもしれない。

《The Forty-Year-Old Version》は、もしチャンスを手放さなかったら?を語るフィクションだ。40歳まであと3ヶ月である劇中のラダが、自分好みのビートを作っているDJをInstagramで発掘してその溜まり場に勇気を持って入っていくところも強まるし、ステージに向かう前に若いラッパーたちとフリースタイルでお互いを鼓舞しあうところなんかも最高でした。劇中歌もかっこいいです。

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