10年前の写真たち 宮城県と福島県

画像1 普段通りのフザけた記事を書こうと思っていたが、14:46を過ぎてからはそういう気分になれなかった。地震発生当時、東京に居た私は直接被災したわけではない。しかし多くの知り合いが被災し、亡くなった人も居る。今も家には戻らずに、別な場所で新しい暮らしを始めているという人も少なくない。この10年、私はそういう人達に対して何もできていないし、今後もどうすれば良いのかわからない。せめて区切りのこの年に、一度きちんと振り返っておこうと思った。※被災された方々にはご覧いただかない方が良いかも知れません。
画像2 2011年10月頃、宮城県に住む知り合いにお願いして南三陸の様子を見学させていただいた。既にメディアへの露出は減っていた時期だった気がするが、復興どころか瓦礫の撤去作業さえままならないといった状態であった。
画像3 電柱が根元から薙ぎ倒された跡。
画像4 内装でさえこの様子である。津波の威力が見て取れる。
画像5 これほどの高さにまで到達する津波の威力は想像もつかない。30㎝程度の鉄砲水でさえ、人は立っていられないのだ。
画像6 テレビなどで度々目にした志津川病院。
画像7 翌年2012年、許可を得て福島県の警戒区域へ立ち入らせていただいた。
画像8 北海道警や兵庫県警も応援に集まっていた。
画像9 何も無くなった場所には、セイタカアワダチソウのような植物が生い茂っていた。当時の私は、この光景にも戦慄した。
画像10 今は保護され、震災遺構となる請戸小学校へも立ち入らせていただいた。
画像11 何が起こったらこんな風になるんだ、というような光景がそこかしこに見られた。
画像12 校内に設置された時計は、どれも同じ時刻で止まっていた。
画像13 こちらのメッセージも、現在は恐らく保護されているのだろう。
画像14 時間は経っているのに帰れないから片付けられないという状態で、まちは静かに眠っていた。
画像15 この数値が何を意味し、そしてどの程度のものなのかを今でも記憶している人は少ないのではないだろうか。
画像16 人間以外の動植物が逞しく成長している姿も見られた。人の手が触れられないまま時間が過ぎた空間というのは、想像以上に寒気のするものであった。
画像17 写真を振り返るだけで、冷たい汗が止まらない。震災当時、遠く離れた場所かモニタを眺めていただけの私でさえこうなのだから、被災された方々が受けた衝撃というものは想像のしようもない。万が一要請があれば私は直ちにこの記事を削除するつもりだ。

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