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一目惚れ




忘れられない瞬間って、誰しもあると思う。


まるで一枚の写真のように、鮮明に記憶に残るもの。


旅行先の景色とか、ライブのアンコール曲とか、勝敗を決めた一点とか、合格発表の瞬間とか。


僕だって、泣くほど感動した経験はゼロじゃない。
それなのに、この脳が掲示するのは決まってあの人の横顔だけだった。



ふざけんな。もう少し更新出来ないものか。


久ぶりに訪れたとあるカフェ、

彼女が好きだった苦いコーヒーを未だに飲む僕は、自分の頭に悪態をつくしかない。








昔からショートヘアが好きだった。





ふわりと揺れた綺麗な髪とそこから覗いた目が僕を捉えたとき、一目惚れという言葉を理解した。

名前も年齢も知らないその人に会うために、そのカフェに通った。僕は彼女と同様に、水曜日の常連客の一人になった。小説を開きつつ、こっそりと彼女を見ていた。大きなコーヒーカップを持つ横顔が大好きだった。




望んでいたチャンスは、ある日突然やってきた。 



席を立った彼女が僕の席のすぐ側で財布を落としたとき、僕の至って普通な人生も捨てたもんじゃないなと神様に感謝した。




「わ、すみません」



目を丸くした彼女が僕を見た。可愛い。とてつもなく可愛い。遠くから見るよりも50倍可愛かった。艶のある髪には天使の輪が見えた。





「ありがとうございます・・・あの、いつも読まれてる本、私も好きなんです、いいですよね。」



凛と澄んだきれいな声だった。恥ずかしそうに微笑んだ彼女は、想像の100倍美しかった。



「あ、あの」

思ったよりも声が震えた。 




「あの、あの、来週、もしよければなんですけど、ご一緒してもいいですか、あ、席です。」



そう言うと彼女は驚いた顔をしたのち、小さく微笑んだ。変な汗をかいているのが分かった。心の中で盛大にガッツポーズをした。 








そして、その日を境にカフェから彼女の姿は消えた。 










酷い事故にあったらしい、と店長から聞いたときは時間が止まった気がした。



その後の話はほとんど聞こえなかった。脳が壊れたみたいに、耳に届くすべての音が何の意味も持たないノイズだった。





コーヒーは全く味がしなくて喉を通らなかった。心臓が痛くて電車を途中で降りた。フラフラと二駅歩いて、意味もなくコンビニに寄って、なにも買わずに出た。かけがえのない、大事なものを失った気がした。彼女の名前も知らなかったくせに。 










そこから10年が経って、家庭を持った。 








だけど何年経っても、環境が変わっても、どれだけ沢山のひとに出会っても、あの儚い横顔を僕は一生忘れられないと思う。そのくらい、一世一代の本気の恋をしていた。 





コーヒーを啜る妻にこの話をしたら、嫌な顔をするだろうか。
それとも、懐かしいねと笑うだろうか。

どうしたの?と目の前で微笑む愛しい人に、あの頃よりも女性らしさの増したショートボブに、なんでもないよ、と嘘をつく。 






会社の近くのカフェでばったり再会したときは、ついに幻覚を見たかと思った。運命って、こういうことだと思った。実は昨日退院したんです、と笑った彼女に好きですと返した。


彼女は驚いた顔をしたけど、きっと僕の方が驚いていた。考えるより先に言葉が出たのは、人生初めての経験だった。



 

このカフェの水曜ブレンドが好きだったんだ、と笑う妻に、そんなことは知っているよと言いそうになる。



世界一ショートが似合う君に、髪と目だけじゃなくて心も美しかった君に、やっぱりちょっとだけ伝えたくなって、僕はバカにされる覚悟で聞いた。



「ねえ、一目惚れってしたことある?」 




すると君は、眉毛を下げて困ったように笑った。




「一回だけあるよ、 




少し俯いて本を読む顔が凄く好きで、でもその人にどうしてもこっちを向いて欲しくて。

わざと財布を落としたことがあるよ、一回だけね」

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