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代わりに清算したるわ、おばあちゃん。・先祖をたどる旅~葛藤を終わらせるために②


(上の記事の続きです。)

過去にとらわれないで、今を生きよう、などと心から言うには、ものごとを区切るような清算がいる。

親から受け継いだもの、もしくは自分がしたことの結果の清算だ。

清算したら、いくらでもとらわれずに生きればいい。
清算する必要のない人から生まれてきたら、ごく素直に、過去にとらわれる意味もわからないだろう。幸運なことだ。

過去にとらわれてる人は、上の世代を含めてマイナスを清算し損ねた人だ。

もしくは、過去にとらわれていないように見えて、
問題を先送りしてるだけの人もいる。

それは「今を生きてる」んじゃなくて、
単なる、次世代への無責任、だと私は思っている。

具体的にいうと借金みたいなもんだ。
上の世代が自分の感情のおもむくままに行動する、
もしくは直面するには心がつらすぎて蓋をして生きてると、

そのツケが次世代にまわる。

戦争中や、戦後すぐなど、今を生き延びるので精いっぱい、な人があふれていたのは理解できる。

単なる事実として、そのツケを払わされてる次世代もあふれている。
いまや国全体がそんな感じだ。

責めてない。単なる事実だ。

誰を責めることもなく、自分を厭うこともなく、子どもたちにこのツケを決して渡さないために、なにができるのか。

私が一人で先祖参りに旅立つことになったのは、その一つの過程だった。

正直、祖父母がどんな環境で生まれ育ち、
どんな生き方を選んで、死んでいったかは、

私たち、母を含めた次世代には全く、これっぽっちも責任はない。

責任はないが、関係ないと言い切れないくらいの影響をうけてしまうのも、また直接遺伝子を受け継いでしまった次世代だ。

祖父の実像や祖母への葛藤を書くには、母のプライバシーに関わるので、実際この場ではほとんど詳細は書かない。

抽象的な言葉やものごとばかりで、読み物としてはなんの面白味もないだろうことはあらかじめ断っておく。
これは私の備忘録だ。

一人で三沢空港に降り立った私は、初めての土地で、初めて一人でレンタカーをかりた。
ホンダのフィットで、バックモニターがついてるわりと新しい年式の車だった。
カーオーディオのつけ方もわからないのでナビ専用にして、
私は助手席に祖母を乗せた。
正確に言うと、祖母が乗っているつもりで運転していた。

私には死んだ人の姿をみたり、人ではないものの声を聴く能力はない。

ただ、生前「ふるさとに帰りたい」という独り言を幼いときに繰り返し聞いていたので、
「一緒に帰ろう」という気持ちでイメージのなかで祖母を車に乗せた。

車中の私の独り言はすべて、一緒にどこへも旅したこともない祖母に向いていた。

顔も、性格も、学歴も似ている、という祖母は、
私が連れていくにはふさわしいように思えた。

祖母を憎めば、色濃く血が連なる自分を憎むことになる。
私は自分を受け入れるために、祖母を許したかった。




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