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【サイドストーリー的な特集ページ③ 神山朝子編】

『おはなしのアルバム』から編集後記を特集してみました。「追記」のみ書き下ろしです。


編集を終えて (第一集1988年5月発行)


 年が明けて間もなく、100編を超す会話の原稿が届いた。信州と関東と離れていても、思いは変わらず近くにあった里枝子さんと私の、久しぶりの共同作業の始まり。ワクワクしていた。でもなかなか手につかなかった。

 カナタイプで、ていねいに集められた会話はどれも、読む人を意識しない、飾りのないことばで書かれ、なにげない感情のやりとりであるが、不思議なほど生き生きとして光っている。鮮やかに心に残る。胸を打たれる。どうしたらそういう感動をこわさず、移しかえられるか、カナタイプのままの方が伝わることも多いのではないか、迷ってなかなか進めなかった。

 ある時 “おはなしのアルバム”という副題を得て、急に楽になった。写真整理が好きな私である。ありのままに写されたものを飽きず見返して、並べたり、思い出したり、また再発見したりで楽しむように、この会話集づくりを手伝ってみようと思った。てらいがなくなった。

 里枝子さんとのつきあいは10年を超えた。彼女の事を想う時、こんなことばが浮かぶ。

何に 余儀なくされるものでもなく
自分の思いを ほんとに単純に
ほんとに 熱心に 生きる

羽仁もと子『みどりごの心』より

 ある本にみつけ、私も こんなふうに生きたいと、つよく つよく 胸に きざんだ ことば。
 視力がだんだん落ちて、自分が感じる以上に まわりから問題視されることも 多いと思う。生活する上や人と交わる上での困難は、のりこえても のりこえてもきりがないことであるだろう。
けれど、彼女は、時には楽天的に、またひたむきに、そして常に人への熱い共感のこころ、信頼のこころをもって、希望を抱き続けられる人だと、私は信じている。


バトンタッチ (第二集1989年9月発行)

 「あきちゃんとまさきちゃんは、よく待ってられるねえ」
と、思わず笑った。5月、広沢さん宅に3泊もさせてもらって、1年分のおしゃべりを楽しんだ時のこと。里枝子さんは、「待つ」ことにかけては天才だが、子どもたちも、そうとうなものだ。学生の頃、気が短くてすぐじれた、あのトラちゃんまでが、かなり辛抱強くなっていたのには驚いた。(ゴメン)

 「それからね」と私。「里枝ちゃんは、よく覚えていられるねえ、会話を」
「うーん、やっぱり聞くことが生活の中心だからね」と彼女。
谷川俊太郎の詩の一節に暮らしの息づかいがだぶる。

みみをすます
みちばたの いしころに みみをすます
かすかにうなる コンピューターに みみをすます 
くちごもるとなりのひとに みみをすます 
どこかでギターのつまびき 
どこかでさらがわれる 
どこかであいうえお 
ざわめきのそこのいまに みみをすます

谷川俊太郎『みみをすます』より

 そして気づく。「待つ」ことも「みみをすます」ことも、目をつむった方がいいんだなって。
 「失明して、どこか安心した」
と手紙をもらったことがあった。それは、失明の不安におびえ続けた時間を物語っていて痛々しく思えた。でも、1年ぶりに会った里枝子さんは、キュリーと一緒に安定した足どりで、目の見えない生活を、本当に生き始めているように感じられた。

 今、第二集の原稿を前に昨年6月に、第一集をつくり終えた日のことを懐かしく思い出す。私は興奮を抑えきれず、雨の中、100部の包みをかかえて走っていた。あの時、妊娠3か月。翌々日、里枝子さんから、
「幸せな思いが胸をひたしています。この会話集を10号まで出せたらいいなあって空想しているの」
と便りをもらう。ウンウンとうなずいた。数日後には、大学の恩師である、森 直弘先生から、「心満ちたりた仕事と思います」という、何より嬉しいご理解を頂くことができた。「私の会話集」と感じられた。

こうして深夜、机に向かっていると、里枝子さんも夜中に、ヘッドフォンをつけてワープロを打ったのだろうな。宇野さんも、お子さんたちの寝息を確かめながら赤鉛筆を握ったに違いないと、おふたりの姿が鮮やかに見えて来る。

 この作業が終ったら、今度は、印刷・製本を協力してくれる方々にバトンタッチだ。リレーのゴールが、「私の」であり、「私たちの」でもある、『おはなしのアルバム』第二集の誕生だ。もっと大きく育つかもしれない可能性を秘めながら…。


たんぽぽ

白山に乗って (第三集1990年10月発行)

 里枝子さん。あの海、真夏の内灘での歓声が、聴こえてきますね。初めて海に触れたというあきちゃんとまさきくんは、目を輝かせてその大きさに畏れ、潮の苦さを味わっていました。長女は波に乗り「すべりだいみたい」とはしゃぎ、長男も「イーッパイ!」を連発。でも、誰よりも興奮していたのは私たちではなかったかしら。波打ち際に腰をおろして
「来たネ。とうとう来たネ。海だって、ほらっ、来ちゃったじゃない!」
と、いつまでも笑い合って…。

 8月6日、私たちは白山1号にそれぞれ乗り込んで、揚々と金沢に到着。大学の恩師である森 直弘先生のお宅に3日間滞在させて頂き、僅かな時間も惜しんで、先生とお話をしました。瞬間 瞬間が貴重でした。先生のことばの重み、まなざし。私には夢のような時間でした。あれから1か月、旅の意味を思い返す日々が続いています。 

「幼い子をかかえて、なぜ無理をしてまで? もう少し待てば、楽に行動できるのに」
という内外の(自分自身の)声を、不言実行で跳ね返そうとした旅。キューちゃんと子どもたちがまきおこす、珍事件と珍道中の数々。北陸の人の温かさ。
「朝ちゃんにとっての銀河鉄道が森先生だと思うから、私はカムパネルラを恋うジョバンニのように、どこまでも一緒に行きたいと願っていたのだと思います」
と言ってくれた里枝子さんのこと。それら全てが、私を力づけてくれます。きっと、ずっと永く。

 そういう訳で、『おはなしのアルバム』第三集の編集にも楽しくとり組んでいます。今日は、表紙。あきちゃんの絵、力があっていいですね。ただ、もとの絵には「うしのえ」と記されており、表紙に使うのはどうかと迷っていました。すると長男が、確信に満ちて「ワンワン!」と。幼児の目を信じてみます。

 でき上がって何度も眺めていますと、慈しみ深い表情が、キューちゃんにだぶってきました。子供が好きで、泣いていると心配して慰めに来てくれるキューちゃんには、風に踊るシャボン玉と、穏やかな紫色が似合う気が私にはするのですが、里枝子さんはいかがですか?


おまけのたのしみ (第四集1991年11月発行)

 コスモスの花かげが、開いた本にくっきりと映って、美しい絵葉書のよう。秋の夜、時間を忘れて、会話集の編集に没頭するのは、とても楽しい。

 割付けは、ワープロの原稿を印刷の形に、はめていく作業。専門の知識もないまま、我流でやらせてもらっている。表紙は、里枝子さんとおしゃべりしながらイメージを膨らませる。どちらも工作のおもしろさ。あきちゃんが描いた、大きなまっ赤な蟹が、第四集の表紙のモチーフだったが、何度かやり直した後で、「この素材の持ち味を生かせた!」と感じた時は、やはり心が弾んだ。

そればかりではない。もうすぐ3才の長男は、表紙を見て
「カニさん、おつきさまがみえるかい?」
と言った。子どもの発想って似ていて、それでいて新鮮なんだナ、と感心させられる。6才になる娘もまた、いつの間にか『かおるの絵本』を作っていたりする。羨ましかったのだろう。

こんなふうに、会話集づくりには、おまけのたのしみが、あっちこっちに隠れている。この本を支える人たちは皆、わが友人のように思えるし、完成した本を渡す時の緊張感なども、近い将来の、楽しみのひとつである。

 だからと言って、手放しで、はしゃいでばかりもいられない。
「会話がどんどん複雑になってきて、とても書きとめられなくなってきた」
という、里枝子さんからの、ごく最近のメッセージ。成長と、それに伴う様々ないたみ。それらが、会話だけでは表し難いものに変化してきたのだろう。

遅かれ早かれ、形は変わる。けれど、これからも、記録を続けてほしい。そして、新しい表現方法を得て、里枝子さんや私たちが、母性の時を生きた証となるようなものが、一緒に作れたらいいね、と思う。

 ともあれ、毎年実感することだが、私は、会話集づくりを通じて、ずいぶん元気にさせてもらった気がしている。停滞感や自信のなさに飲みこまれている頃だっただけに、ほんとうに、ここちよい風だった。新しい生命も、母の試行錯誤をおなかの中で感じとっているらしく、一層力強い胎動を伝えてくれている。


追記・彼女と私の共同作業 ふたたび 

(2024年7月 note連載の編集後記)

 「彼女と私の」という小さな点から始まった『おはなしのアルバム』という会話集づくりでしたが、回を重ねるごとに人の輪は広がって行きました。盲導犬と幼な子と一緒に歩く里枝子さんのありのままの姿が、多くの人を惹きつけ、共感を生み出していったのでしょう。
 「彼女と私の共同作業」から「彼女とみんなの共同作業」という、大きなうねりになっていったのです。それは里枝子さんにとっても、私にとっても、予想外の喜びであり驚きでした。

 この会話集づくりをしていた20代後半から30代は、それぞれに、幼い子どもたちと過ごした蜜月、かけがえのない幸福な時間でした。ですから会話集は「母として生きた証」と堂々といえる、そのような大切な作品なのでした。

 里枝子さんは、この会話集がひとつのきっかけとなって、ラジオのパーソナリティーの仕事や講演会などに活動の場を広げて、生き生きとめざましい活躍を始めました。一方、私は、夫の脱サラ・独立にともなって家業に専念するようになりました。
 怒涛の40代を走りぬけ…。50代半ばで子どもたちが独立し、やっと一息ついた頃、里枝子さんは運命のように瞽女唄に出会い、私は整体を学び始めました。(怒涛の時代も、運命の時代も語りだしたらキリがありません。会話集に話しを戻します)
 そして今、60代後半に向かう里枝子さんと私の、約30年ぶりの共同作業が、このnote連載だった、というわけです。

今回のnote連載では、
① 見えない人も見える人も読めるように
② プライバシーを守りつつ
③ 書式を統一して
④ シンプルに

という点に留意して、里枝子さんと私で、校正・再編集しました。

 お目にとめてくださったnoteの読者の皆さま、ありがとうございました。『おはなしのアルバム』はいかがだったでしょうか。

 かつて恩師は、会話集づくりを“心みちたりた仕事”と表現してくださいました。生きておられたら、きっと同じことばをくださるでしょう。「書くということ」を教えてくださった森 直弘先生に、この場をお借りして深く感謝を捧げたいと思います。

 私にとって、書くことや、その延長線上にある文集づくりは、個人的な趣味の領域です。ほとんど、おおやけに発表することもないひっそりとした活動ですが、とても大切にしています。
 書くことで救われ、書くことで磨かれ、書くことで繋がっていく。それは、かけがえのない内的なよろこび…人生を豊かに深く味わうよろこびそのものなのだと実感しているからです。

 そして…

里枝子さん、本当にありがとう。

 想像していたよりずっと難しくて根気のいる作業でしたが、想像していたよりずっと大きなやり甲斐と高揚感がありましたね。「ふたりの共同作業」という原点にかえったような気がして、とても楽しかったです。

すべて、今だからこそできたことです。

「やったね! 私たち最強だね!」って乾杯しましょう!
33年前、内灘海岸で笑い合ったように…。

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