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自然のなかで生活して、自分の尊さを知った話

現代社会はとても便利で、多くのモノに溢れている。楽しいエンターテインメントは沢山あるし、人と人が繋がるコミュニティもいっぱいだ。人・モノ・情報が絶え間なく流れ、容易にそれらを入手できる、刺激的で楽しい世界。

でも、知れば知るほど、欲が出てくる。人が持っていて、自分が持っていないものに対して、劣等感を抱いたり、渇望したり。それで疲れてしまったことは、今日本で生活している人なら、一度は経験していると思う。

発散は、人によって違うけど、「非日常」を味わう人が多いと思う。

非日常と一言で言っても、沢山のジャンルがある。例えば漫画やゲームの世界に没頭したり、音楽を聴いたり、本を読んだり。登山や旅行だってそうだ。

私にとっての究極の非日常が、ロングトレイルだった。言葉が通じない海外で、更には電波もない山の中を、何日も歩く。自然のなかで、生活する。

それが何日も続くと、どうなるのか。

結論から言うと、私は自分という人間を、今までにないくらい尊い存在だと思うことができた。


◇ ◇ ◇


10代や20代の頃は、色んなコンプレックスがあった。特に10代の頃は、自分の顔が大嫌いで、鏡を見ては溜息をついた。すれ違う人が笑っていたら、「私の顔が変だから、笑われたのではないか」と思っていた。

「もっと可愛かったら、世界は違っていたのにな。親の良いところを遺伝していたら、もう少し整っていたのにな。」それはそれは、卑屈な人間だった。

今、コンプレックスがゼロになったかと言われると、そうではない。でも自然の中にいると、自分の見た目とか、悩みとか、そんなこと、どうでも良くなる。

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現代社会で容易に手に入るものが、全くない山の中。蛇口を捻れば飲むことができる、水すらない。水がなければ、死んでしまう。毎日川を見つけては、浄水して飲める水にする。世の中の便利は、そこにはない。

そんな中で、ただ生きるために歩く。

生きるためには、余計なことは考えない。頭を空っぽにしたら、自分が感じていた劣等感や、欲なんてものは、どこかに行ってしまう。

そんな頭がリセットした状態が続くと、ピュアな所から新しいものが入ってくる。

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木々や虫たち、自然界にいるすべての存在。尊い生命体で、私たちと共存していく自然の一部。

ご飯を食べている時に、ふと、こんなことを思った。
「彼らはなにを思って生きているんだろう」と。
いや、植物は脳がない。昆虫は脳があるけど、考えることはできるのか。大脳新皮質がないと、考えることができない。

「わたしは人間で、今、考えることができる。あれ?考えることができるって、凄くないか?」

人間社会に生きていたら、考えてすぎて悩んだり、辛い思いをすることだってある。コンプレックスを感じることだってある。

でも、人間に生まれだけで、それだけでラッキーじゃないか。

◇ ◇ ◇

カナダで出会った友人と、山に一緒に行った時、前世の話になった。
彼女は、ナメクジを見ながらこう言った。
「わたし、どうしてもナメクジが気になってしまうから、たぶん前世はナメクジなんだと思う。」

私は、前世はまだ分からない。でも、今世は人間に生まれたのだから、人間にしかできないことを楽しもうと思う。だって考えることができるのだから。

そして、考えすぎてしんどくなったときは、山に行って自然のなかの一員になればいい。頭を空っぽにして、ただ生きるために食べて、寝て、歩いてを繰り返す。そうすると、真っ白な、産まれたばかりの私になる。また考えることが素晴らしいと思える。

今の自分、人間に生まれた自分が、いかに尊い存在かを、知ることができるのだ。

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