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『運が良いとか悪いとか』(7)

(7)

太古の人間同士で、原初のコミュニケーショ
ンがどんな風になされたか、の想像を続ける。

人間の二人組がいて、そのうちの一方が鳥の
飛翔の鮮やかさに感心、感動して思わずなに
か叫んだ、または身振りをした。が、それは
それだけで終わってしまった……という、こ
れに類似のことはしょっちゅう起こっていた
だろう。ただ、これを人間の身体生理が孕ん
だ異和の表出と言うなら、その繰り返しのう
ちで身体性が取り込まれ、異和の表出次元が
違ってくる(異和の内にさらに異和が生じる
=異和がべき乗する)。

最初の
「おあ」
という発声には反応のしようもなかった相方
が、その
「おあ」
に続くどこか苦悶に似た表情(べき乗した異
和)を片割れの上に見たときには
「何か伝えたいのか?」
という否定形に始まるコミュニケーションに
踏み込んでいく可能性があるのだ。

ここでその相方が、片割れに
「おあああ」
と、末尾を伸ばすような発声を返すとしよう。

ここに初めて人間間で観念が言葉で共有され
る可能性が生じている。もちろんそれは当初
鳥の飛翔の鮮やかさに感動して何か神々しい
ものを予感した者の、その観念の中味からは
程遠いコミュニケーションである。

だがそれでも、そうした当初の観念の中味に
関わりなく、二人はどこかしらワクワクさせ
るものを持ったこの原始的コミュニケーショ
ン(否定の内にあるコミュニケーション、通
じないことの内でそれでも何か伝わりそうな
コミュニケーション)に熱中するだろう。少
なくともその人間集団がそれなりの規模を持
っていれば、こういうことに熱中し得る一組
や二組は必ずいるに違いない。

ここで赤ん坊と大人(保育者)のコミュニケ
ーションを無造作に重ねるのは間違いの元か
も知れないが、例えばごきげんな赤ん坊が保
育者に向かい手を突き出すようにして
「ううう」
と言ったら大人がそれに
「おお。ううう、ううう」
と応えになっているのかいないのか分からぬ
反応をして、それでもこういうやり取りがま
ったく無意味とは思えない、少なくともこう
したやり取りがあるのとないのとでは結果が
違うはずだと考えるのは決して不自然なこと
ではない。

「おあ」
と叫んで相方から
「おあああ」
と返された者はどう反応するか?

今度は返された方がキョトンとするだけ、と
いうこともあるかも知れない。しかしそれで

(伝わらぬものの持ち合い)
とも言うべき状態が二人の間で共有されるだ
ろう。それによって異和(シンボル思考)が
身体性から浴びる打ち消しの形が変わる。

と言うのは、それまでは打ち消しは当の個体
の身体性からだけやって来たのが、今度は相
方の反応を通した複数個体の身体性(ペアも
しくは群れでいるときの身体性)からもやっ
て来る。

このとき原初の観念(シンボル思考)は、そ
れを抱いた当の個体だけが分かっている中味
と、ペアで分かち合える内容と、集団(三個
体以上)で共有出来る中味とに、言ってみれ
ば潜在的に多次元化したことになる。

思わず
「おあ」
と叫んでしまった個体の、鳥の飛翔に対する
感心、感動はその個体の内で変容していく可
能性と、ペアを組んだ他の個体との間で変容
していく可能性、さらには集団、群れ(三個
体以上)の間で変容していく可能性をそれぞ
れ固有の領域として持ちながら、関連もし合
っていくだろう。


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