99%はバイアス
こんにちはKenです。
今回は「99%はバイアス」という本を読んだので、備忘録も兼ねて思ったことなどを書いていきます。
読んでいて印象に残ったところをピックアップして、それに対する感想を述べている形になります。
本を買うときの参考などにしてもらえたらと思います。
そもそもバイアスのない人はいない
バイアスのない人はそもそもいない。なぜなら、人は生きているだけで誰かの影響を受けているし、本当の意味でフラットな考え方ができるはずがない。それが可能なのは純粋無垢で知識がない赤ちゃんくらいのものである。
では、その傾向を変えることができないのかというとそうではないと思うが、バイアスを治せないことはあると思う。
その1つにディベートができないことが挙げられるのではないだろうか。
自分の考えに固執するあまりに誰の意見も聞かない人というのは少なからずいる。あなたの身近にもいるだろう。
必要なことは反対意見も立場を変えて考えてみることであり、それによって見えてくる一面を知った上で話をすることである。相手の立場などを考えないのは一方的な意見の押し付けに感じられても仕方がない。
自分はバイアスがないと思うのでなく、何かしらのバイアスにかかっているのではないかと認めて知ることが大切である。
自らの正義感だけで動いていれば、いつか気づけば周りから人は離れていき1人になってしまう。
相手の話に耳を傾けてみよう。
少なくとも自分はバイアスがかかっている状態が常であり、そのレベルを下げるように努めることができることであると思う。
運には期待しないほうがいい
仕事や私生活においても運は重要な要素の一つであることは間違いない。でも運に頼りすぎて期待しすぎても良いことはほとんどないと思う。
成功と言われる類には運は必要であるが、それがいつ誰のもとに降ってくるかなんてわからない。むしろ外れる確率の方がずっと大きい。
人生をその運にベットするのは割に合わなさすぎる。リスクが高すぎる。失敗すれば後がなくなるのに宝くじを大量に買って祈っているのと同じではないだろうか。
社会で活躍している人は少なくとも運がいいのは間違いがないと思う。しかし、その運が自分に巡ってこないからといって不貞腐れて何もしないのは子どもと同じである。
運には期待せず待ちの姿勢が良い。当たればラッキーなのであり、すべきことは巡ってきた運を生かすためにも、日常の人から見えない普段の努力が必要なのである。
普段から色々準備していればリスクヘッジにもなる。
運には期待しないこと。
運がくることを待たないこと。
運がきた時に最速で動けるようにすること。
同調圧力を壊す
同調圧力を破る1つの例として裸の王様がある。
ある国で商人から見えない服を見せられたときに、意地を張って見えると言ってしまった王様がその「服」を着て街に出た。街の人も当然服を着ていないことはわかっていたが、相手は王様でもあり注目を浴びないように見えるように振る舞っていた。空気を読んでいたとも言える。しかし、服を着ていないことを最初に指摘してその空気を壊したのは子供だったというお話。
このとき、なぜ知識も経験もある大人がわかっているのに最初の声を上げる人にならなかったのだろうか。むしろその知識や経験が邪魔をしていたと言えるかもしれない。
子供は純粋かつ素直な傾向が強いからこそ、周りの空気を気にすることなく屈託なく思ったことを言えるのだろう。
それこそバイアスが少ないと言える。大人の世界では本当は言うべきことがあっても、会社や上司、その他の周りの空気感などで言えずにいることが多い。むしろ指摘すれば怒りを滲ませながら反撃を加えてくるかもしれない。
そんないろんな考えがよぎるし、特に日本人は私を含めて目立つことを避ける傾向がある。
また、そもそも論ではあるが、王様が最初の時点で服が見えないことを素直に認めていれば何も問題はなかったのである。
王様しかり、同調圧力然り、素直に行動していれば被害は少なく済んでいたと思う。
同調圧力に屈しない1番の方法は素直に思ったことを言うことなのかもしれない。
自分の機嫌は自分で取る
いくら承認欲求などを満たしたいとしても、それを他人に頼っているのではいつまで経っても満たされない。
人から認められるということはかなり難易度が高いし、ほとんど満たすことはできないだろう。
それに比べて自己承認にそんなことは関係ない。
自分をコントロールできるのも自分だし、相手からコントロールされるものでも影響を受けるものでもない。
全ての軸を他人に置いていたら自分が何者かわからなくなる。
自分の考えがなければ自分の人生を歩くことはできないし、本当の意味での幸せも感じることができないだろう。
人のために生きることが美化されている日本だから変に感じるかもしれないが、本来はまず自分が自分のために生きるべきである。
そうして自分で自分を満たした人が他人の人生も考えることができる余裕が生まれてくるのである。人に何かを期待するのではなく、自分がどうしたいのか、自分の気持ちはどう言っているのかにもっと目を向けていくべきである。
そうすれば、承認欲求にとらわれずに、地に足をつけて自分の道を歩くことができると思う。
口先だけにならない
「やったことないことはやる。やってみて嫌だったことは『NO』という」はめちゃ大事やと思う。
やったこともないのに何かをわかるなんてことは口が裂けても言えないし、大抵は自分が予想もしないことを感じるものである。
興味がないと思うものでも、少し知れば意外と興味のそそられる内容があることも少なくない。その行動の分だけ可能性が広がる。
自分がされて嬉しいことは、躊躇せず相手にもしたほうがいい?
「自分がされて嬉しいことは、躊躇せず相手にもしたほうがいい」と言う一文はあるが、あまり賛成ではない。
相手にもしたほうがいいことももちろんあると思うが、得手して自分とは違う人間であって価値観や感性も違うのは当たり前である。
それなのに躊躇せずに行うのは少し乱暴なように思う。
嬉しいことは相手にもしたほうがいいと言うことには賛成だが、何も考えることなく条件反射的に行うのは少し違う。
躊躇せず行うのではなく、少なくとも少しは相手の状況や考え方などを考慮して行うべきである。いきなりそんなことをするのは何も考えていないことと同じなので、軋轢も生むのではないだろうか。
根拠を見つける
この本に書かれていた、「ソースある?」「根拠ある?」と問いかけることは現代社会でかなり求められる力の一つであると思う。
誰が言ったのかもわからない情報を本当に信じることができるのだろうか。
あの人が言っていたから正しいと言えるだろうか。
「あなたはなぜその情報を信じたのですか?」と聞かれたときに理由を示しながら答えることができるだろうか。
ほとんどの人がないだろう。
自分で根拠となる情報を探しにいくのは、時間がかかり面倒くさい作業だからだ。ひたすら流れてくる情報をいちいち精査する余裕がないと思うのかもしれない。
だがそれで間違った情報を信じて行動した結果、遠回りしていることも少なくないだろう。
思い返してみれば、「信じて損した」と思い当たる節はあるのではないだろうか。
どんな情報であっても一旦は白黒の判断をせず、グレーな情報として頭の片隅に入れておくほうがいい。
デマに踊らされるのは滑稽である。自分で調べることを始めないといつまで経っても本当の意味で真実に触れることはできないし、他人の掌で踊らされ続けることになりかねない。
良い嘘はついてもいい
嘘は無条件で付いてはいけない悪いものだろうか。
思うに嘘そのものが悪いのではなく、
嘘のつき方が問題なのではないかと思うのである。
嘘というと条件反射でダメだという人がいるが、全ての嘘がそうなのだろう。相手のことを思って伝えないほうがいいこともあるだろうし、そのためにつく嘘は本当に悪いもので必要のないと思う。
もちろん限度はあるが、それでもついて良い嘘とつかなくていい嘘があるのは間違い無い。
普段の話をするときも、少し話を盛るという名の「嘘」をつくことしてみるものいいかもしれない。
私は苦手なので、相手を楽しませる目的として効果的なのはわかっているのだが、いかんせんストレートに話しがちになる。
だが、コミュニケーションを円滑に取ることやその場の空気を明るくさせたり、話を回していく大きな技術であることに間違いはないと思う。
日常生活で多少話を盛る程度の嘘を見分けることはできないし、それくらいのことであれば誰も気にしない。結果、話が面白くなって、口がうまい人とという印象を与えることができるのであれば万事OKである。
嘘は悪いものではない。要は嘘のつき方であり使い方が問題になるのである。
相手のことを考えて行うものに関してはどんどん取り入れていくべきであるとも思う。
よろしければサポートお願いします!よりいい情報を発信します。